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第2話 知らない騎馬

森川弥七郎は、敵の目を知っているつもりだった。


だが、対岸の丘の騎兵たちは、斬り込む前の目をしていない。荷車を一つ、二つと指で追い、夜の野営地を見張っていた。


翌朝、彼らは増えていた。


川はこちら側の草地と対岸の丘を隔て、下流の曲がり角に石の浅瀬がある。昨日、輝政が見つけたあの浅瀬へ、騎兵の一部が夜明けに渡ってきた。今は同じ岸の下流側から日本人の水汲み場を見張り、残る騎兵は丘と浅瀬を押さえている。水汲み場と浅瀬の間に立たれれば、川へ降りる細い坂を塞がれるのだった。


弥七郎は、足もとに転がる空の水筒を拾った。


昨夜、最初の鍋をもらえたのは怪我人と子どもだった。炊事の粥も薄い。桶は足りない。鍋も煮沸の火も、一度には増やせなかった。


「水汲み、十人。桶を運べ」


井上新六が呼んだ。


「槍は置け。桶を持つ手が足りなくなる」


「向こうは武装しておりますぞ」


若い足軽が抗議した。


「なら、お前の槍に水を入れて運べるか」


新六は桶の取っ手を一度持ち上げてみせた。濡れた縄がぎしりと鳴る。


川へ降りる坂の手前で、同じ岸の三騎が馬を寄せた。盾が陽を返し、槍先が下がる。対岸の丘にも、まだ何騎かいる。


一人が知らない言葉で叫ぶ。


弥七郎は足を止めた。後ろの足軽たちも止まったが、坂から一歩だけ飛び出した者がいる。火縄銃を抱えた若い警固兵だった。


彼は昨夜、輝政の命で二挺だけ残された警固銃の持ち手である。銃に火はなく、火薬も別の箱に封じてある。それでも男の手が銃身を上げかけると、向こうの馬が横へ跳ねた。


「待て!」


弥七郎が声を上げるより早く、輝政が男の背で言った。


「何を命じた」


「い、いえ、撃つつもりでは」


「構えぬことも命じた。銃を下げろ」


男は土へ銃口を向けた。輝政は岡部を振り向く。


「警固の二挺は後ろへ。あの者は今夜の番を外せ。銃は別の者に預けよ」


岡部の顎が硬くなったが、逆らわなかった。


「殿、あの者どもを押し返すなら今のうちでは」


「浅瀬を見よ」


輝政の指先には対岸から続く騎馬の列があった。丘に残した兵を含め、こちらが見ている三騎だけでは済まない。


「一発で国を一つ敵に回すやもしれぬ」


「威を示さねば、囲われます」


「すでに囲われておる」


弥七郎は息を呑んだ。


確かに、浅瀬も下流の岸も彼らのものだ。こちらの馬を集めて突破を試みれば、荷車と怪我人を置いてゆくことになる。


しかし川へ行けねば、今夜の粥さえ炊けない。


弥七郎は水筒の栓を抜き、逆さにした。最後の一滴も出ない。口へ運ぶ真似をして、川を指さす。


騎兵が何か叫んだ。


槍先が弥七郎の胸へ向く。喉がきゅっと縮み、もう一歩のつま先が地面に縫いつけられたようになった。水筒を落としたら、刀に手が伸びるかもしれない。刀に手を伸ばしたら、槍が来る。


「弥七郎」


輝政の声がした。


「続けろ。だが勝手に踏み出すな」


弥七郎は水筒を振った。からからと軽い音がした。


対する騎兵の一人が掌を広げる。指は五本。それから川辺の一点を指し、押し戻すように手を動かした。


「五人……ですか」


新六が眉を寄せた。


「五歩下がれ、かもしれん。桶が五つ、ということかもしれんぞ」


輝政は答えず、井上の肩へ手を置いた。


「まず三人だけ。桶一つで試せ。わしらはここで待つ」


「殿、三人では」


「相手の言うことを知らぬから、試す」


新六と弥七郎、それに桶を担ぐ一人が坂を下った。騎兵の指が再び開いた。三人は止まり、二歩だけ進む。槍は動かない。


膝まで川へ入る。桶を沈めた瞬間、重みが腕へ伝わった。


弥七郎が振り返ると、騎兵が残りの二人を手招きした。新六が大きく頷く。岸に待たせた者のうち二人が加わり、五人で一つの組になった。


五人でよいのか。五人までなのか。まだ誰にも確かめる言葉はない。それでも水を満たして坂を戻るまで、槍は突き出されなかった。


次の組は五人、桶は二つ。井上は坂の上で人を入れ替え、空になった桶を次々送り出した。大きめの桶でも一つ二十升には遠く、重い水を満たせば二人で担ぐしかない。十往復を超える頃には肩が擦れ、手の皮が赤くなった。


汲んだ水は川辺で濁りを見て、上澄みを鍋へ回す。佐吉の組は乾いた薪を選んで火を守ったが、煮沸できる量は運び込んだ水に追いつかない。昼までに病人の飲み水と炊事の一部は確保できた。人も馬も、まだ足りぬ。馬方は上流側の別の浅い箇所を探しているが、騎兵の目が許していなかった。


汲み場から少し下手で、一騎が馬を下りた。革袋を川に浸し、水を受ける。弥七郎は思わず見てしまった。


その男もこちらを見た。


互いの手には水がある。弥七郎が桶を抱えて立つあいだ、男は革袋の口を縛り、馬の頸を軽く叩いた。


「どうだった」


戻ると、足軽の仲間が訊いた。


弥七郎は擦りむけた肩を押さえた。


「殺すだけなら……もう槍が飛んでおります」


言ってから、自分の声が少し震えていると気づいた。


午後、坂に立つ騎兵が代わった。丘から渡ってきたらしい新しい男たちは、汲み場ではなく野営地の人と荷車を見ている。何度か日本人の列を指さし、何かを言い合った。


先頭の男が胸を叩き、自分を示した。次に輝政を指す。さらに腕を広げた日本側の列を払いのけるように動かし、指を二本立てて、こちらへ来いと招いた。


岡部の手が刀にかかった。


弥七郎は水筒を握りしめた。水を貰う交渉は、もう終わったらしい。


今度、相手が欲しがっているのは水筒ではなかった。

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