第六十六話 仕組まれた舞台
――会議は穏当に進行していた。
序盤は、教団側からの報告事項。あらかじめ用意された公害症患者の推移、補償制度の運用状況、医療関係者からの聴取結果など資料を、担当者がひたすら読み上げる。説明の間、参加者たちは皆、黙したまま手元の紙束に目を落としていた。
たとえ翻訳に齟齬があったとしても、聞き手の手元には論拠たる資料がある。通訳などいてもいなくても構わない、透明な存在――重圧を感じる理由はないに等しい。
当初、人知れず心臓の鼓動が耳に響くほど緊張していたディランだったが、すでに肩の力は抜けていた。
もっとも、これは偶然ではない。
通訳を任命されてからというもの、彼は公害保障に関する資料へ繰り返し目を通し、慣れない専門用語を整理し、自分なりに準備を重ねてきていた。その積み重ねがあったからこそ、混乱なく役目を果たせている。
この時間は、経験のないディランにとっては好ましい肩慣らしになった。いや、それどころか、あらゆる分野の難解な用語も見事にさばく余裕綽々の通訳――傍目にもディランの仕事ぶりはそう映っていた。
ただそれを、なぜか苦々しい表情で眺めている人物がいる。
この会議におけるアクエッタ側の代表、マナス教団の教主、グリドであった。
月側の参加者の表情を盗み見れば、月語が一切わからない彼でも、通訳が役割を全うしてしまっている気配が掴める。
グリドからすれば、事前資料を渡されていないはずの男が、問題なく役目を果たしている、その状況がどうしても腑に落ちないのだろう。そわそわと隣席の側近へ身を寄せては耳打ちし、そのたびに側近は小さく頭を下げる。
彼の行動は、厳粛な会議の場にあっていささか気になるものであった。
ディランも時折、その状況に目配せはしていた。だが、ディランの席からはグリドが囁いている内容を聞き取ることはできない。聞き取れない以上、通訳のしようがない。
内密の連絡事項だろうと、そう割り切って手元の資料へ意識を戻す。
そのまま会議は進行し、予定されていた一度目の休憩へと入った。参加者たちは背伸びをしたり、あくびを放ったり、飲み物へ手を伸ばしたりしている。
会場の弛緩した雰囲気を感じ取り、そこでようやっとディランも小さく息を吐いた。月側の座席をふと見た時、そこに座っていたミリトと目が合う。彼がふっと笑うのを見て、ディランは少しの安心と、なんとも言えないむず痒さを覚えた。
◇ ◇ ◇
会議が再開され、月側の使節団が最初の質問を口にした。
「補償対象者の認定について確認させて下さい。資料では対象区域外の認定者が急増しているようです……一方で、指定地域内の認定者には差が少ない。両者を区別する医学的根拠は――」
質問者は資料の一頁を指で押さえながら、教団側の参加者を見渡した。
すると、グリドの後方に座っていた人物が弾かれるように立ち上がる。
「は、はい! それは、わ、私から……ええと、診断をですね、ええと、その、公害症の認定をしております、その、『救世隊』において、診断基準の、変更をされまして、いやあの、させていただき、まして……」
その答弁を受け持ったのは、ディランが勤めていた病院の院長だった。役割的には適任に思えるが、お世辞にも場馴れしているとは言えない緊張のしようである。
ディランは息を整え、その回答を訳した。すると一気に、月側の担当者の顔が険しくなる。
「診断基準の変更……この資料にも、事前の打ち合わせにもなかったようですが……?」
すでに院長の額には玉のような汗が浮かび、肩は小刻みに震え、握りしめられた資料はくの字に折れ曲がっている。そんな彼が周囲を見回しても、誰も目を合わせようとはしなかった。
「その……基準というのは、ですね……」
そこまで言って、また口ごもってしまう。
一方、代表であるグリドは眉一つ動かさず、そのしどろもどろな応答を背で聞いていた。余裕というよりは、まるで我関せずといった態度である。
――不可解ではあった。
院長はまるで、自分の職分ではない質問を押し付けられた人間のように狼狽している。本来答えるべき誰かが、沈黙しているのだ。
しばしの沈黙の後、グリドがじれるように振り向いた。
「答えて差し上げろ」
そう命じられた院長は、すっかり青白くなったていた顔をさらに強張らせた。
その刹那、今度は意を決したように唇を引き結び、ごくりと唾を飲み込んでから顔を上げる。
「……患者の認定は、身体に現れた症状だけで決めるものではありません……我々は教えに従い、その者が受けた苦しみの由来を見定めています」
ディランは一瞬、言葉に詰まらせた。質問への答えになっていないと思ったからだ。
そう考えたのは彼だけではないらしい。なぜなら、教団側の関係者たちまでがディランの方を向き、通訳がどのように言葉を渡すのかを興味深そうに待っていたからだ。
「一言も違えず伝えてくれ。それが君の役目だろう」
勢いづけたのはグリドだった。ディランの逡巡を敏感に察し、口元を歪めている。
その時、すべての視線がディランへと集まった。
が、その程度で動揺する彼でもない。
思惑など意に介さず、発言を月語へ訳す。
「患者認定は身体症状のみでは判断していない。マナス教の教義に基づき、その人物が受けた苦しみの由来を見定めている、とのことです」
その言葉を聞き取り終わると、月側の担当者は相手を気遣うように表情を和らげてから、静かに切り出した。
「認定基準が変わってしまうと認定される人数も変化することとなります。これは補償にかかる重要な事項となるので……詳しい方が不在ということであれば、会議期間中に詳細を連絡いただけますか?」
その月側の対応は、真っ向から教義を否定してやろうという種類のものではない。むしろ、相手方に寄り添いながら事情の理解を求めている。
さすが、王家直属の使節団。亡き王の高邁な人格が、今もなおにじみ出すようだった。会議において中立な立場のディランですら胸が暖かくなるのを感じた。
ところが――騒動は、ディランがその月の発言を教団側へ伝えた後に起こった。
月側の発言を聞いたグリドが、「なるほど」と鼻で笑うように応じる。
かと思えば、今度は通訳席のディランへと冷ややかな目を向けた。
「これは困りましたねぇ、ディランさん。月の皆さんは我々をお見捨てになるようですよ」
それまでは淡々と通訳に徹していたディランの表情が、一気に濁った。
「今のは……一体、何でしょうか?」
質問の意図を確かめるように、ディランは声を抑えて問い返した。
「言葉のとおりですよ。月はもう、我々に補償金を払いたくないというのでしょう?」
「そのような発言ではありません。月側は、認定基準の変更が補償対象者の数に影響するため、詳細を確認したいと――それに……」
「ええ、ええ。そうおっしゃるのでしょうね」
グリドはディランの言葉を遮り、さらに続けた。
「どうしましょう。たくさんの患者がいるのに、彼らに何と伝えれば……」
ここで、ディランは月側へ手のひらを向けて、少し待ってくれ、と求めるように幾度か頷いた。
それに応じるように、月側に座すミリトが片手をわずかに持ち上げ、無言で続きを促す。
ディランは軽く頭を下げ、今一度グリドの方へと向き直った。
「私は通訳という中立の立場であり、意見を申し述べる立場にはありません」
そんな申し入れに「ああ、なんだ。そんなことですか」と、グリドは平然と言い放った。そして今度は議長の方へ顔を向け、「通訳の彼にも意見を求めたいのですが。彼は月の人間でありながら、病院の内情に詳しい。良いですかね? 」と聞く。
その口調は真剣であったが、同時に威圧も帯びていた。
議長は慌てて背筋を伸ばす。「は、はい!」と答えると、グリドの顔色を窺うように視線を向けた。
その態度に会議を取り仕切る者としての威厳はなかった。彼もまたグリドの息がかかった人間、元々、決定権などもっていないのだろう。
グリドは満足したように頷くと、改めてディランへと向き直った。
「さて、ディランさん。あなたはどうお考えですか?」
「お言葉ですが、私が発言をしながら通訳する、という状況は議会に混乱を招きます」
「些末な事。月側の皆さんはどうせ、何かあった時用に翻訳機を備えているのでしょう? それを使っていただきましょう」
「いや、そんなことは……」
ディランの言葉を遮るように、「それで、構いません」と、アクエッタ語の機械音声が月側から発せられた。声のした方へ顔を向けると、そこにはミリトが頑張れとでも言うように、向かって親指を立てていた。音声の主も彼、ということだろう。
グリドはディランの戸惑いをよそに、満足げに頷いていた。
「さて、舞台は整ったようです。今ここで、この星の未来について大いに語り合いましょう……」
グリドの笑みを前に、ディランは小さく息を呑んだ。逃げ道はない――唾を飲み込み、静かに顔を上げた。




