第五十八話 内緒の内側
──昼を過ぎた病棟。
ディランは廊下に敷き詰められたベッドを避けるようにして、シーツの山を抱えていた。
院内は子供たちの話し声や食器の触れ合う音であふれている。
楽しげにおしゃべりしている子供たち――だが、その笑顔はどこか影があるようだった。
「先生!」
聞き覚えのある声に振り返ると、シプタがにじり寄ってきていた。驚きと呆れが混ざった彼女の表情を観察しながら、ディランは抱えたシーツを持ち直す。
「先生……医局に来ないなと思ったら、雑用係に入ったって聞きましたよ……私は先生を、医療スタッフとして推薦したんです。一体どうして!?」
「どうしてと言われても……」
ディランは困ったように眉を下げながら、シプタの険しい目線をかわすように、またシーツを持ち直すふりをした。
「私の医学知識は独学だからな。医局に入るわけにはいかない」
「それは分かりますけど……医療行為をしてほしいという訳ではないです。その知見でみんなを導いて欲しいというか……」
と、シプタはいかにも釈然としないといった表情で首を傾げている。
「これは自分で希望したことなのだ。第一、シーツ交換も病院になくてはならない仕事だろう」
「もちろん、そうですけど……」
「それに、男手が足りなくて困っていたらしいからな。助けになれて嬉しいと思っている」
「忙しいのは医局も同じですよ」
「そうかも知れないが……医師でもないのに出しゃばるつもりはない」
「だってあの時……」
「あれは……緊急時だったから……」
ディランの歯切れの悪い答えに、シプタは頬をふくらませた。
「……まいったな。次に会ったら仕事を紹介してくれた感謝を伝えようと思っていたのに」
苦笑しながらそう漏らし、向き直って作業に戻ろうとするディラン。それを逃すまいとシプタが後ろをついていく。
「先生に受けた恩、こんなことじゃ返せないことはわかってます」
「恩なんて別に……それにいい加減、先生はやめてくれないか」
「しょうがないじゃないですか。しっくり来るんだもん。あれですよ。ああ、先生。医局のほうがお給料もぐんと……」
「ありがたいが、お金の問題も解決済みだ……って、あっ……」
ディランは何かを思い出し、足を止めた。
「すっかり忘れていた。アクオーネに行くときに借りたお金を返さないとな」
「そんなのいいですよ。もともと大した額じゃなかったし……それにお礼なら、他の形でぜひ……」
「そう言われてもなぁ」
ディランは悩ましげな表情でまた歩き出すと、角に停めてあった回収カートへとシーツの束を突っ込んだ。そして代わりに交換用のシーツを積んだ台車のハンドルを掴み、「ふう……」と息を吐く。
「……ふう、じゃないですよ。先生は私の目の届く場所にいるべきです。見張ってないと内緒で変なことしそうだし」
「変なことって、一体私を何だと思って……あっ!」
ディランの驚きの声にシプタの方が跳ね上がり、白衣の裾がふわりと揺れた。
「今度は……一体、何ですか?」
「いや、内緒という言葉で思い出した。君に渡したいものがあったんだ」
「えっ!?」
シプタは思わず、大きな声を上げてしまった。急いで口元を抑え、一度きょろりと辺りを見回す。再びディランへと向けられたその顔は、少し紅潮して見えた。
内緒――その言葉こそ、シプタが求めていたものだったのかもしれない。彼女はずっと、ディランの内緒の内側に入リたいと思っていた。
「う、嬉しいです……とうとう」シプタは目を輝かせながら、大きく何度も頷いている。
──しかし、そんなシプタの反応を見たディラン、急に表情を曇らせた。
ディランが渡そうと思っていたのは、機械人形に記録されていた公害症の根治にかかる論文だ。しかし、星の希望とまで言われ、緩和ケアの第一人者として期待されているシプタ、そんな彼女にその論文を渡せば、この病院の医師として励んでいる彼女を惑わせることになるかもしれない。
(シプタはシプタの使命で動いているはずだ。真実に衝撃を受けてしまうかもしれない。巻き込むわけには……)
慎重に見極めなければ――そんなことを考えながら一人、彼は思案に沈んだ。
一方のシプタ、そんなディランの様子を見て「どうしたんですか……?」と首を傾げている。
「……うん、そうだな。シプタの気持ちを大事にすべきだ。君の働きぶりを見せてもらいたい。そのうえで、渡すべきかを見極めたい」
「へ? 私の……働いているところを見る……んですか?」
「ああ」
ディランは真面目な顔でうなずいた。
シプタはしばらく目をぱちぱちさせていたが、やがて拳を力強く握しめて、
「なんでかはさっぱりわからないけど、試されているということですね……わかりました!」
と声を張り上げた。
──その時。
廊下の向こうから集団が現れた。取り巻きの中心にいるのは、病院に不釣り合いな華美な衣装をまとう、従者を従えた貴人。
こちらに近づいてくるにつれ、子どもたちまでもが口を閉ざす。その光景に、ディランはまるで廊下の空気が冷たい膜で覆われたように感じた。
◇ ◇ ◇
「何やら親しげに話していたようですが?」
その貴人の風体の男は、シプタの顔を見つめながらそう問いかけた──問いかけたというより、尋問のような冷たさがある声色である。
「い、いえ……」
「ふーん……」
男は視線を落としたシプタの顔色を、さらに追い込むように窺った。そこから滑らかに、今度はディランへと顔を向ける。
「こちらは……どなたかな?」
問いにディランが口を開こうとした瞬間、シプタが間へと割り込んだ。
「こちらがディラン・クレセントさん、私の恩人です」
「ほう……」
男はシプタに目もくれず、黙ってディランを見つめ続けた。悪意を感じるほどではないが、値踏みでもするかのような眼差し。その不気味さに、ディランの体がわずかに硬まる。
「そうでしたか。これはこれは……私の婚約者がお世話になりました」
「いえ、まだ、お話をお受けしたつもりは……」
シプタがそう答えると、男の口元がわずかにゆがんだ。
「──まぁいいでしょう。まだということは、希望があるということだ。ふふ、ディラン殿。あなたのお噂はかねがね聞いておりましたよ。なんでも、とても優秀な月の方なのだと……しかし、そのあなたがこんなところで一体何を?」
「え? あ、はい。この病院で、シーツ交換をさせていただいてます」
「なに?」
男は一瞬目を丸くしたあと、小さく笑った。
「まさか月の民であるあなたが雑用をしてくれるとは……ふふ、いったい何のおつもりか」
礼儀正しい口調だが、言葉は蔑みにまとわれていた。その笑みに嘲りを感じたシプタがたまらず反応する。
「お言葉ですがグリド様。シーツ交換も病院になくてはならないお仕事です」
強く発せられた言葉に、男は「ほう」と眉を上げた。
「随分と肩を持ちますね」
「肩を持つなど……もともと私が紹介した仕事ですし。それに、これ以上私の恩人に対して失礼なことは……」
「ほほう」
男は納得したような、していないような返事を発すると、再びディランを見据えた。
「失礼したディラン殿。申し遅れた。私はグリド・マナスという。以後お見知りおきを……」
「え? グリド・マナス……様ですか?」
「そうだが、なにか?」
その返答の直後、ディランの様子がおかしくなった。目を輝かせ、身体を震わせだす。
「……ど、どうしました?」
そう口を開くより早く、グリドはわずかに身を引いていた。まるで危険なものを見るように、ディランの好奇心に満ちた顔に怪訝な目線を向けている。
「はっ、はじめまして!」
言葉の勢いのあまり、ディランの声は裏返えった。グリドはさらに半歩後退し、従者が自然と前へ出る。
引いている――ようやくディランは我に返り、「す、すみません。つい」と、無造作に頭をかいた。
そんなディランのらしくない取り乱し方に、隣にいたシプタまでもが眉をひそめる。
あまり感情を表に出さないディラン――そんな彼も、サラ・アクオーネの末裔と言われている、自分と血がつながっているかもしれないグリドと対面し、思わず興奮してしまったようだ。
◇ ◇ ◇
「シプタせんせーっ!」
廊下の向こうから切羽詰まった呼び声が響いた。
するとシプタが「あっ」と振り返り、「すみません、私はこれで……」と頭を下げ、不安そうに何度か振り返りながら、呼び声のした方へと駆けていった。
その白衣の裾が角の向こうへ消える頃、「まったく……」と、グリドは小さく息をついた。そして、
「では私も失礼するよ、ディラン殿……まぁ、あなたのアクエッタ語は大したものだ。働きに期待していますよ」
そんな皮肉めいたセリフを言い残し、もと来た方へと歩き出した。
従者たちの靴音が冷たく廊下に響く。そのうち彼らの姿が消えると、一人、一人と、子どもたちがざわめきを作っていく。
また日常へと戻った病院──だがディランだけは、興奮した面持ちのままグリドが去っていった方を見つめ続けていた。




