牧之条明日香 2
夏休み最後の学校開放日にようやく久美子に会えた。久美子は、少し雰囲気が変わっていた。そう伝えると、久美子は安達くんとのことを話してくれた。久美子の瞳が少し潤んでいて、女性の顔をしていた。
「もっと豪毅に近づきたい」と久美子はつぶやいたが、安達くんは愛されすぎていてまだ子供のように思えた。安達くんから見たらクラスメイトは一緒に秘密基地を運営する仲間にすぎないのだろう。彼から見たらそれがとても大切なことだけれど、久美子にとっては「仲間の一人」であることは物足りなくて、辛いことなのかもしれない。安達くんが自身の中にある久美子への感情に気がつく時があったら、それはとても素敵なことになりそうだった。
「羨ましいわ」と私は言った。私の境遇とは懸け離れた世界だった。
久美子、あなたが羨ましい。
私は、背中の羽が少しでも大きくなっているだろうかと時折鏡で背中を見た。透明な見えない羽は、この文化祭でキャストを演じたらまた少し大きくなるはずだ。男装して愛想を振りまいて知らない人と話す、それはとても怖いことだったけれど、この羽が大きくなって、カゴの外へ出る力になるのであれば、それは楽しみなことだった。この羽はいつか飛び立てる力を持つはず、焦らずにゆっくりと育てていけばいい。
しかし、文化祭を緊張しながらも心待ちにしていた私の希望は、文化祭を前にして霧散した。
ママが、私の目の前で道路に飛び出して車に轢かれた。手のひらにのせた文鳥の死骸が蘇った。これも私だ、ママの姿も私だ、そう思った。牧之条家にこのままいたら、私はこうなるんだ。ママを亡くした悲しみよりも恐怖で足がすくんだ。そしてその時、初めて出会った時の久美子の姿を思い出した。光溢れる中にまっすぐに立つひまわりの花。
私は、逃げることに決めた。
背中の羽はまだ小さいかもしれない、でもパパのところまで逃げればいい、そう思って三人に打ち明けた。
そして今、私はパパに会おうとしている。
柳沢君が私にスマホの画面を見せて「行って」と指示した通りに、私は車室の出口に向かっている。
柳沢君を振り返ることはもうできない、彼に謝ることもできない。
席を立つときに最後に目を合わせた柳沢君の表情は、感情を隠したという意味のいつもの彼の無表情とは違う、まるで幼い子が親に捨てられたことがわかったとでも言うような、途方にくれたような寂しい表情だった。
いつも感情を見せない彼が感情を見せたのは、これで三回目だった。
クイズ研究会の部屋で両親の話をした時に「なぜ置いて逃げてしまったんだろう」と言った時が一回目。
柳沢君の表情は「無駄だから諦めた方がいい、きっともうこの世にはいない」と言っていた。そのときにわかった、柳沢君は私と同じような悲しみを抱えているのだと。もしかしたらご両親のどちらかをとても辛い形で失ってしまったのではないかと思った。しかし、柳沢君がそれを私の身の上に重ねて見るのは、違う。パパはそんなことはしない、パパが写真をママに託したのは、生きてまた会うつもりだったのだから。パパはどこかに必ずいる。だから私は柳沢君に「パパは死んでいない」と言ったのだ。
根津高校に訪問した日の帰り道、私の問いかけに答えた時が二回目。
「パパに会えるのよね」と問いかけた私を見た彼の目の奥に、確かに小さな光のゆらぎを見た。それは暖かくて落ち着いていて、寄り添いたくなるような安らぎを感じさせるものだった。
私は本気で逃げるつもりだったし、彼は「本気で」私を逃がそうとしている、そう確信した。
その時に私は、柳沢君を最後まで信じようと決めた。
それなのに私は最後まで信じることができなかった。
出雲大社が最終目的地だと思っていた。
柳沢君も「ここだ」と言った。だから、柳沢君からパパに会えないと言われた時、しかも彼がそれを想定していたかのような態度を見せた時に、裏切られたと思ってしまった。
私は、出雲大社に邪魔が入らずに無事に到着したことで、そこが目的地だと言われたことで、ママが写真を撮った場所を訪れることができたことで、少し気が緩んでしまっていたのかもしれなかった。
そのためだと思う、落胆も大きくて柳沢君を許すことができなかった、その時、もう口もききたくない、と思った。
私は絶望し、諦めていた。きっとママと同じ運命を辿るんだ、そう思った。
京都駅に到着する直前に、柳沢君が「お父さんに会わせる」とタイプした画面を私の眼の前に差し出した時、その文字の並びが知らない言葉のように感じられ、その意味を理解するのに随分時間がかかった。
その言葉の意味を理解した時に私の心に広がったのは、パパに会えるという喜びよりも、柳沢君を裏切ってしまっていたという恐ろしいまでの後悔だった。
柳沢君は、今でもこうして、最後まで私を逃がすことに一生懸命になってくれている。彼は手を差し伸べ続けてくれていたのに、私がそれに気がつかずに背を向けてしまった。裏切ってしまったのは私だった。
すぐに謝ろうと思ったが、止められた。
そして、もう時間はない。
私にはどうすることもできない時間が過ぎていき、柳沢君がスマホの画面を見せて「行って」と指示し、その指示の通りに今、私は車室の出口に向かっている。




