第1話 霧の向こうの点呼
「数えよ」
池田輝政が最初に命じたのは、祈祷でも斥候でもなかった。
「人を数えよ。馬と荷車は別だ。怪我人を分けろ。鉄砲の火縄は消させ、火薬は勘定方の前へ。勝手に撃った者は許さぬ」
家臣たちは、見知らぬ河畔で主人の顔を見た。
つい先ほどまで、一行は名古屋城の天下普請に関わるため、街道を進んでいた。慶長十五年の初夏。車輪の立てる埃と汗の匂いの中、先発の普請衆は木材の勘定や諸大名との段取りを口々に話し合っていた。
そこへ霧が来た。
馬の耳も見えなくなる濃さだった。輝政が列を止めさせた時、後方で車が傾き、誰かの悲鳴が上がった。霧は声さえ吸い取ってしまうようだった。
やがて白さが薄れると、道がなかった。
目の前には大きな川が流れ、対岸には木の少ない丘がある。こちら側の岸には草地と疎らな柳、背後には湿った林。川はやや下流で曲がり、その先に石の多い浅瀬らしい場所が見えた。岸の中ほどには、人や馬が踏み固めたような下り坂もある。
来た道を探して振り向いた輝政は、草を見た。荷車の轍は霧の晴れた草地で途切れている。
名古屋への遅参ならば申し開きもできる。だが街道そのものがないとは、いったい誰に申し開けばよいのか。
播磨に残した督姫や子らの姿が不意に浮かんだ。自分だけが消えたならば、あの者たちは――。
「人の脚が、車の下に!」
その声に輝政は踵を返した。
「車を動かすな。荷を下ろせ。宗右衛門、職ごとに並べよ。名を呼んで返事を取れ」
「はっ」
普請奉行の榊原宗右衛門が、頭巾を脱いで走った。
「主膳。米、干飯、味噌、塩を改めよ。何日持つかだ。祝い事の帳面ではないぞ」
「承知仕りました」
河合主膳は一礼を深くしすぎて、膝を泥につけた。それを払う間もなく荷車へ向かう。
「新六、馬と車。脚の立たぬものから診よ」
「殿、人の手も足りませぬ。馬方を二人、怪我人へ回してよろしいか」
「よい。車の修理はその後だ」
井上新六はもう返事をしていなかった。肩で車輪を支えようとしている若者を怒鳴りつけ、木片を噛ませて車体を持ち上げさせた。
「殿、霧へ戻ればまだ道があるやも知れませぬ」
岡部源左衛門は背後の林を睨んでいた。妻子を播磨に残した足軽大将である。
「二十騎もあれば、あの林の奥を――」
「調べるなとは言わぬ。遠くへ行くな。まず人が揃ってからだ」
岡部の頬が強張った。「御意」と言いながら、手は刀の鍔に置かれたままだった。
ほどなく、泣き声が上がる。
「子が一人おらぬ!」
輝政は声の方へ向き直った。女たちが荷の陰を探し、足軽が車の下を覗く。森川弥七郎が腹這いで荷車の奥へ潜り、額を擦りむいた幼子を抱いて出てきた。
「ここに! 息はあります」
「母親へ返せ。傷は医療方に見せろ」
それから輝政は川を指した。
「水を汲め。ただし、すぐには飲むな。泥を沈め、上澄みを煮よ」
「薪が要りますぞ」
厨番の佐吉が鍋を抱えて言った。
「乾いた枝を林の縁で拾え。深追いするな」
川辺へ行った者たちが、ひしゃくで水を掬った。流れの遅い岸際は足で踏むと濁る。新六は少し上手の流れを選び、桶へ入れる者と運ぶ者を分けた。桶の水は布で粗く漉し、土が沈む間に鍋を据える。折悪しく前夜の雨を吸った小枝ばかりで、佐吉は何度も息を吹き込んだ。
最初に沸いた鍋は小さかった。熱い水は、脚を挟まれた荷役人と幼子へ先に回された。皆が喉を潤したわけではない。馬には別に川の浅い場所を見つけねばならなかった。
輝政は炊事場を川より少し高い平地に一箇所定め、排泄の場所は水汲み場から離した下流側に設けさせた。土を掘る鋤はある。それを使う手が減らぬうちに始めるしかない。
朝のうちに見つかった負傷者は十四。車の下から引き出した男の脚は添え木で固定したが、本人は歯を鳴らしている。正午近く、ようやく別の組から「肩を外した大工」の報告が来た。人数の照合はなお終わらない。昼餉の支度も遅れていた。
「鉄砲は」
輝政が訊くと、岡部の配下が答えた。
「二十四挺。火縄は消し、銃と火薬を分けて番をつけました。警固に要る二挺のみ、殿のお許しがあれば持ち出せるように」
「持ち出す時は名を記せ。火縄に火を移すのは、さらにわしの命でだ」
「はっ」
日が傾きかけて、宗右衛門が名札の束を揃えてきた。
「三百十九……いや、待て。新六の組の荷役一名が医療方へ移されております。重ねて数えぬように」
勘定方が同じ名の札を二つ並べた。怪我人と職方の帳面を別にしたため、一人を二度数えかけたのだ。
輝政は札を一つ抜いた。
「生きている者は一度だけ数えろ。死者も、勝手に作るな」
数え直した結果は、三百二十。全員がいた。
ただし脚を折った荷役が一人、肩を外した大工が一人、軽傷者は二十を越した。馬は四十数頭、荷車は二十数両。走れる車と動かせぬ車を分けると、その場に留め置く荷が残った。
主膳が帳面を抱えて進み出た。
「兵糧にございます」
「申せ」
「米と干飯を合わせ、平常の配り方なら五日ほど。節しても、そう長くは」
「味噌は」
「甕に分けて運んでおります。味噌はまだございます。塩も。ですが、腹を満たすものは」
主膳は荷札を握り直した。
「五日か」
輝政は聞き返さなかった。
名古屋で補うための荷である。三百二十人と四十数頭が、どことも知れぬ土地で年を越せるだけの備えではない。
「病人と子の分を少し減らせば」と主膳が囁いた。
「減らすな。働く者の飯も抜くな。倒れれば、いよいよ運べぬ」
「されど殿、五日と知れば皆が騒ぎましょう」
「構えることと、勘定を偽ることは別だ」
輝政は帳面を返した。
「米は分けて封をしろ。今夜から勝手炊きを禁ずる。不服はわしに言わせよ」
その時、川の対岸で馬がいなないた。
丘の稜線に影がある。丸みを帯びた兜、長い槍、見知らぬ形の盾。一騎、二騎、三騎。
さらに、丘の裏から馬が現れた。
「鉄砲に触るな」
輝政は顔を上げたまま命じた。
「まだ敵ではない」
岡部が低く問う。
「では、何者にございましょう」
答えられる者はいなかった。
対岸の騎兵が、こちらの荷車を指さしている。何かを数えていた。




