第六十二話 捨てられない夢
「ディラン・クレセントはここか!?」
壮麗な衣をまとった男を守るように、黒服の護衛が左右に立ち並ぶ。そんな集団が突如、洗濯場の扉をあけ放ち、場の空気を震わせるほどの声を張り上げた。
前列にいた護衛が書状を突き上げ、声を張った。
「ここにおるのだろう!?」
その場の者たちが一斉に畏まり、こうべを垂れたまま、そっとディランへと視線を寄せた。
(何だこいつらは……? 一体何事だ……?)
胸の内でそう呟きながらも、周囲の視線があまりに露骨に自分へ向けられている以上、様子をうかがう余裕などはない。
「はい……私です」
観念したように名乗ると、黒服の男が冷たい眼差しを向けてくる。
「教皇様より直々の命だ。受け取れ」
鼻息を荒くしながら、書状を突きつけるようにディランへ差し出した。
「これは?」
「聞こえなかったのか。教皇様の書状だ。まず受け取れ!」
「いえ、なぜその教皇様が私へ?」
「貴様……不敬だぞ……その書状の重みが分からぬのか?」
「重みと言われましても……私はマナスの教徒ではありませんし」
「何ッ!」
黒服が怒気を含んだ足取りでディランへ迫る。
しかしその瞬間、、
「やめよ。下がれ」
と、壮麗な衣をまとった男が低く響く声で制すと、黒服ははっとしたような顔をして深く頭を下げ、脇へ退いた。それと同時に、洗濯場にいた職員たちも居住まいを正した。
そんな彼らの様子を見て、老人は細かく手を振って言った。
「それと……他の皆は作業を続けてくれ。機械もそのままで構わん。邪魔をする」
職員はその言葉にまた深く頭を下げ、皆、ぎこちなく作業へと戻っていく。それを横目に老人は咳ばらいをし、黒服から書状を両手で取り上げ、言葉を続けた。
「ディランとやら。これはな、教皇様のありがたい勅書なのだ。教徒でない者であっても、相応の敬意を表してもらえると嬉しいのだが」
「……失礼しました。その、そういう意図はなかったのですが……」
それはもう、洗濯機の音に飲み込まれそうな弱々しい返答だった。
老人は不満げにあご髭をいじりながらディランを覗き込み、「ふむ……」と今度は困惑したように息を漏らした。
「困らせるつもりはなかったのだがな……」
「いえ……しかし勅書、となれば何かしら……私に大切なご用件があるということですよね……?」
「その通り。察しが良くて助かる」
「……それならなおさら、しっかり確認せねば……」
「それは大事なことだが、そこまで時間は無いようだ」
「そうですか……もし、お受けできないと言ったら……どうなりますか?」
ディランの発言に、取り巻きの黒服たちの空気がわずかに張りつめた。その緊張を感じ取った老人がまた手を挙げて制す。
「……これは脅迫ではない。ただ、こう考えてはいかがかな。そなたはこの病院の職員で、この病院は教団が運営している。これはいわば、社長からの伝言ということになる」
「なるほど……と、なればこれは業務命令であり、実質的に断れない……という訳ですね」
「人聞きが悪いが、まぁそのように受け取ってもらえた方が早いな」
「……先ほどの話からすると、中身、つまりそちらのご用件についてもご存じなのですね? 差し支えなければお聞かせ願えますか?」
「おっと……なかなか聡明なようだな。まぁ、隠すことではない。今度、月との定例補償会議があってな。そこに通訳として参加せよ、とのお達しだ」
「通訳……この私が?」
「そなたはアクエッタ語の読み書きができるのであろう? なにせ、私も今、感心しているところだからな……そなたのアクエッタ語は実に流暢だ。これまでは月側に翻訳を任せていたのだがな……まぁ、齟齬の無いようにしたい、というお考えなのだろう」
「そうでしたか……今、開封して拝見しても?」
「そうしなさい。確認したいことがあれば今しておいた方がいい。ほれ、どうぞ」
ディランは差し出された書状を両手で受け取り、それを恭しく掲げると、指先で封の縁を確かめるように触れた。
一個人へ送るような装丁ではない――そのことがディランへ事態の重要さを伝えているようだった。息を整えて慎重に封を切り開き、書状を丁寧に広げていった。
視線を落とし、上から順に静かに読み進めていく。その視線が左右に振れるのを見て、老人は満足げに目を細めながら「やはり読みも問題ないようだな……」と呟いた。
「……わかりました。ただ、ひとつだけお願いがございます」
「おお、受けてくれるということなら。して、なにかな?」
「はい。こちらには……しばらくの間の役目、とあります。ただ、この職場は人不足でして……私の代わりに人材を寄こしていただくことはできますでしょうか?」
「ほう……雇われの身でそんな心配までするとは、なかなか機転が利くようだな」
「……いえ」
「……確かに、そなたが抜ければ業務に支障が出るだろう。人材の件は、こちらで手配しよう」
「ありがとうございます」
「では、失礼するとしよう。邪魔したな」
そう言って、老人が踵を返す。男の足取りに合わせて周囲の者たちが道を開いた。
部屋を出る直前、老人は一度だけ振り返り、場を確かめるように視線を巡らせていった。
――扉が閉まると、回り続ける洗濯機の低い唸りが、ふたたび空間の底に広がっていった。
その場にいた職員はしばらく固まっていたが、リネンが駆け寄ってきてディランの手を力強く握る。
「すごいじゃない! 教皇様から直接お仕事に依頼だなんて!」
「いえ……それより、ご迷惑をかけてしまうかも」
「そんなことはいいのよ。受けてくれて安心したわ!」
そう言いながら、リネンは手を力強く上下に振った。
リネンが自分事のようにはしゃいでいる姿を見て、ディランは苦笑いをした。
「受けたというより、受けざるを得ませんよ……あんなに高貴そうな人がこんなところまで直接……しかも取り巻きまで連れて……断ったら面子をつぶすことになってしまう」
「あら……あなた、考えすぎじゃないの?」
「え? いや……ははは。そうかもしれませんね」
◇ ◇ ◇
その夜、病院の資料室で蔵書を調べているディランの姿があった。通訳を受けるにあたり、専門用語や経緯など事前に頭に入れておこうというものだ。
扉がそっと開き、シプタが現れた。
「先生、聞きましたよ。通訳のお仕事を仰せつかったという」
「ああ。今こうして色々調べ物をしている。齟齬の無いように、というのが求められているからな」
「そうですか……」
シプタは視線を落としたまま、ゆっくりとディランの真向かいの席へ腰を下ろした。
「病院からも離れてしまうおつもりですか?」
「いや? この役目が終わったら復帰するつもりだ」
「……わからないですよね。先生は行動が読めないから……」
シプタは弱々しくそう言い、そのままの調子で続けた。
「先生にずっと、相談したいことがあったんです……でも先生、最近、私を避けていませんか」
「え、いや……避けてなど……」
「そうでしょうか……先生は私の仕事っぷりを見てくれるとおっしゃった。でも……そんな素振りもない。もうお忘れになってしまいましたか?」
「いや……」
ディランは言葉を探すように視線を泳がせ、ついには口ごもった。シプタの指摘は真っ当なもので、反論の余地はない。普段も、そして先日の廃棄倉庫でも、シプタに対してつれない態度をとっていた。
シプタの肩が、わずかに上下する。
「ごめんなさい。先生を困らせるつもりはなかったんです……私、まだ、治療の夢を捨てたくなくて……それがずっと胸の内にくすぶっていて、それなのに、こんな気持ちで患者さんと向き合っていいのかなって……」
そこまで話して、口をつぐんだ。少し頷きながら、目に溜まった涙を指先でぬぐった。
「これじゃあ相談というより……あれですね。単に、先生に慰めてもらいたかっただけなのかも。はは、ダメだな私って……これだけ期待されているのに、自分の進むべき道さえ自信がない」
――暫しの沈黙。
シプタが顔を上げた時、目の前のディランは目を丸くしていた。
「え? 先生……?」
シプタがそう尋ねても、ディランは身動きもせず、瞬きを繰り返すだけだった。
ディランの震える唇が、ようやく言葉を結ぶ。
「い、今の……今の話は……本当か?」
「え? 何がですか?」
「いや、さっき言ったことは、本当なのか?」
「……ああ、はい。自分の進むべき道さえ……」
「いやいやいや!そうではなくて……その……」
「その?」
ディランはつばを飲み込み、息を細かく整えた。
「……公害症の治療、まだ断念して?」
「え? ああ、なんだ。そのことですか……先生には前にも話しましたよね。やっぱり、見苦しいですよね……」
シプタがまだ話し終わるのを待たずに、ディランの拳が強く握りしめられていた。次の瞬間、「よしっ!」という短い声が資料室に響く。シプタは思わず目を丸くし、肩を小さく跳ねさせた。しかしディランは、そんな状況を意にも介する素振りもなく、懐から封書のようなものを取り出すと、彼女の前へと差し出した。
「これを確認してほしい。私が病院を離れている間に目を通しておいてくれ」
「え? これって……?」
「あっ、そうだっ! そうなれば、一つお願いがある。私が戻ってきたときに、今度は炊事場に入れるように取り計らってもらえないか?」
「え? シーツ係から今度は炊事場、ですか……?」
「そう! 炊事場も人手が足りないようだし、以前から院内で点数を稼いでおいたから勝算はあるとみている。まぁ、料理の腕はまだまだだが、アクオーネの郷土料理も叩き込まれているぞ」
「え……いやいや……いったいどういう……?」
「いや、待てよ? こうなると……あまり一緒にいるところを見られるのはまずいかもしれないな。当面、会わないようにした方がいい。では……」
と、それだけ言い残して、ディランは足早に部屋を去って行った。扉が閉まる音が、呆然としているシプタがただ一人いる、静かな資料室に響いた。
シプタはもう、呆れたを通り越していたのかもしれない。ただ、その手には、ディランから渡された封書がしっかりと握り締められていた。




