第六十五話 場末の星の王
ディランは用意された宿舎へと送り届けられた後、軽く荷解きだけして、受け取った資料を見返していた。結局、アクエッタ側から提供された数値の信ぴょう性は確かめようもない。開始までまだ余裕はあるものの、早めに向かっておこうと会場に向かった。
――アクエッタ中央のマナス教本部。公害保障会議の会場。
以前、シプタに駅まで送ってもらった時にも見た、月の様式をそのまま模倣したかのような壮麗な門飾り。それを抜けた先に教会の本部がある。
低い雲、染まる灰色の風景に、白亜の建物が異様に浮かび上がる。そのたたずまいは、月の都出身のディランへと言いようのないむずがゆさを与えていた。
参加者と思われる人の流れは途切れず続いている。不確かな違和感で立ち止まっているわけにもいかない。
目を伏せるようして進んでいくと「……ディラン?」と、背後から声がする。
振り返ると、そこには見知らぬ男が立っていた。短く刈り込まれた黒髪、鋭い目つき。
年齢はディランより相当上に見える。
その男はディランの顔をじっと見つめ、口元をゆるめた。
「やっぱりディランだ。久しぶりだな」
ディランはわずかに眉を寄せた。その反応を見て、男はさらに肩を揺らして笑う。
「同学年だったミリトだよ。ミリト・コム」
ディランの目が一瞬だけ大きくなった。それを見てミリトと名乗った男は満足そうに頷く。
「思い出してもらえたか。まあ、こっちはだいぶ歳を食ったからな……」そんなことを言いながら、男は自分の頬を指で軽く叩き、苦笑する。
「いや済まない。あまりに面影がなかったもので……」
「ははは。言ってくれるな。しかし酷いな。お前の数少ない味方だったのに」
「忘れたわけではないさ……感謝している」
「そうかそうか。それならいい。で、嫁さんは?」
ミリトのさりげない一言で、ディランは思わず唇を結んだ。ミリトはその反応を見て、
「まぁ、いいか……大事にしろよ。お前を変えてくれた人なんだから」
このミリトは、月の学校でディランの学友だった、という。月の王族に直結する渉外官に就いているあたり、彼もまた、相当に優秀だということなのだろう。しかし、初めからディランと仲が良かったわけではない。ルミナリアとの結婚後にまるで別人になったディランの変貌を、好意的に受け入れた一人、であった。
――法衣の者と白衣の者。立ち話の最中も続々と、いかにも要人という風体をした参加者だろう者たちが入場してきている。そんな彼らに横目を当てられてディランは少し萎縮していたが、一方のミリトと名乗った男はそんなことはお構いなしと言った様子だった。
「しかし、連絡を受けた時は驚いたな。主席だったお前が、こんな場末の星で通訳なんてしてるとは」
このミリトという男。嫌味はないが、遠慮もなかった。ディランは視線を落とし、紙束の端を指で押さえる――自分が通訳を受けたということが月側にはとっくに周知されていたということも、ディランはその時に知った。
しかし、そんなことを嘆いていても仕方がない。気を取り直すように何度か頷いた。
「実は……母の墓参りでこの星へ来たんだが、パスポートを盗まれてしまって」
「なんだそれ。大使館には言ったか? 俺からも言ってやろうか? ……つっても、そんな権力はないのだが……」
冗談めかして話してはいたが、ミリトは本気で心配しているようだった。だが、ディランは首を横に振る。
「いや。大丈夫だ。例の事件の影響で手続きが慎重になっているのだろう。それに、この星でやりたいことがまだあってな」
ミリトはしばらくディランの顔を見つめていたが、すぐにあきれたように手で顔を覆った。
「相変わらず、秀才ってのは何を考えているのか、さっぱりわからん!」
彼は肩をすくめ、しかしどこか嬉しそうに笑う。
ディランは戸惑いながら、その笑いが収まるのを待っていた。が、刹那、ミリトの口元がふっと閉じ、視線が周囲を一度だけ確かめるように動き、身が寄せられる。
「……ディラン、後で少しいいか?」
耳元で落とされた声に返事をする間もなく、ミリトは軽く手を振りながらそのまま人の流れに紛れるように姿を消してしまった。
◇ ◇ ◇
本部内の会場入口には案内板が立てられ、参加者たちがそれを確認しながら通路を進んでいた。時折係員がついて案内しているのが教団側の要人、ということなのだろう。
ざわめきが空気の圧となって、何か耳のほかに皮膚さえ押してくるようだった。音だけではない。法衣や白衣から漂う微かな消毒臭さが、入り口を締め切る前から執拗に漂っている。
――神経質になっているのかもしれない。ディランは自席でそう分析し、緊張を解くようにその場の様子を観察していた。
議場型に配置された会場。参加者は月側のほか、教団の要人や招聘された医療関係者と思わしき人々が参加している。案の定というか、ここへ実際の公害症の患者が呼ばれることはないようだ。
席はもう、ほぼ埋まっている。少し怖いのは、月側の参加者は会議の始まるずっと前から揃い、ディランと同じように会場を観察していたことだ。
時折、その席に座るミリトと視線が合いそうになるが、先ほどの話によってはばかられる気がして、ディランはさりげなく視線を逸らした。
開始時刻が近づくにつれ段々と話し声が収まり、資料をめくる紙の音だけが断続的に響くようになる。
――そこへ。
「教主様、ご入場!」
そんあ声が響くと、参加者の視線が視線が一斉に入口へ向かった。
グリドだ。
相変らず大勢の取り巻きを従えて、月の人間を待たせているこの状況でも、彼が歩調を変える様子は全くない。
半円形の席の中央――もっとも重要とされる位置へ向かい、グリドはそこへ、ドスンと腰を下ろした。
すると今度は背筋を軽く伸ばし、周囲を見回し始める。相手先である月側の参加者、すらを素通りをして、きょろきょろと、そしてやっと端に座るディランを見つけ、口元だけでにやりと笑った。
教団側の要人たちの顔も引きつって見える。月側への不遜な態度、グリドが超えてはならない境界線を踏み越えていく様子を前にして、皆、苦々しく思う気持ちはあるようだ。
そんなことはお構いなしに、グリドは頬杖をつきながら司会席を一瞥する。
司会は慌てて姿勢を正した。
「……では、開会いたします!」




