第五十七話 まさかの縁談
翌朝。
薄曇りの空の下、ディランは作業着の袖を整えながら、病院の裏口へそっと足を踏み入れた。
「ここで合っている、よな……?」
雑務担当の詰所。ディランが扉の前に立つと、中から楽しげな笑い声が漏れ聞こえる。
一つ長く息を吐き、扉を開けると、数名の職員が集まり談笑していた。
「おはようございます! ……あの、今日からお世話になります、ディラン・クレセントと申します」
そう言って頭を下げると、年配の作業員が柔らかく微笑みながら話しかけてくる。
「おはようございますディランさん。よろしくね」
恐らくはその場の長とみられる年配の女性。ディランの強張った顔をみてくすりと笑い、明るい声でさらに続ける。
「私があなたの教育係を務める、リネンよ。ちょうど男手が欲しかったから、本当にありがたいわ」
「はい、あの……お役に立てるよう一生懸命働きますので、何なりとお申し付けください」
女性が満足そうに頷くと、周囲の作業員たちも「よろしくね」と軽く会釈を返してくれた。
昨日の事務員とは打って変わり、暖かい空気が流れている。
初めて就職したディランにとって救われるものであった。
「じゃあ早速だけど、シーツの交換と器具の補充、これを覚えてもらうわね。」
「はい!」
「じゃあついてきて」
リネンが軽やかに歩き出す。ディランは慌てて作業着の裾を整え、彼女の後を追った。
「まずはシーツ交換ね。ここの病棟は――」
「はい」
「次は器具の補充。番号順に並べて――」
「はい……」
「ここの部屋のカギはね、あそこの受付に行って――」
「はい…………」
そんな調子で、整理、回収、清掃まで――
「そろそろ、休憩にしましょうか」
そう声をかけてもらえた時、すでにディランはくたくただった。
この一年は研究所に籠っていたせいか、体力が落ちている。
詰め所に戻った二人。
椅子に腰を下ろして背中丸めるディランと対照的に、リネンはきびきびとお茶の用意をしてくれていた。
「はい、どうぞ」
湯気の立つコップを受け取るが、それすら重く感じているようだった。
「……ありがとうございます」
「ふふ、少し詰め込みすぎたかもしれないけど……実際、朝が一番忙しいのよ。どう?」
「いや、驚きました。これほどとは……」
「すぐに慣れるわよ。何かわからないところがあれば聞いてね」
「いえ、わかりやすかったです、すごく。あの……仕事に関係のないことかもしれないですけど」
「何かしら?」
「いえ……患者はほとんどが子供だったので。それに、廊下にまで……」
「そうね……仕方ないこととはいえ、ちょっとね」
リネンはお茶をひと口含み、少しだけ眉を寄せた。
「大体半年前、くらいからかしら。急に患者さんの受け入れを増やすって方針になってね。最初はせいぜい病床数を増やすって話だったのだけど、今は、見てのとおり……」
「やはり、月が来るという話が?」
「あら、さすが知っているのね。噂だけど……患者さんの数を多く見せたいんじゃないかって」
「それは、教団が、ですか?」
「……あなた、何でも知っているのね。ここだけの話、病院の経営が苦しいんじゃないかって……」
「ほう……」
「ほら、患者さんの数だけ補助金がもらえるって言うでしょ? だから、月の人たちが来るのに合わせて患者さんを増やして、いまだに公害症が大変だって見せたいんじゃないかしら」
「なるほど……」
ディランはコップを持つ手を少しだけ強く握った。半年前に見た救世隊への違和感、その正体がじわじわと露わになっていくようだった。
「それに……」
一方で、リネンは一段と声を落として、さらに続けるようという構えだ。
「例の縁談の話よ。あなた、シプタちゃんの……知り合いなんでしょう? 何か聞いてないの?」
「えっ?」
ディランが顔を上げる。
「聞いて……ないみたいね」
「ええ。すいません、縁談という話も初めて聞きました」
「……そ、そう、みたいね……」
気まずい沈黙が、ほんの数秒だけ落ちる。
このディランの教育係であるリネンこと、リネン・オシャベは、病院でも有名な噂好きだった。
シプタが尊敬を寄せているという“月の青年”が雑用係として雇用されると聞き、どんな人物なのかと興味津々で待ち構えていたのだ。
だからこそ、シプタの話を振ったときのディランの反応は、彼女にとって完全に予想外だった。
「てっきり、あなたなら何か聞いてると思ったのよ。だって、あの子……あなたのこと、よく話していたから」
「……どのように?」
「とても素晴らしくどんな病も直す人だ、とか、希望を運んでくれる人だ、とか……」
そんなリネンの言葉に、ディランは思わず顔を覆った。根も葉もない事実に、尾ひれはひれがついている。
昨日病院内で感じた衆目――廊下で囁かれた声、遠巻きに向けられた視線。その理由が、ようやく腑に落ちた気がした。
「……しかし、その縁談と病院の窮状と、何の関係が?」
「それは……正直、あなたからいい話が聞けると思って色々話してみたのだけど……まぁ、いいわ。特別に話してあげる」
そう言って、居住まいを正した。
「……あなた、サラ・アクオーネって知ってる」
「えっ……ええっと……この星の英雄、でしたっけ……?」
「そう。その末裔と言われ、次期教皇と目されているグリド・マナス様よ」
「えっ!?」
ディランの突然の大声に、リネンは肩をびくりと震わせた。
「ちょ、ちょっと……驚きすぎよ……!」
そんなリネンの言葉がまるで聞こえていないかのように、ディランは眉間にしわを寄せ、じっと俯いている。
「……末裔……まさか……?」
――ディランは声にもならぬ声で、そんな言葉を繰り返していた。




