第六十八話 異端の象徴
「神や死後の世界の存在は、科学で否定できない。これは先ほど申し上げたとおりなのですが」
「ですが?」
「先ほどおっしゃった救済について、具体的に教えていただけませんか?」
「え? あ、ああ。よろしい。教主である私が直々に説いてあげましょう」
グリドは尊大に胸を張り、その問いに応じる構えを見せた。すでにディランとの格付けは済んだ――そんな勝者としての確信が、態度の端々ににじみ出ている。
そして頼まれもしないのに、ディランの席へとにじり寄っていく。その歩みはまるで、獲物との距離を測る肉食獣のようだった。
「マナスの神は全知全能。脆く不完全な我々を、この世界に満ちる理不尽や苦痛から解き放ち、死後の世界で完全なる自由をお授けになります……」
そこでグリドは、わずかに口元を歪めた。
「もっとも、月の民であるあなたのように、不自由なく生きてこられた方々には、その価値は実感しづらいかもしれませんが、ねぇ……」
言葉には、分かりやすい棘が混じっていた。脇に控える月の使節団へ向けて、星の民の苦境をあらためて印象づける。そんな意図が透けて見えた。
ディランは小さく頷いて口を開く。
「そこなのです」
「そこ? どこです?」
「なぜ神はわざわざ人間を救済するのでしょうか?」
「……なんですって?」
グリドは理解できないものを見るような顔をした。だが次の瞬間には侮ったような笑みを取り戻す。
「……神は我々をお作りになった。慈悲深い救済をお与えになるのは当然のことです」
「人間を作ったのは神?」
「そのとおり。神は万能にして完全なる存在です」
「……すると、他の生物はどうなるのですか?」
「他の生物?」
「はい。鳥や魚、昆虫、目に見えない微生物。そもそも、生物をどこまで同じ存在として扱うのかという問題もありますが……」
グリドの眉がぴくりと動く。
「……そのような下等なものに、神の御言葉は理解できません」
ところがディランは、
「ですが、神は万能なのでしょう?」
と即座に返す。
「万能なら、相手が何であろうと理解させることができるのでは? それに先ほどのお話では、人間も脆く不完全だと……」
グリドの表情から余裕が少しずつ削げ落ちていく。
ディランは信仰そのものを侮辱しているのではない。ただ論理を持ち込み、教義を検証しようとしている。
だからこそ面倒で、厄介だった。考え方の違いだと切り捨てて済ませるには、問いそのものが具体的すぎる。
「屁理屈など結構……神にとって、人間は特別なのです」
「……なるほど」
ディランが噛みしめるように頷く――その様子を見て、グリドは言いようのない不快感を覚えた。
侮辱されたわけではない。批判されたわけでもない。
それなのに、自分が何か致命的な失言でもしたかのような焦りが胸の奥から湧き上がってくる。
「もうよいですか?」
「あ、いえ。教えていただきたいのはこの先でして」
ディランの返しに、グリドの眉間へ皺が寄った。
「……あまり時間がありません。皆さんをお待たせしているのですよ」
――自ら「有意義な対話」と称して始めた対話を、今度は当人が早々に打ち切ろうとしている。
だが、ディランは意に介さない。
「ああ、では手短に」
――目の前の疑問に意識を奪われると、周囲が見えなくなる。それは昔から変わらない彼の癖だ。
「今まさに苦しんでいる人々がいます。彼らが救われないのは、なぜでしょうか」
一見すると核心を突いた問い。ところがグリドは、むしろ安堵したように息を吐く。
「試練をお与えになっているのですよ」
口調に余裕が戻っていた。そんな類の質問なら、信徒からも、異教徒からも、そして神を信じられなくなった者たちから何度も受けている。
「試練?」
「ええ。試練によって魂を鍛えるのです。困難によって魂は完成する。完成した魂でなければ、神の御許にはたどり着けない」
「完成した魂……」
「あなたの疑問は、だいたい見当がついています。ただ、重要なのはこの世で過ごす数十年よりも、天国で過ごす永遠です。比較にすらなりません」
そこまで言って、グリドは会場の面々へと振り返った。
「神は我らを見殺しにしません! この者の言葉は、神に対して、我々に対して、侮辱にほかなりません! そう思いませんか!?」
決まった――と、グリドは手応えに胸を震わせていた。もはや議論の中身など、彼にとってはどうでもよかったのかもしれない。ディランを貶めることに成功しさえすればよいのだ。
だが当のディランは、そんな空気など最初からまるで気にしていない。何事もなかったかのように対話が続いていく。
「では、苦しんだ者だけが死後の世界で救われるのですか?」
「……いえ。信仰に篤い者たちも同じく導かれます。それが神の御心です」
グリドはそう、余裕ありげに答えた。
「……なるほど」
一方のディランは、得心するように大きく頷いた。
それを見て、グリドもまた安堵する。
――相手ではない。所詮、この程度、だと。
「いいお話を聞けました。感謝します」
ディランはグリドに頭を下げた。そして、
「つまり、治療そのものは神の意志に背く行為ではない、ということですね」と笑みを浮かべて言う。
「……今、なんと?」
対照的に、グリドの顔からは笑みが消えた。
「はい。生きている時間よりも死後の世界のほうが重要だという教義。だからこそ、治療が重視されていないだけ」
しばしの沈黙のあと、グリドは「ハッ」と鼻で笑った。
「何を言い出すかと思えば……やはりあなたですよね。シプタに、まやかしの希望を吹き込んだのは」
「え?」
ディランは目を瞬かせ、首を傾げた。
「……彼女は確か、サラ・アクオーネに憧れ、以前から研究者を志していたと……」
「ほう……月の人間であるあなたが、その名をよくご存じで。もっとも、結果は同じことです。蒸し返したのは、あなたなのでしょう?」
「……それは、そうなるかもしれませんね」
グリドの問いに、ディランは悪びれる様子もなく頷いた。そのあっけらかんとした態度に、グリドをイラつかせたようだ。
「……ふん。その名を根拠に希望を語るなど軽率極まりない。道はとっくに潰えたのですよ」
「潰えた?」
「ええ。公害症は月の医学をもってしても癒やせない不治の病。治療法の確立など、まやかしにすぎません」
「……あなたは、その公害症の治療に人生を捧げたというサラ・アクオーネの末裔ではないのですか?」
その問いに、グリドは薄く笑う。
「ふふ。星の英雄などともてはやされていますが、実績など何ひとつありませんよ。いや、むしろ異端の象徴。人々を惑わせ、真の救済を妨げた存在です」
その声音には、先ほどまで神を語っていた時の敬虔さはない。
――会場がざわめきだす。
教会の内部にも、サラ・アクオーネを好意的に語る者は少なくない。
それどころか教団は長年、英雄を支援した歴史を誇り、信徒獲得のためにも利用してきた。その英雄を、教主自らが異端と断じたのである――どうやらサラ・アクオーネは、最近になって都合の悪い存在になったらしい。
「阻害……?」
「そうです。無責任に生への希望を吹聴されれば、定められた死さえ受け入れがたくなる。罪深いとは思いませんか?」
「しかしその一方で、緩和処方は推奨されているのでは?」
「ぬ……」
グリドは一瞬、言葉に詰まる。
「ふん……子どもたちは魂の完成に時間が必要なのです。その時までは生きながらえさせる必要があるでしょう?」
「なるほど……」
「まったく。病院に勤めているくせに、そんなことも知らないとは。あなたを通訳に取り立てたのは、私の過ちでした」
「え? 私を指名されたのは教皇であったはずですが」
「……そうでした。つい言い間違えただけです」
そう言って、グリドは咳払いをひとつした。この言い間違えはそのまま、彼がディランを陥れようとこの舞台に引きずり込んだ、という事実を暗示するものだ。
しかし当のディラン本人にとっては、そんなことなどどうでも良いようだ。
「先ほどのお話によれば、治療そのものは教義に反しないということですよね。ならば、サラ・アクオーネの研究を今一度――」
「……くどい!」
怒声が会場に響く。その場に溢れていた囁き声が一気に静まる。
「治療は不可能。これは決定事項だと言った」
グリドは強く言い切ると、またゆっくりディランへ歩み寄った。
口元こそ笑っているが――その瞳には怒りを押し殺した、冷たい敵意が宿っている。
ディランの傍らまで来たところで、その笑みのまま囁く。
(……あいつはこの星にとっての悪夢だ。利用価値があったから担ぎ上げただけのこと。それを末裔などと。汚らわしいことを口にするな……)
グリドはさらに声を潜め、俯いていたディランへ告げる。
(理解したなら、これ以上醜態をさらす前に失せろ)
それだけ言い残し、何事もなかったように身を離した。
「……教団は彼女を利用した、ということですか?」
「……まあ、そう取っていただいて構いませんが。少々声が大きいですよ」
グリドは肩をすくめると、踵を返して聴衆へ向き直る。座席の前で顎に指を当ると、わざとらしく考え込む素振りを見せた。
「ふうむ。しかし……これほどまでにまやかしが蔓延しているとは……」と大きな独り言を漏らし、大げさに嘆息を放つ。
「……私が教皇となった暁には、まずあの英雄の丘を取り壊さねばなりませんな。そもそも英雄と呼ばれるべきは、この私でしょう。皆さんはどう思いますか!?」
会場にどよめきが広がる。その喧騒の中、ディランは一人、沈思していた。
――自分こそがサラの実子であること。そして、サラの研究は完成していたこと。それはこの会場で、ディランしか知らない。
教団の要職たるグリドの話ぶり、その臆面の無さから、ディランは彼が、いや、現在の教団がその事実を知らないということを感じ取っていた。
――教団は、この星を想う母親の気持ちを踏みにじった。それだけではない、その名を利用するだけ利用して、用済みとなれば今度は異端と切り捨てるつもりらしい。
なにより最大の犠牲者は、この星の民ではないか。
ところが、ディランは激怒するどころか、どこか安堵しているように見えた。
「良かった……」
小さく漏れたその呟きに、奇妙な笑みが重なっていた。
「ん?」
グリドが眉をひそめる。
「何か言いましたか? ……気が済んだのならそろそろ会議を再開しましょう。もっとも、あなたの通訳はもう不要ですが……」
その言葉に、ディランはただ静かに頷いている。
この若き教主は、自分と血が繋がっていない。それが確認できただけで、ディランは満足だった。
なぜなら、もう遠慮する義理はないと分かったからだ――




