第七十一話 凍原の王
会議場を出てから、ミリトはほとんど口を開かなかった。
ディランもまた黙ったまま、その背を追う。
ミリトは茶でも飲まないかとディランを誘った。名目は、旧友との語らい。
そう呼ぶには、二人の間を流れる沈黙は重すぎる。
案内されたのは月の大使館内にあるミリトの居室だった。質素な室内の中央に円卓があり、その上には使い終えた茶器が二つ残されている――
後ろで鍵が掛かる音がした。
「ここでなら、誰にも聞かれない」
それがこの空間における、ミリトの第一声だった。
◇ ◇ ◇
「座ってくれ」
ミリトは卓上に残されていた茶器を脇の棚へ移し、向かいの席を示した。ディランは無言のまま椅子を引き、腰を下ろす。
向かいへと座ったミリトは、卓上へ目を落としたまましばらく何も言わなかった。
やがて小さく息を吐いて言う。
「ふう、ディラン。俺が取りなさなければ、あの場は壊滅していたぞ……」
――ディランは思わず視線を伏せた。
議場でのやり取りが脳裏によみがえる。自分のしたことを悔い、通訳としていかに不適な行動だったかを反芻しているようだ。
万が一あの対話が原因で交渉がまとまらないなどとなれば、方々にどれほどの影響を与えるのかもわからない。
「申し訳ない。教主の言う通り、私は通訳として力不足のようだ」
と、力のない声を出す。
ミリトはしばらく言葉を返さない。が、その肩がわずかに震えた。
「いや、すまない。冗談だよ。議会など、ほとんど事務連絡の延長だ。君が気に病むほどの話ではない」
「そうもいかないだろう。君に取りなしてもらえて助かった」
「……しまったな……生真面目なことを知っていたのに、初手を間違えた。しおらしい君があまりに面白くて、つい……すまない」
そう言って、ミリトは頭を下げる。
「……いや、矩を超えてしまった自覚はある。おかげでいろいろと考えさせられたよ。これまでの議論の事も結局、自分の考えを相手に押し付けていただけ。それは自己満足でしかなかったと……」
「まぁ、確かに今日の君はひどかったな」
ディランの反省を聞くミリトが、顎をさすりながら、遠慮もなくそう即答した。
「あれじゃ議論じゃない。ただの言い合いだ。俺の知る『論破のディラン』なら、とっくに相手を沈黙させていた」
「……変な呼び名を付けないでくれ。それに、私は別に相手を論破したいわけじゃ……」
そこまで言って、言葉が止まる。
「じゃあ一つ聞こう。今日の議論が、なぜあれほど相手を怒らせたかわかるか?」
「私が未熟だったからだろう」
「違う……今日の君は、議論に私怨を持ち込んだ。違うか?」
その問いに、ディランは返事をすることができなかった。
「……図星だな? 君の議論を最前列で鑑賞してきた俺には確信がある。君はいつも冷静だった。真理を探るように問いを重ね、感情を挟まず、理屈だけで相手を追い詰める。だからこそ君は『凍原の王』という異名をほしいままにしていただろう」
「初耳だが……」
「なあに、落ち込むことはない。議論自体は君の勝ちだった」
「勝ち負けではないだろう」
「いや、勝ちさ……本当にあるのだろう? 公害症の治療法、それを君が掴んでいるからあのような話に持っていった」
「なぜ、それを……」
「分かるさ。一体何度、君の議論を見てきたと思っている。一度相手に主導権を握らせてからの鮮やかな一閃……『天墜追放』が決着技だった」
「よくわからないが……」
「あの時、俺はこう言ってまとめただろう? 『神の存在と治療法の確立、これを証明した方が勝ち』だと」
「それは覚えている。見事な裁定だった……君の方がよっぼど上手だろう」
「まぁ、君の議論を最前列で学んだいたからな。ある程度なら自信はある」
「……それに私は、相手を負かしたいわけではない」
ミリトはやれやれと言わんばかり、椅子の背に体を預けた。
「そもそも、喧嘩を吹っ掛けてきたのは教団だろう。突然、通訳の導入を言い出し、議題から外れた弁論まで始めた。あれでは対話というより尋問」
「……なぜだろうとは思う。彼の怒りを買ってしまっていること自体は認識しているのだが……」
「……そう言うところは変わっていないか……」
「すまない……」
「……」
――暫し静寂が続いた。おもむろにミリトが口を開く。
「ではそろそろ……本題に入ろう」
「本題?」
「ああ、朝にも伝えただろう? 話がしたいと」
「……確かに。すると、その内容というのはこれまでの話に関係がないのか……」
「いや、関係がないと思っていた、が正しいかな。なにせ、重要な人物の名前がちらほら聞こえてきたからな」
「重要な人物?」
「まぁ、順を追って説明しよう」
「……いや、待ってくれ。その前に」
ディランが言葉を挟む。眉を深くひそめ、身を乗り出す。
「それは私が聞いてよい話なのか?」
そう尋ねずにはいられなかった。
ディランはすでに、ミリトが使節団の要職であろうことは察している。それに加え――用意された部屋。外から遮断された空間。自分に向けられる視線。脇に置かれた二つの茶器。
その状況の一つ一つが、場違いなはずの自分の逃げ場を封じ込めるように圧迫感を放つ。これから話されるのはおよそ、旧交を温めるような話ではないだろう。
ディランが警戒に満ちた問い、それを聞いたミリトもまた、表情から軽薄さを消した。
「……残念ながら、君は中心人物、と言えるかもしれないな」




