柳沢邦雄 7
最初の決行日は言うまでもなく10月17日、日曜日だった。
その日の早朝、東の空がようやく明るくなってきた文京区の住宅街で路地の傍にアダチミートのワンボックスを止めて、僕たちは路上に目を凝らしていた。時間は五時を回ったところで、数分で牧之条さんが現れるはずだった。豪毅のお姉さんも緊張しているようで、手の汗をシャツで拭い、シャツの袖でフロントガラスの結露を拭き取った。朝晩の気温はだいぶ下がっており、エンジンを止めて停車した車の窓は三人の呼吸であっという間に結露してしまう。
スマホの時計を見る。いっときディスプレイの明かりが車内に漏れ、すぐに消える。15分のランニングコース、家から5分かからず到着するはずの地点だったが、5時8分になっていた。
「どうするの?」と豪毅のお姉さんが視線を外に据えたまま、言った。
やっぱり無理だったか。根津高校で写真を見られているのだから日にちがバレている可能性はもともとあったのだ。
「足止めされたかもしれません。すみません、豪毅と二人でゆっくり離れてください。僕はランニングコースをたどって様子見てきます、また連絡する」
最後の言葉を豪毅に向かって言うと静かに車のドアを開いて外に出た。普通の通行人に見えるように慌てずに歩く。牧之条家の門は閉ざされていた。立派な構えの門の格子戸から玄関までの石畳の両脇には地面に置かれた常夜灯がともり、玄関の中も明かりが付いていた。念のため裏口にも回ったが、人の気配も、現れる気配もなかった。豪毅にメッセージを送ると、文京区役所の脇に車を止めたということだった。
文京区役所までの道を早足で進み、息が上がって汗をかきだす頃にようやく、道路脇で偽装のマスキングテープをはがしている二人と合流した。
「ダメだ。家まで行ったけれど牧之条さんの姿はなし。家の明かりがついていたから、家族に止められてしまって出られなかったんだと思う」
豪毅のお姉さんが、はがしたマスキングテープを丸めて、ワンボックスのスライドドアを開けて放り込んだところだった。
豪毅は「そうか」と言ったが、いつもと違って深刻な顔をしている。
「どうした? まだ終わったわけじゃない、分かっているだろう」と声をかけると、僕の顔をしばらく眺めて、それから言った。
「いや、わかっているよ、とにかく残念だったな。どうする、お前一人で行くか」
「それは最終手段だろ。僕たちは、牧之条さんをお父さんのところに逃がすってことにしているんだから」
「でもさ、親父さんを連れてきて明日香に会わせてやればいいじゃんか」
「逃がして」と言った時の牧之条さんの顔が浮かんだ。
「それじゃあ、意味がない」
豪毅が驚いた顔をした。
「まあ、そうなんだけどよ。明日香が学校来てくれないと始まらないよな。お前、この後の話をまだしていないんだろ」
「してないよ、来なかったらそれまでの覚悟だってことだけど、大丈夫だ、絶対に牧之条さんは学校に来る」
「そうか」
そう言いながら豪毅が目をそらした。少し離れたところで豪毅のお姉さんが立ってこちらを見ていた。
「それより」
豪毅が視線を戻して話しかけてきた。
「お前も少し走ったほうがいいんじゃないか。さっき早足でくるのを見たけど、なんか危ない感じだったぜ」
余計なお世話だ。
「いいんだよ、僕は」
「四人の中で、今となってはお前が一番の運動不足だぞ。駅伝大会はどうするんだよ。やだぜ、友人が走っている途中に心臓発作なんかになったら」
「棄権するから関係ないよ」と僕は言った。走ったためなのか、自分の声の響きがおかしい。
「牧之条さんが逃げきれたら、駅伝大会は人数不足になるから棄権する。そして僕たちは、必ずこの作戦を成功させるんだ。だから、関係ない」
そう続けた言葉が妙に遠くで響いた。自分で話しているのではないような声だった。
「そうかなあ」と豪毅が納得したようなしていないような返事をした。そして「あした明日香、学校来るかなあ。それに、久美子も落ち込むだろうなあ」、そう言って明るくなりつつある空を眺めた。




