第六十話 少年の願い
「……やっぱり、そうなんですね?」
トゥルが静かに問うと、ディランは「まいったな……」と小さく息を漏らし、こめかみをかいた。視線を逃がすように床へ落とすが、その視界の端にはなお、毛布の上から骨の形がわかるほど痩せた足が映り込んでいる。
――聞きたいことがあるので来て欲しい。そんなトゥルの願いに応じたのは、質問を聞くためだけではない。ディランもまた、トゥルへ聞きたいことがあった。
トゥルはこの病院で有名だった。彼は約二年前、アクオーネの手前にある港町から船によってこの病院へ運び込まれた患者の一人だと聞いた。下半身は動かず、内臓にも重い機能障害を抱え、生活のほとんどをこの重症病房のベッドの上で過ごしているという。
その時に運び込まれた他の重症患者たちは、その日のうちに息を引き取った者もいたらしい。そんな末期症状にあって未だ存命なのは、このトゥルだけらしい。
それほど彼は特殊な存在だった――公害症の研究対象になるべき患者。
しかし――教団は研究を固く禁じているらしい。被験者がまだ少年であること。そして、治療という希望を患者にもたせることはかえって絶望を深めてしまうから、そんなもっともらしいことが理由らしい。
医療器具の規則的な音が、部屋の時間を静かに刻む。その静寂を破るように、ディランは大きく息を吐いた。
「その通り。君に聞きたいことがある。しかし鋭いね。驚いたよ」
「はは……ずっとこんな広い部屋にいると勘が冴えてくるのかもしれません……ただ、答えられることは無いかもしれないです……自分の体のことなのに、うまく説明できないなんて……」
「問題ない。私が聞きたいのは、病気の事ではないから。君とざっくばらんに話したいと思ったんだ」
「あい? 僕と、ですか?」
「そう。君はこの星の、公害症の患者で、私は月の民。だからこそ、君が何を思うのか、聞いておきたくてな」
「……僕のことを聞きたいのですか?」
「ああ」
「……本当に」
そう言って、トゥルは微笑む。その目にはうっすらと涙が光っていた。彼は目尻を指で押さえながらさらに続けた。
「病気のことを色々聞かれるんじゃないかって思っていて……でも僕の話を聞きたいと言ってもらえたのは初めてで、なんか嬉しいです」
目をこすりながら、トゥルは小さな頷きを繰り返す。
「ええと……僕がこんな立派な病室に入れているのは、お姉ちゃんがお金を払ってくれているからなんです。でも僕は、お姉ちゃんがどこで何をしているのか、知らなくて」
「払い続けているということは元気というだろう。他にご家族の方は?」
「僕らの親は……」
トゥルは一度言葉を切り、視線を上げた。あるのは白い天井のみ。しかし、少年の眼差しは、それすらを突き抜けて、はるか虚空を見つめているようだった。
「見舞金だけを持って姿を消しました」
「見舞金?」
「はい。救世隊から公害症の診断を受けたものには、教団から見舞金が渡されるんです。皆はそれを、入院の準備に当てたりするらしいんですけど……持って逃げされたって、お姉ちゃんが……」
「……なんと言っていいか……」
「いいんです。アクエッタでは珍しいことじゃないんです。ほら、昼間にここに来ていた子たち、いたでしょう?」
「ああ」
「彼らも、見舞金代わりにここへ売り飛ばされたんだって。体は健康で、なんともないのにって」
トゥルの淡々とした声のせいなのか――昼間に駆け回っていた子どもたちの笑い声が、今は遠い記憶となって耳の底にあるように感じられた。
救世隊の診断がどの程度精密なものなのか、ディランには知る由もない。ただ、話を聞く限り、教団が強引に入院者数を増やそうとしているように思える。
院内で元気に駆け回る子どもがいたとして、救世隊の診断を疑うようなこと口にすれば規律を乱したとして厳罰に処されるよ――と、教育係のリネンからは口酸っぱく言われていた。
そんなことを考えながら、ディランは口を開いた。
「もし、病気が治ったら何がしたい?」
「……そんなこと、考えたことがなかったです。でも、もし叶うなら……」
トゥルは手のひらを見つめた。指先がわずかに震えているのは、痛みのせいなのか、言葉を探しているせいなのか……ディランには彼の言葉を待つことしかできなかった。
「誰にも心配をかけず、誰の負担にもならず、一日を過ごしてみたいって、そう思います」
「……」
ディランは言葉を返そうとしたが、それは喉の奥で止まってしまった。トゥルの願いはあまりにも静かで、あまりにも重い――まるで祈りの言葉のようであったから。
ディランは一度口を閉じ、深く息を吸った。
「すまないな、変なことを聞いてしまって」
「そんなことはないんです。なんだか……ディランさんには話しやすくて。初めて見た時から、なにか、僕を見る目が優しさに満ちていたというか……なんて言えばいいかな」
「優しさか……優しければ、変な質問で君を困らせることもないだろうに……君は察しがいいから、言っておいた方がいいだろうな。実は、私にも病床の妻がいる。名前はルミナリア。私は知らずのうちに、君にルミナリアを重ねて見ていたのかもしれない」
「……その人は、今?」
「彼女は月にいる。もちろん心配だが……私がアクエッタに来てもうかれこれ1年、だが、月にいる彼女にとっては一日しか過ぎていない」
「……はは。そう聞くと、やっぱり不思議ですね」
――それからトゥルは、ディランに様々な事を話した。
姉のこと、自分の田舎のことやたまに出てしまう方言の話、この病院での生活のこと、シプタのこと、マナス教のこと。
「なんだか、話しすぎて疲れたかも……こんなの初めてです」
「ああ、すまない。ここまでにしよう」
「ありがとうございます。また来てくださいね」
「また来るよ。私も有意義な時間が過ごせた」
「わぁ、嬉しいです……何かディランさんだけは本心で話しているのがわかる気がする」
「私がか? 悪い気はしないが、私だけってことはないだろう」
「そうなのかな……」
勘の鋭いトゥルのこと、本当にそうなのかもしれない。それに、誰だって書く仕事の一つや二つはある。ただ、少なくともシプタは後ろ暗いことを隠すような性分ではないはずだ――ディランの脳裏に、そんな考えが浮かんだ。
「僕もう、新しいことを知っても未練になるって、知識を遠ざけていたんです。でも、月の話も聞きたいし、それになんか、ディランさんに話を聞いてもらったら、僕がディランさんの心のなかで何年でも生きられる気がして……変、ですよね」
「いやいや。もちろんトゥルのことを忘れるつもりはないが、少し重圧を感じるな……」
「……はい」
そこで突然、トゥルの表情が曇る。
「いや、すまない。嫌がっているわけでは……」
「いえ……すいません。こうしてディランさんから月の話を聞いていると、自分の目で見てみたいって思ってしまう」
「結構なことじゃないか。それに、私などよりよっぽどあちこちを旅行している人もいるはずだ。そういう人たちに話を聞いてみるのもいい」
「……ですが、知れば知るほど、生きたいという気持ちが強くなってしまう」
「それは、トゥルにとって恐れるべきことなのか?」
「怖い、かもしれません。マナスの教えでは、静かな心で死を受け入れることが、天国に達する条件、なので」
「静かな、心で……」
そう聞いた時、ディランは何か、この広い病室の空気が一気に歪みを帯びたように感じた。思わず顎に手を当てて唸る。
「むむむ……」
「ふふ。宗教なんて月の都の人には理解できませんよね……こんな体だからこそ、天国こそが希望。気休めでしかないかもしれない。でも、心が楽になる……ディランさんはどう考えますか?」
「私か? 私は……」ディランの呼吸がわずかに止まった。胸の内側で、ルミナリアの笑顔が揺れたように思えた。
「……宗教を否定するつもりはないし、トゥルの前で言うことじゃないかもしれないが……私は最後の最後までもがくと思う。例え確定的な死が待っていても、もがき続けてしまうと思う」
「……いいですね。ぼくもそうやって、強くありたい」
「……君は、強いよ」
会話中、トゥルの眉間がわずかに寄ることがあった。恐らくは体に痛みが走っているのだろう。その痛みを、なるべく顔に出さないようにと戦っている。それが分かっていてもなお、ディランは彼の口から希望を聞き出したいと思い、会話を止められなかった。
「生きたいという気持ちがあるのなら、さらに強くあってほしい……私も実は、君に隠していることがある。今は言えないが……君と話をして少しだけ、方向性が見えた気がするよ……」
「あい? それは一体……?」
――その時、廊下の方から低い詠唱が聞こえてきた。
この病院での消灯を報せる、看護師たちの祈りの巡回だ。
「おっと……もう行くよ。また、明日」
そう言い残して足早に部屋を出て行く、そんなディランの背中を見守るトゥルの目には、ほんの少しだけ光が灯っているように見えた。
――しかし、そんなトゥルの抱えていた不安を引き受けたかのように、ディランの表情は険しく歪んでいた。




