第六十四話 膝の上の時環
――その日、ディランは未明の頃から病院に出勤し、真白なシーツを静かに畳んでいた。
やがて日が昇るころ、そこへリネンが出勤してくる。
「あらあら? 今日からじゃなかったの?」
そんな声を上げながら、彼女は小刻みにディランへ駆け寄った。
「はい。今回の事でご迷惑をおかけすることになるで……せめて出発の前にと思いまして」
「もうっ! いいのに。ハナちゃんもあなたの仕事完璧に引き継いでるわ。まぁでも、ありがとう! おばちゃん、大助かりなんだから!」
――ディランは本日より、例の公害保障会議の通訳としてアクエッタ中央へと向かう。
期間中は中心街に宿が用意されているため、病院に戻ってくるのは会議が閉会してから、となる。
「では……いってきます」
「ちょっとちょっと、そんな具合で平気かしら? 緊張しているの?」
「まぁ、それもありますが……」
「あなたなら問題ないわ! 私が言うんだから間違いない」
リネンのそんな根拠のない励ましを聞きながら、ディランはふと、ハナのことを思い出した――ディランは以前、彼女へシーツ係に戻るつもりがないことを伝えていたが、それを周囲には話していないのだろう。
不思議な女性だった。教育係の自分には高圧的で、他のスタッフには愛嬌があり、子供たちには警戒心を見せる――どこか、触れてはいけないような、ぼんやりとした影を持っていた。
「どうしたの?」
リネンの声で、ディランは我に返った。つい考えこんでしまっていたらしい。
「いえ。何でもありません」
「もし難しそうなら、今日はお休みしたら? 私からも言っておくから」
リネンはディランの顔を覗き込みながら、不安そうに眉を下げている。一介の病院スタッフが月と教団の重役が集う会議に何を言っておくつもりなのか――そんな疑問が頭をかすめたが、ディランは力強く首を振った。
「そんな、大袈裟ですよ。心配はご無用です!」
自分でも驚くほど威勢のいい声。それは薄い朝の空気の中で、ごまかしようのないくらいに浮いていた。
――そこへ。
「ここにいたか!」
他愛もない話をしている二人の脇から、威圧的な声がかかる。声の主じは黒服だった。
彼はディランの荷物に手を伸ばしながら、「迎えに来てやったぞ。急げ」と言い捨てる。
「え?」
困惑したまま、ディランはかろうじてそう返した。状況が飲み込めないうちに荷物が引き剥がされそうになる。
「一体、何事ですか?」
「いいから来い。お待たせするな!」
黒服は眉も動かさずそう言い放つが、そこでリネンが一歩前へ出た。
「ちょっと待ちなさいよ」
大きな声ではなかったが、妙な芯がある。その威厳のせいなのか、黒服はディランの荷物から手を放した。
「この子はずっと、何事かって聞いているでしょう? そんな乱暴は許しませんよ」
そう言って、リネンは黒服をまっすぐに見た。すると、黒服も応じるようにゆっくりとリネンを見返してくる。その視線は、何かを測るように鋭い。
「本部長様が車でお待ちなのだ。この者を中央まで運んでやろうという寛大なお心である。邪魔するな」
温度の無い、まるで機械のような物言い。そんな彼の様子を見て、リネンは呆れたように息を吐き、ふっと肩の力を抜いた。
「あら、なら最初からそう言いなさいよ。ねぇディル坊?」
「え?ああ、はい」
ディランの言葉はうまく出なかった。それにリネンは少し微笑んで、ディランの肩を軽く押した。
「ほら、行ってきなさい。前に来たあのお偉いさんがわざわざ迎えに来てくれたって」
なるほど、と、ディランは小さくうなずき、荷物を持ち直して黒服へ体を向ける。
「お願いします」
「フン」
黒服はディランを一瞥して短く鼻息で返事をすると、出口の方へと足早に歩き出した。
◇ ◇ ◇
病院の外へ出ると、車寄せに一台、黒塗りの車が静かに待っていた――薄暗い朝の景色の中で、周囲の光を吸い込んだかのような漆黒。
ディランが立ち尽くしていると、黒服はドアを開け、乗れ、とばかりに首を振る。ディランは小さく息を整え、黒い車体へ体を滑り込ませた。
「やぁ」
そこには以前、ディランへ書状を私に来た老人が座っていた。白髪をきちんと撫でつけ、背筋を伸ばして行儀よく座している。皺の刻まれた顔はどこか穏やかで、目じりを柔らかくして笑っていた。しかし何か、油断ならない深さを湛えている。
「あ、お、おはようございます。すいません、迎えに来ていただいたようで……」
「いやいや、急にすまなかったね。驚いただろう」
「ええ、それはもう……」
ディランが正直に答えた途端、助手席に乗り込んだ黒服がギラリとした視線を向けてきた。
「こら、やめんか」
黒服が視線を前へ戻す。すると車内に暫し、沈黙が落ちた。
老人はまるでその気まずさすら楽しんでいるように、口の端をほんのわずかに持ち上げている。
「君に少し、話をしておきたくてね。道すがら話をしようか」
ディランは小さくうなずきだけを返した。老人もまた頷きを返す。
「会議の時間まで、何か予定はあるかな?」
「いえ、特に。今日は水路で向かおうと思っていたので、それでいっぱいです」
「そうか。おっと、もういいぞ、出してくれ」
老人の言葉に、運転手は静かに車を進ませた。あっという間に病院が後方へ流れていく。
「ところでディラン君。今日の資料は受け取ったかな?」
「いえ……公害症の予習はしてきましたが」
「やはりか……」
老人が眉をひそめ、しわがれたため息を漏らした。その顔には落胆、というより、どこが悪い予想が当たってしまったときのような、苦々しい静かな苦みを浮かんでいる。
「……おい、例の物を」
老人がそう口を開くと、助手席の黒服が無言でディランの前に紙束を差し出してくる。
ディランはそれを恭しく受け取ると、表紙の文字を読み上げた。
「補償協議会……これは、今日の資料ですか?」
その問いに、老人がゆっくりと頷く。
「そう。会議の流れ、記録……今回の議案が入っている」
重要な資料だ。ディランは膝の上の紙束をそっと撫でて老人を窺う。
「中を見ても?」
「ああ、もちろんだ。そのために持ってきた。できれば開始前に、すべて目を通してもらいたいのだが……」
老人の申し訳なさげな承認。ディランは頭を下げ、資料をめくり始めた。
――公害の発生からこれまでの経緯、汚染の状況、被害者の数と症状。数千年に及ぶおびただしい記録がそこに記されていた。
ディランは……それを眼球が飛び出るのではないかというくらい目に力を込めながらめくっていく。
老人がディランの手元へ視線を落とし、穏やかに口を開いた。
「済まないね。本来、もっと早く君に渡してあったはずのものなのだが」
「これを、ですか? 重要な資料なのでは」
「ふふ、おかしなこと。君は通訳なのだから、どのみち知ることになる情報だ……しかし、困ったものだな……」
「え?」
そこでディランが顔を上げると、老人は視線が合うことを避けるように窓の外へ視線を移した。
「グリド教主がね、君にかかることはすべてこちらへ任せるようにとおっしゃってね……グリド様はなぜだか君にご執心のようだ」
「私に、ですか」
「ああ、そうだ。何か心当たりはないかね」
「心当たり……」
無くはない。グリドはサラ・アクオーネの末裔だという話を聞いた時から、彼を血縁者であるとディランは一方的に認識している。
だが、それを公言はしない。サラが、母親が、月で子を残していたなどという話はこの星に伝わっていない。その状況で「実は私、サラの息子なんです」などと言っても、まったく相手にされないだろう。それならまだましで、最悪の場合、星の英雄に対して不敬だなどと、どんな咎を受けるはめになるかわからない。
――だが、グリドは自分に執心しているという。まさか、グリドは気付いているのか?
そんな考えが、ディランの頭をよぎった。思い当たる節など、彼にはそれぐらいしか思い当たらない。
思案に暮れるディランをかすかに横目で見て、老人は小さく息を吐いた。
「……グリド様の側近にも散々、伝えていたのだがね……頑なのようだ」
窓の外の景色が流れていくたび、ディランの胸の奥で、隠した秘密がわずかに軋む。老人の横顔は穏やかに見えるだが、目の奥には深い憂いがあるように思えた。
「……この会議は、いくら教主様といえど私物化していいものではない、この星の行く末そのものがかかっているのだ。本来なら、率先して円滑な運営を取り計らっていただきたいお立場なんだが……」
老人の言葉はそこで切られた。それ以上の言及は不敬、ということなのだろうか。
ディランはそっと窓の外へ視線を移した。アクエッタ中央の建物群、その輪郭が迫ってきて、ゆっくりと漆黒の車体を飲み込んでいった。
――淡い光に照らされる街並み、行き交う人々の営み。
この星の未来、ここに生きる人々の運命が、この膝の上の紙束に乗せられている――そんな錯覚が、ディランの鼓動を弾ませた。




