第七十話 介入
「視察……」
そう小さく漏らし、グリドは奥歯で苦虫をつぶした。何とか表情を整え、ミリトへぎこちなく微笑みかける。
「……視察の話ならすでに終わっています。彼、ディランさんの単なる勘違いですから……」
ディランが余計なことを言ったせいで、月の使節団まで視察などと言い出した。
グリドの心中は穏やかではない。
恨めしげな視線を向けても、当の本人は照れくさそうに頭を掻いているだけ。反省しているのか何なのか――それがまた、グリドを苛立たせた。
一方、ミリトはわずかに視線を下げながら、小さな頷きを繰り返していた。
「いやはや、やはり難しいですか……残念です。ご負担とならない範囲で見せていただければと思ったのですが」
そう静かに言って、あっさりと引き下がったのだ。
ところが。
その場に流れていた空気は妙だった。使節団の面々は視線を交わし、教団側もどこか落ち着かない様子で身じろぐ。
――会場の空気は、中央に立つグリド本人の肌に届くほど不穏に淀んでいた。それを感じ取っていることを示すかのように、彼の口元は歪められている。
「……院長!」
突如、グリドの声が弾ける。院長は尻を刺されでもしたかのように飛び上がった。
「院長、無理だとは思いますが……万が一都合がつくようなことがあれば、その時は皆さんをお招きして差し上げなさい」
「か、かしこまりました!」
院長が勢いよく頭を下げる。
「月の方々、これでいいでしょうか……?」
教団に後ろ暗いことなどない、その表明。しかし、グリドの口元はなお強張ったままだった。
「さて……」
グリドが踵を返し、ディランを一瞥して続ける。
「これだけ進行を乱されてしまっては、もう本日は話し合いを続ける雰囲気ではありませんね。私も疲れてしまいました」
そんなことを言いながら、大げさに肩を落としてみせる。その態度はもう、ここで議会を畳めと言わんばかりだ。
「そうですね。本日は初日ですし、まだまだ先は長い。初日の会議はここまでとしましょうか」
ミリトが応じるように深く頷く。
「おお、そうですか。実に的確なご判断。さすが、使節団の方々は優秀でいらっしゃる」
「いえ、私などとてもとても」
グリドからの惜しみない賛辞に、ミリトは丁重に首を振った。
「もったいないお言葉です。ああ、そう。優秀といえば……」
ミリトは思い出したようにディランへ目を向けた。
「そこの、ディラン・クレセントは私の学友なのですが、彼は首席でしてね。私なぞ、上には上がいるものだと思い知らされた側の人間なのですよ」
そんなことを言いながら、どこか懐かしむように目を細める。
「何? こいつが……首席?」
グリドの頬がぴくりと引きつった。
「ええ。驚くのも無理はありません。活躍を嘱望されていた彼ですが、卒業後は聞いたこともない研究分野に行ってしまいまして。気にかけてはおったのですが、まさかこんなところで再会するとは……」
「ふん。まぁ、優秀だったというのは頭の片隅にでも入れておきましょう」
「……しかし、そんな彼を見出し引き立てた教皇のご慧眼、恐れ入るほかありません」
「ええ、まぁ……ただ、もう彼の通訳としての役目は終わりましたので」
グリド曖昧に頷きながら、肩を竦めた。声音に滲む冷ややかさは微塵も変わらない。
その時、
「ああ、そういえば」
と、ミリトがふと思い出したように口を開いた。
「……通訳といえば、先ほど翻訳機が訳せなかった言葉がありましてね……」
懐から端末を取り出し、画面へ目を落としながら申し訳なさそうに続ける。
「その部分だけ会議録が抜け落ちてしまっているのです……」
「ほうほう、そうですか。まぁ、機械も完璧とはいかないこともあるでしょう。それに教義の言葉となれば難解な部分もあるからな」
なぜかグリドの機嫌は持ち直していた。月側の機器に不具合があった――ただそれだけのことが、妙に愉快だったらしい。
「お恥ずかしい限りです。この会議の後にでも確認させていただきますが」
「そんな手間を掛ける必要はないでしょう」
グリドは鷹揚に笑う。
「さっさと済ませてしまいましょう。して、どの部分でしょうか?」
ミリトも安心したように頷いた。
「よろしいのですか? はい、先ほどお話されていた『グッカロ』という言葉です」
その言葉を聞いて、グリドの表情が一気に引きつった。示し合わせたかのように、教団側の幾人かが眉をひそめる。
――『グッカロ』
先ほどディランとの対話の最中、グリドが吐き捨てた俗語だ。
穏当に訳すなら「くそったれ」。
公的会議に用いられる翻訳機にはおよそ登録されていない言葉だった。
「……わかりませんね。聞き間違いではないでしょうか……」
グリドは即座にとぼけてみせた。
「いえ、確かにあなたの発言で『グッカロ』と……」
ミリトはその手に持った端末に目を落とし、記録を追うように指先を滑らせている。今その所作一つ一つが、グリドにとって忌々しい。
「……翻訳機の故障では?」
「それも考えられます。弱ったな……記録を残さねばならないというのに、初日からこれでは……」
そうこぼしながら、ミリトはディランへ視線を向けた。
「君はどう思う?」
その刹那、グリドの表情が強張った。
「彼はもう通訳ではないですよ!」
鋭く割り込んむ声が、再び会場の空気を凍らせる。その焦燥感はもはや取り繕いようもない。
「いえ、あくまで参考に。それにまぁ、先程の時点ではまだ彼が通訳でしたし、あなたからも見事な通訳だとお墨付きがあったので」
ミリトは淡々と述べた。同じ場に立ちながら、二人の印象は岩と烈風のごとく対照的なものだった。
「ぐっ……」
グリドは歯噛みしながら、ディランをその日一番の目つきで睨みつける。
だが、当のディランはそんな視線など意に介さない。ミリトへ笑顔を浮かべながら『月語』で二、三言を交わした。
その様子を見たグリドが、思わず身を乗り出した。
「彼は今、なんと!?」
ミリトは少しきょとんとした顔を見せた後、
「ええ。彼が言うには、『マナス神への感謝の言葉』とのことでしたが……いかがでしょう?」
と首を傾げる。
グリドは一瞬、虚を突かれたように目を瞬かせた。
「ええ。そう、そんなところですよ。私としたことが、つい無意識に言っていたのかもしれませんね。ははは……」
乾いた笑いが、わずかに柔らいだ議場の空気へ溶けていった。
それを見て、ミリトも安堵したように表情を緩める。
「良かったです。通訳の彼に助けられました」
「それは……」
グリドの返答は鈍い。そんな彼をよそに、ミリトは笑顔のまま議長へ向き直った。
「話はまとまりました。本日はここまでで閉会といたしましょう」
「えっと……」
議長はなおもグリドの顔を伺っている。そのグリドが小さく頷いたのを見て、
「で、では、これにて本日の会議を閉会します」と声を張り上げた。
◇ ◇ ◇
張り詰めていた空気が緩み、会場には人々の話し声が戻り始める。その中で、グリドは一人、苛立ちに肩を尖らせていた。取り巻きを引き連れ、そそくさとその場をあとにするようだ。
その背を追いかける人物がいた。
他でもない、ディランである。
「教主様!」
「……」
グリドは振り返らない。代わりに周囲の取り巻きが色めき立った。
「貴様! お前が気安く話しかけて良い方ではないぞ!」
そう怒鳴りながら、ディランの肩を乱暴に押しやる。
「いえ、一つだけ、お伝えしたいのです」
グリドの足が止まる。
「……その一つだけ、というのは、まさか翻訳の件で恩でも着せようというつもりでしょうか?」
「そんなことではありません。シプタのことです」
「シプタ……」
その名を聞いて、グリドはようやく半身だけ振り返った。
ディランが頷いて言う。
「私が彼女惑わせていると言われて、そうかも知れないと自覚したのです。なので、今度会った時には市すべてを話そうと」
「……まどろっこしい」
グリドが眉をひそめる。
「シプタの心は自分の物、とでも言いたいのか?」
「え?」
ディランは瞬きをした。
「どういうことでしょうか……?」
「シプタの気持ちをお前が弄んでいるのだろう?」
「……いえ? 彼女は友人であり、そもそも私は既婚者です」
「ほう……?」
グリドは探るように目を細めた。
「では、お前はシプタに特別な感情は持っていない、ということでいいのか?」
「もちろんです。私は妻だけを愛していますので」
「……」
「私がお伝えしたいのは、彼女が大いなる迷いの中に居るということ。彼女の話に是非、耳を傾けてはいただけませんか?」
「……つまり、なんだ?」
「つまり? いえ、彼女はこの星のことを本当に――」
「星の話などどうでもいい! シプタが我が物になるために協力をするのかしないのか!? それを聞いている!」
「……私は出来ることしか出来ない人間なので、後はお二人次第としか……」
「……ふん」
グリドは鼻先で笑った。
「言を違えればどうなるか……覚悟しておけよ」
グリドはそう言い残し、議場を去っていった。
立ち尽くすディランの肩に、不意に後ろから手が置かれる。
振り返ると、そこにはミリトが立っていた。
先ほどまで浮かべていた愛想の良い笑みは消えていた。
「さて……詳しい話を聞かせ願おうか?」




