第五十九話 聞きたいこと
――病室から見えるアクエッタの空は、相変わらず厚い雲に覆われている。
光は雲に吸い込まれ、まだ昼間だというのに、港一帯は夕方のような薄暗さに包まれていた。
その港からまっすぐ伸びる舗装路の先に、ディランの勤める病院は建っている。
ディランは今日もシーツ交換用のワゴンを押しながら、ゆっくりとした足取りで廊下を進んでいた。顔を上げた先にあったのは、七番病房の標識。
七番病房――重症患者専用の区画。そこは物音一つしない空間で、カートの車輪の音がやたら遠くまで響くほどの静寂に包まれている。
ディランはとある部屋の前で足を止め、静かに扉を押し開けた。広い病室に、ベッドがただ一つ。
そこで半身を起こした少年が入り口の方を見つめていた。
か細い姿。腕につながれた様々な計測器。その儚げな影、まるで曇り空が病室に入り込んで形を成したようで、心を締め付けて――
「逃げろっ!」
突然、扉の脇に隠れていた子供たちが一斉に廊下へと飛び出した。
「お、おいっ、まて!」
後を追う間もない。彼らは制止も聞かず、笑いながら走り去っていった。
「まったく……」
大きく息をつきながら、ディランは手に腰を当てる。
やがて子どもたちの足音が微かになるころ、
「……あの子たちを叱らないであげて。僕が寂しくないように来てくれたんだ」
と、病室の主である少年が静かに口を開いた。
少年の名はトゥル。この病院で数室しかない有料個室を使用している、公害症の重症患者だ。
ディランはワゴンをベッドのそばまで押し、トゥルに穏やかな声で言った。
「少しだけ体を横にしてくれるかな?」
トゥルはゆっくり頷き、細い体をベッドの端へ寄せるように横向きになる。
すぐさまディランは指を入れ、慣れた手つきでシーツを少しずつ引き抜いていく。
「……ディランさん、ありがとう」
トゥルがそう言うと、ディランは新しいシーツを広げながら答えた。
「なに。これが仕事だからな……よし、いいよ」
話し終わるころに新しいシーツがベッドにぴんと張られ、少年はゆっくりと体を戻した。
「……あの子たちは、本当に悪くないんだ。この広い部屋が珍しいって言ってた……さっきもね、カートの音を聞いて、みんなでそこへ隠れようってなって……」
「……」
古いシーツを抱えながら、ディランは頷きだけを返していた。
――公害症と言っても、その重症度は様々ある。先ほど病室に来ていた子供たちは軽症、それどころか本当に患っているのかというほど元気で、職員たちも手を焼いている。
そんな彼らの今日の標的が、このトゥルだった、のかもしれない。確かに、彼らは病室に詰め込まれるようにベッドを並べているから、このような広い部屋に興味がわくのだろう。
「じゃあ、また明日」
作業を終えて去ろうとするディラン、そこへ、
「あっ、ディランさん!」
と、トゥルが背中に声をかける。
「……僕は、あなたに聞きたいことがあるのだけど……いいかな」
「聞きたいこと? 内容にもよるが、どんな?」
「いや、うん。ごめんなさい。ディランさんは忙しいよね」
「じゃあ……仕事が終わったら、ここにまた来てもいいかな?」
「え、いいの!?」と、そこまで言ってトゥルが急にせき込みだした。
ディランは慌てて駆け寄り、その細った体を抱き起す。
「苦しいか? すぐ、医者を呼ぼう」
ディランが背中をさすりながら言うと、トゥルは口を押えながら懸命に首を振った。
「……僕、ちょっと興奮してしまったみたい。ごめんなさい、ディランさんに心配をかけてしまって」
「いや、こっちは問題ない。それより、本当に……」
「うん、平気……本当にすぐにおさまる」
呼吸がようやく落ち着くと、ディランは背中を支えたまま、ゆっくりとベッドへ寝かせた。
「ごめんなさい……」
「なに。君が謝ることじゃない。苦しくなったらすぐに誰か呼ぶんだぞ。」
「ディランさんは優しいね……もう平気だから、後で……」
「ああ、約束だ。後でな」
ディランがそう言うと、トゥルは弱々しく頷いた。
◇ ◇ ◇
ディランは勤務を終え、病房の薄暗い廊下をゆっくり歩いていた。
その足取りは、昼間よりも相当に慎重なものであった。別に忍び込んでいるわけではないが、余りに静まり返った雰囲気に、その一歩の音を立てることすら気が引ける思いがしていた。
――深く息を吸い、病室の扉を押し開ける。
トゥルは起き上がっていた。
枕にもたれ、薄い毛布を腰のあたりまでかけている。
陽の明かりがすっかり落ち、そのがらんとした部屋の寂しさを際立っている――計測器の画面だけ微かに光を放ち、規則的な電子音が小さく響いていた。
ディランはベッドのそばへと椅子を引き、腰を落とす。
「さて、聞きたいこととは何かな?」
「うん……僕がディランさんに聞きたいことは……」
そう言って、トゥルは天井を見上げた。
「……そうだな……ディランさんって、月から来たのでしょう?」
「ああ。よく知っているね」
「はい。シプタ先生が言っていました。今はつらいだろうけど、ディランさんが来てくれたら何とかなるかもしれないからって」
「……シプタめ……そんな勝手なことを」
「ふふ。責めないであげて……治療に期待とか、そういうことを言ってくれたんじゃないんだ……僕が落ち込んでいたから何か励まそうとして言ってくれたんだと思う」
「……そうか」
「……あのさ、月って……どんなところなの?」
「月か……そうだな……」
それだけ言って、ディランもまた天井を見上げた。月とはどんなところなのだろうか。それを客観的に言葉にしようとすること自体、彼にとっても初めての経験であった。
「まずは――結界かな。月の都は結界に覆われていて、どんなものでも通さない……」
「そうなんだ……通ろうとすると、どうなるの?」
「ふふ……このように」
ディランはそう言って、右腕をまくってトゥルの前に出した。いまだに裂傷の痕が残っている。
「うわ……痛そう……」
「これでもだいぶ、ましになったほうだ。それに、結界はそれだけじゃない。例えば、この星の一年は月にとっての一日にすぎない」
「え……それなのに、ディランさんは月から離れて平気なの?」
「……その通りだ……本当はもっと早く戻ろうと持ったのだが……」
「でも、それだと、月の人たちって周りより進化も遅くなるんじゃ……?」
「まぁ、月は文明が進んでいるとされていて、これだけ時間の流れが違ってもいまだにこの星域の長ということになっている……ただまぁ、月に住んでいるからと言って幸せなのかまではわからないがな……」
「そっか……」
トゥルはそう言って、少しだけ目を伏せた。
ディランはそんなトゥルの横顔を見つめていた。細い頬の輪郭が計測画面の光に淡く浮かんでいる。
「……で、君が聞きたいことって……月の話だけじゃないだろう?」
「え? いや……」
トゥルはディランの問いに、気まずそうに視線を逸らした――計測器の電子音が、微かな波音とともに病房の静けさに溶けていく。
と、そこで、トゥルが小さく吹き出す。
「……ごめんなさい。考えていなかったです」
「え?」
ディランがあっけにとられた顔を向けると、トゥルは口元を押えた。
「ああ、すまない……」と、ディランは思わず言っていた。医療従事者の端くれとして、自身の間抜け面で重症者をせき込ませるわけにはいかない。
「ということは、聞きたいことは以上、なのかな?」
「……いえ、実は、ディランさんこそ僕に聞きたいことがあるんじゃないかなと思って。それで呼んだんです」
――少年から発せられたそのさりげない一言に、ディランは思わずつばを飲み込んでいた。




