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  作者: ゆくえ知らず
柳沢邦雄

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柳沢邦雄 1

 

  柳沢邦雄


「ただいま」

 玄関で靴を脱ぎながら言った僕の言葉に、家が沈黙で応えた。廊下のライトはついているが、人の気配はしない。業務時間は終了したのだろう、お手伝いのハルさんは帰ってしまっているようだった。

 キッチンを覗くと、カウンターの上のお盆の上にハルさんが用意した夕食が並び、そしてとうに冷えてしまっていた。一旦荷物を置くために、二階の自分の部屋へ向かう。

「パパを弱いなんて言わないでね」と言った牧之条さんの言葉が蘇る。階段を上る視界が下手なカメラワークのようにゆらゆらと揺れて、気持ちが悪い。

 自分の部屋に入ると、畳まれた洗濯物がベッドの上に置いてあり、読みかけだった本は机の上に揃えて積まれている。朝自分が出て行った時の生活感は綺麗にぬぐい去られて、住宅展示場の部屋のように見える。

 いつものことだ。

 いつもと同じことなのに、今日は神経を逆なでされたように気にかかる。着替えて一階に降りる。アンプのスイッチを入れて音楽をかけてキッチンに入り、用意された夕食を順番に電子レンジで温めていく。

 土曜日には牧之条さんと一緒に根津高校に行くと、今日の集まりで決めた。謎解きが一歩前進するかもしれないというのに、この不安はなんだろう。 

 カウンターの上の小さな写真立てを見た。その中から笑いかける女性を見た時、自分の感情を理解した。僕だけが牧之条さんのお父さんが生きているとは信じることができないのだ。

 牧之条さんは、お母さんの亡くなる現場にいた。お母さんが亡くなるのを目の前で見た、そして忘れがたい記憶として刻み込まれている。それはとても辛いことだろうけど、それだからこそ亡くなったお母さんとは違って、お父さんはどこかに生きていると感じることができるのかもしれない。だからあれほど強く言い切ることができたのだろう。

 でも、僕は違う。

 僕には小学校三年生の時の記憶がほとんどない。母は僕が小学校三年生の時に亡くなった、らしい。お葬式に出た覚えもないし、母が病に臥せっていたり怪我をしたりして入院したのを見舞った覚えもない。母の記憶は、弱い日差しの中のシルエットのように朧げで、ただその昔暖かくて優しい感情に触れたことがある、という思い出がアリバイのように残っているだけだった。

 もしかしたら母が亡くなった、ということ自体が嘘なのではないかと思ったこともあったが、位牌があり、こうしてキッチンのカウンターには写真立てがある。小さなフレームの中からこちらに微笑みかけている女性、それが母なのだ。

 母が亡くなったことを僕が覚えていないこと、それは何を意味するのか、何度も何度も考えた。

「思い出そうとしなくていい」と、いろいろな人から言われるのはなぜだろうか、そして、なぜ父はそのことを僕と話そうとしないのだろうか。考えるととても怖い。

 父とはいつの頃からかほとんど話すことはなくなってしまった。この広い家で、成功者としての父が、どこで過ごしているのかさえ僕は知らない。家にいるのかいないのかもわからない。

 レンジが電子音を奏でて、我に返った。額に汗をかいていて、それを拭って皿を入れ替える。


 楽しいことを考えなければ。

 

 男女混合メイドカフェがあるほど盛り上がるとは想像以上だった。意外なことに変身願望というのは皆が持っているようだった。きっと突き抜けた非日常の中でそれが解放されたのだろう。

 女子が豪毅をキャストに推薦した時のやり取りを思い出すと自然と笑いがこみ上げる。小さい時から、色白であの容姿ゆえに二人のお姉さんに着せ替え人形のような扱いを受けていたと僕は聞いていたから、豪毅に同情はしたけれど、皆の気持ちがわからないでもなかった。

 それにしても、牧之条さんがキャストを引き受けたのはなぜなのだろう。結果的にはその姿を見ることはできなかったけれど、あの引っ込み思案の牧之条さんが推薦を受けたのは何か心境の変化があったのだろうか。

 これまでの牧之条さんの弱々しい表情と、「パパのところへ逃がしてほしい」と言った時のはっきりとした表情。牧之条さんの中で何かが変わりつつあるのだろうか。

 僕は、自分はどうなのだろうと思った。母の死や父の存在に向き合うように変わることがあるのだろうか、と自問した。

 そんなことは、まだできそうになかった。

 レンジがまた鳴った。温めなおすものはもうなかった。僕はテーブルに食事を並べ、食べ始めた。


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