第4話 第四の主君
ポストゥムスは、報告書より先に火縄銃を見た。
正確には、火縄銃そのものではない。異邦人から取り上げず、しかし自由にもさせず、二重の見張りの下で運ばれてきた一本だった。
長い木の台に、鉄の筒が据えつけられている。
「弓ではない」
マルキアヌスが言った。
「投槍でもない。火と煙を出します。斥候の馬が音だけで跳ねた」
「射程は」
「分かりません。撃たせていません」
「賢明だ」
皇帝は鉄筒に触れなかった。
知らぬ武器を触って賢そうな顔をする趣味はない。必要なのは珍しさではなく、それを持つ三百二十人が、誰の命令を聞くかだった。
トリーアへ近い軍営の一室には、異邦人について集められた物が並んでいた。木札。墨のようなもので書かれた帳面。曲尺。墨縄。小さな秤。見慣れぬ刃の鋸。柄の短い槌。
どれも帝国を滅ぼすほどの品ではない。
だが、三百二十人が同じ命令で動き、その中に木を切る者、鉄を打つ者、車を扱う者、食を配る者までいるという報告は、武器より興味深かった。
「女と子もいるそうだな」
「四十人ほど。家族、奉公人と思われます」
「軍ではない」
「では移民ですか」
「移民なら、どこの土地から来た」
答えられる者はいなかった。
その日の午後、異邦人の代表が連れて来られた。
先頭の男は、さほど大柄ではない。
四十を越えているだろう。顔には旅の疲れがあった。だが、周囲を見回す目だけは落ち着いている。背後には、白髪の混じる職人頭らしい男と、若者が一人。護衛は刀を帯びているものの、火を噴く筒は持っていない。
ポストゥムスがまず見たのは、代表の男ではなかった。
後ろの者が、男を見る目だった。
命令を待つ目である。
「名は」
通じないと分かっていて問う。
異邦人は自分の胸を指した。
「いけだ、てるまさ」
ポストゥムスは一度だけ復唱した。
「テルマサ」
男の眉がわずかに動く。
軍営に呼ばれていたアウレリア・セウェラが、卓上へ蝋板を置いた。
彼女は通訳ではない。
東方の商人と取引した経験はあっても、目の前の男たちの言葉など一語も知らなかった。ただ、数と品物を照合する仕事には慣れている。
セウェラは小麦の袋を指し、ラテン語で言った。
「フルメントゥム」
次に袋を開き、粒を掌に載せる。
若者が何か言った。
「こめ、ではない……むぎ」
セウェラは音だけを蝋へ刻んだ。
次は水。木。馬。車。
五つほど続けると、若者は仕組みを理解した。今度は向こうから指を差し、日本語を言い、セウェラがこちらの語を返す。
会話にはほど遠い。
それでも物の名前は、橋の最初の石になった。
テルマサはその作業をしばらく見ていたが、やがて卓を指した。
紙を出す。
広げられた図は、ポストゥムスには最初、迷路に見えた。
四角い区画。折れた通路。水を示す波線。門らしい印がいくつもある。
テルマサは木片を兵に見立て、通路へ置いた。一つの門を抜けても、まっすぐ奥へ進めない。曲がり角のたびに上から矢を受ける――そういう意味らしい。
マルキアヌスが鼻で笑う。
「狭すぎます。追撃に出る兵まで詰まる」
テルマサには当然その言葉は分からない。
だが笑われたことは分かったらしい。
白髪の男が何か低く言い、指で通路をなぞった。
ポストゥムスは図面より、そこで初めて異邦人の代表へ視線を戻した。
男は怒らなかった。
自分の部下を止め、相手の指摘が何かを知ろうとしている。
「面白いな」
マルキアヌスが肩をすくめる。
「図がですか」
「いや。あの男だ」
ポストゥムスはセウェラに合図した。
数を聞け。
セウェラは三百二十を示した。次に小麦袋を一つ置き、三百二十の印の横へ並べる。両手を広げ、何日、という仕草を探る。
長いやり取りの末、異邦人側の勘定役が五本の指を立てた。
五日。
持参した主食が五日ほどしかないということらしい。
ポストゥムスは椅子にもたれた。
珍しい武器。
珍しい図面。
珍しい衣服。
だが、腹は珍しさでは満たせない。
三百二十人を五日後にも生かしておくなら、誰かが麦を出す。
軍が出せば兵の取り分が減る。都市が出せば費用を求める。皇帝が出せば、なぜ素性の知れぬ異邦人へ金を使うのかと問われる。
ポストゥムスは火縄銃を指した。
次に三百二十の印。
最後に食糧袋を指す。
「これほどの者を食わせる価値が、お前にあるか」
もちろん言葉は届かない。
だが問いの形は届いたらしい。
テルマサは一瞬だけ目を伏せた。
それから、自分の胸を叩かなかった。
背後の白髪の男を指し、鋸を指す。
若者を指し、荷札を指す。
外にいる荷車の方角を指し、馬を示す。
最後に、三百二十の印を掌で囲った。
自分一人を売り込むのではない。
集団そのものを、使える形で示そうとしている。
ポストゥムスは初めて、口元をわずかに緩めた。
「なるほど」
この男は、自分を食わせろとは言わない。
部下を食わせる仕事をよこせ、と言っている。
ならば試す価値はある。
「都市を見せろ」
皇帝はマルキアヌスへ言った。
「軍営もだ。道路も、倉庫も、工兵も。こちらに何があるか知らぬままでは、こいつらが何をできるかも分からん」
「自由に歩かせるのですか」
「監視はつける」
ポストゥムスは図面を畳もうとしたテルマサを見た。
「そして、こちらも見せる。ローマが何も知らぬ国だと思っているなら、その勘違いから直させろ」
テルマサがこちらを見る。
意味は分からないはずなのに、目だけが細くなった。
その顔に、ポストゥムスは妙な親近感を覚えた。
相手もまた、自分を値踏みしている。
それでよい。
主従とは、最初から信じ合う者同士が結ぶものではない。
使う価値と、従う価値を互いに測るところから始まる。
謁見が終わっても、ポストゥムスはすぐに異邦人を帰さなかった。
庭へ出させ、荷車を一台だけ持ってこさせる。車の軸、車輪、荷の縛り方。次に大工へ木片を渡し、何をするか見た。宗右衛門は戸惑いながらも墨縄を打ち、鋸を引き、短時間で寸法の揃った部材を二本作った。
皇帝はそこで初めて、報告にあった「職人集団」という言葉を実物で理解した。
兵なら、戦がなければ食うだけになる。職人なら、城壁がなくても仕事はある。壊れた車、倉庫、橋、兵舎、柵。国境には直す物が尽きない。
一方で、テルマサは庭の兵を見ていた。槍の揃い方、号令への反応、補給品の受け渡し。彼が何を考えているか、ポストゥムスには分からない。
ただ、最後にテルマサが軍営の穀物袋を一度見てから、自分の三百二十人がいる方角を見たのを、皇帝は見逃さなかった。
欲しいのは地位より先に飯だ。
それなら交渉はできる。
ポストゥムスは護衛隊長へ命じた。
「明日、都市を通せ。見物ではない。彼らに、こちらの値段を見せろ」
翌朝、輝政たちは石の町へ入った。




