早川久美子 3
文化祭前日に夜遅くまでかけて装飾部門のスタッフが組み上げた「黒メイドと白執事」という派手な看板と廊下側の壁を埋め尽くす装飾の前では、早朝から準備をしていたメイド服を着て女装した男子と、執事服に身を包んで男装する女子がお互いに写真を撮って盛り上がり、廊下を通り過ぎる他のクラスの子達から大きな歓声を受けていた。
開店を待つばかりの熱気の中で、圧倒的な支持を得て選出された明日香が現れないことを皆が心配し、「牧之条さんはどうしたの?」と何人かに尋ねられた。
「何か聞いてない?」
そう尋ねられても、明日香はスマホも携帯電話も、メールアドレスすら持っていなかった。まさに「かごの鳥」であり、連絡をするには牧之条家に電話をして取り次いでもらわないといけなかった。そして、それはなかなかにハードルが高いことだった。
先生によれば、明日香は急病とのことだった。
「体調を壊してしまって、数日休むそうだ」と朝のホームルームで伝える先生の口調は、何かを隠しているような妙に平坦なものだった。そして、ホームルームが終わると私は先生に呼び出された。
「牧之条から口止めをされているので、僕からは話すことはできないのだが、早川には牧之条から連絡すると言っていた。力になってやってくれ」
いったい何があったのですかと聞いたが、牧之条から自分で説明するから話さないでくれと言われているので、と教えてくれなかった。
しかし、「牧之条自身に何かあったということではないんだ、それは安心してくれ」と言う先生の言葉で、私は確信した。
明日香のお母さんに、何かあったのだ。
その日の夜も翌日も、何度かスマホのディスプレイに「牧之条家」と表示させた。電話をしようかと思いながら、その度に「牧之条から連絡すると言っていた」という先生の言葉を思い出して、消した。
文化祭の翌日の片付けにも、明日香は現れなかった。みんなで作り上げた店内装飾や黒板アートや看板を、黙々と壊していく。祭のあとの寂しさが漂っていて、確かに何かが成し遂げられ、そして終わったことを告げているように思えた。
「色々変えようと思って」
そう言って笑ってくれた明日香がこの場にいないことが、一層寂しく感じられた。
その夜も何度かスマホを見た。何度目かに手に取った時に、鈍い振動とともにスクリーンに「牧之条家」と表示された。私は深呼吸してから電話に出た、嫌な予感が当たらないでと願いながら。
「明日香?」
呼びかけた私に、明日香は「久美子」と消え入りそうな声で答えた。
「ママが、死んじゃった」
私は、電話の向こうとこちらの二人が一緒になって暗い闇を沈んでいくのを感じ、かごの鳥のように過ごす牧之条家で、これから明日香はどうなってしまうのだろうと考えた。
「明日香」
私は何もしてあげることができなかった。だから、ただ心を込めて明日香の名前を呼んだ。
「うん」
明日香は、そう言ったきりしばらく沈黙した。そして大きくため息をつくと、「何だか、全然わからない」と続けた。
わからない、ってなんだろう。
「ね、明日香、何があったの」
返事はなかった、しかし明日香はそこにいる。まるで周りを伺って息を潜めているかのようだった。
「明日は学校に行くから。相談したいことがあるの」
「ねえ、何があったの」
「ごめん、明日学校で。お願い」
小さな声でそう言うと、明日香は電話を切った。
かごの鳥、という言葉が頭をよぎった。




