第六十七話 お気の毒様
会議場の空気が変わる――先ほどまでは、月側の指摘に対する停滞と、それがもたらした緊張が立ち込めていたはずだった。
グリドは立ち上がると、わざとらしく周囲を見回した。
「皆さん、突然申し訳ない。この星の窮状を理解していただくには、資料よりも現場の声を聴いていただいたほうが良いと思いまして。彼はディラン・クレセント。月の民でありながら、我々の病院を助けてくださっている人物です」
まるで、設えた罠にまんまと落ちた哀れな獲物を眺める猟師。そんな眼差しをディランに向けながら声を上げる。
参加者たちに困惑が広がる中、一人、こぶしを握り締めているものがいた。早朝からディランを迎え、事前に資料を手渡したマナス教団の本部長だ。彼が懸念していた会議の私物化が、まさに現実のものになろうとしている。
「先ほどの通訳、実に見事なものでした。彼を指名した教皇の眼識は、さすが確かなものと感服しております。ならば、その彼に通訳だけをさせておくのはもったいないと、私はそう考えました。何せ彼は病院の内情に詳しく、職員からの信望も厚い。私の婚約者、星の希望と称されるあのシプタ・ロジインが師として仰ぐ人物なのですから!」
教団側の席から小さく頷く者が現れた。まばらに起こった拍手がやがて会場全体へ広がっていくと、グリドは満足げに椅子にもたれる。
これから始まるのは議論などではない。公開処刑だ――少なくともグリドはこの時、そう信じて疑わなかった。
◇ ◇ ◇
「それではお聞かせ願いましょう」
グリドは椅子に背を預けたまま、ゆっくりと言った。
「月の皆さんは認定基準を問題視しておられる。これは、我々の教義を否定するという表明でしょう……なぜなら、月の皆さんは科学の信奉者であり、神の存在などお認めにならないでしょうから……」
ディランが口を開こうとすると、それをグリドは手のひらで制し、さらに続けた。
「家族を失った悲しみ。明日の暮らしが見えぬ不安。自分が病に侵されているかもしれないという恐怖。そうした苦しみを抱える方々まで含めて神の御許へ導くのが、我々マナス教団の務め……そんな彼らから安らかな死まで奪うというのは……そもそもの原因を作った者の振る舞いとして、いかがなものでしょう」
グリドの演説を、教団側の面々は頷きで支持する。披露されたのは、正当な月からの指摘を曇らせるための、因果をたがえた論法でしかない。
「このような我々の想いも、月の皆様は間違いだと言われるのですか、ディランさん?」
問いが初めて、対話者へ向けられた。
ディランは軽く頷き、
「間違いとは申しません」と返す。それは静かに、ただしあまりにも迷いがない返答だった。
そしてさらに、
「人が苦しみを抱えたとき、何かを拠り所にしたいと思う気持ちは理解できます」
と続ける。
「困難に陥った時、未来に……失望した時、あるいは家族が……病気になった時、割り切れない状況に接すれば、誰しもが不安になる……」
ディランが語る間、会場は妙に静かになった。誰もが自然と耳を傾けている。言葉に詰まりながら語られるその言葉には、月の人間らしい冷たい理屈がない。それどころか、なぜか胸に迫る話しようだった。
ディランが静かに口を開く。
「そんな時、神に救いを求める方もいるでしょう。死後の世界を信じる方もいるでしょう。私は決して、それを愚かだと思いません」
しかしそこで、グリドはわずかに目を細めた。
「ほう……ならば、ディランさん。あなたは神を信じるのですか?」
「私は神を信じておりませんが……あえて言うなら、科学が私の神と言えるでしょう」
「……ならばやはり、あなたは神の存在自体を否定する立場なのでは?」
ディランは首を横に振った。
「科学では神の存在を否定できません。同様に、死後の世界も」
と淡々と述べた。
――その一言で、グリドの口元がゆっくりと持ち上がった。
勝った。
そう思ったのだろう。
「これはこれは……月の民であるあなたがそんなことを言うとは! 皆さんもお聞きになりましたか!? これは、ディランさんが我々を支持してくださるということでしょう!」
グリドは立ち上がり、両手を広げて声高に言い放つ。絢爛な飾り袖が煌びやかに躍り、その笑みを彩った。教団側の面々もあっけに取られていたが、段々と声が上がり、また拍手へとつながっていく。
必死に笑いをかみ殺すグリド。思い出したようにディランの方を向き、目じりにたまった涙をさりげなくぬぐいながら、もう片方の手のひらで柔らかく出口を指し示す。
「ディランさん。もう結構ですよ。お疲れ様でした」
もう用済みだ――そう言わんばかりに、温度の無い労いの言葉をかけた。
ところが――これにディランは顔色一つ変えず、申し訳なさそうに言う。
「……一言だけ、いいですか?」
ここでグリドはもう、堪らなくなった。
――何を言うつもりなのだ? ――さらに負け犬の弁明が聞けるのか?
――それともまだ、月の使節団の足を引っ張りたいのか?
「ええ! どうぞどうぞ! 皆さん、静粛に! ディランさんが最後に何か伝えたいようですよ!」
と、芝居がかった仕草でディランへと片手を差し出した。
◇ ◇ ◇
「お気の毒様……」
混沌とする議場の中央を見つめながら、誰にも聞こえぬ小声を漏らす人物がいた。
他でもない。この議論をけしかけた張本人、月側の参加者であるミリトである。
ミリトはディランの学友であり、学生時代、ディランが生徒や先生を相手取って問答する様子を何度も見てきた。彼の相手となった人間は徹底的に追及され、自尊心も権威も、何もかもを失っていく。それを根に持つ人間も後を絶たなかった。
何を隠そうこのミリト、このディランの問答の――熱烈なファンだった。
絶対に相手にはしたくないが、その矛先が気に入らない先輩や先生に向けば、その無残な姿を拝むことが出来る。「始まったぞ!」そんな声が上がるたび、食事中だろうが授業中だろうが、ミリトはすべてをほっぽり出し、その議論を特等席で鑑賞してきた。
――おあつらえ向きの道化。
愉悦に浸るグリドの顔を見てつい吹き出しそうになり、ミリトは慌てて口元を隠すように肘をついた。
この会場でたった一人……そのミリトだけが、ディランの反撃を確信していた。




