第五十二話 君よ、英雄であれ
(これは・・・・・・?)
機械人形に収められていたデータは、傷病に関する記録――アクエッタの公害によって生じた症状を記録したものだった。
「どうして……」
ディランは思わず、画面に顔を近づけていた。
――投薬後の経過。病状の推移。復調の喜び、悪化の絶望。そして、最期の観察まで......
無意識に視線を逸らしたくなるような生々しい記録。
こんなものが機械人形に入力されているのはなぜだろうか。父親は憑りつかれたように機械人形の研究に勤しんでいたから、医学に触れる余裕などなかったはずだった。
となれば、これは母親の持っていた医療記録――そんな推測が頭に浮かんだ。
志半ばで中断せざるを得なかった治療研究、その実物がこれなのかもしれない。
ディランの胸中には一つの疑念があった。研究が、自分の出産によって頓挫に追い込まれたのではないかと。
知ることによって、知りたくない場所へ近づいていく。それでも彼は進むしかない。
「格の組み立ての前に一旦、解析を優先させてみるか……」誰に言うでもなくそう呟くと、あくび交じりのため息をつき、再び画面へ向き直った。
◇ ◇ ◇
ディランが目を覚ましたとき、また自分が椅子に座ったまま寝てしまっていたと気付いた。
「いたた……」
伸びきった首筋を戻すと鋭い痛みが走る。
旅の疲れもあっただろうか。どうやら、解析の途中で眠ってしまったらしい。
――その時、研究所の扉が開いた。
機械人形による、破損した機体のいつもの見舞いである。
「おはよう」と、ディランはしゃがれた声をかけた。
応答することはない。機械人形には、人間と会話するための機能がない。
それがわかっていながら、ディランは機械人形に話しかける。設定外の行動に興味があるし、挨拶するだけで社交欲が満たされる気がした。
相変わらずのなしのつぶてに小さなため息をつきながら、ディランはおもむろに机上へ手を伸ばした。そこに散らばった固形食を一つ掴み、無造作に口へ押し込んでいく。
「……さて」ディランは手をすり合わせながら解析装置へ向き直り、画面を覗き込んだ。
――そこに映されていた資料は、この星の言語から、月の言語のものへと変わっていた。
それだけではない。
内容が、治癒研究資料に変化している。昨日に目にした患者の記録とは明らかに性質が違う。
医学的な論文としてまとめられていて、ひとつひとつが理論に沿って積み重ねられていた。
――思わず唸り声が上がる。
月の都で虱潰しに医学書を読み漁っていたディランをしても、目を見張る論文であった。ここまで精緻な医学書は見たことがない。なぜこの論文が医学会で参照されていないのか、そう思うほどの出来栄えだった。
――さらに読み進めたところで手が止まった。
「根治治療……に向けて」
創薬や切除の記述だ。そこでディランの眉間にシワが寄る。
再現性はあるのか。理論に抜けはないのか。希望的観測が入っていないか。そんな批判的思考で監査をするがごとく。どんどんのめり込んでいく。
彼は興奮していたのかもしれない。論文の展開が、あまりにも美しかった。そのような知的興奮を味わったのは、ルミアリアと論文を書き上げた時以来だった。それだけに惜しい……この論文が完成を見ないとは。
その時、ふと背後の気配に気づき振り向いた。機械人形がすぐ後ろに立ち、画面をのぞき込んでいるではないか。
「うおっ! びっくりした……」ディランが驚きの声を上げても、機械人形はじっと画面を見つめたままだった。
――父親の書き付けによれば、この記録が機械人形の行動に影響を与えるのだという。ハルモも言っていた。機械人形には母親の雰囲気がある、と。
――だとすれば、これらの資料を基に解釈した母親の人格が乗り移っている可能性もあるのだろうか。
そこまで考えて、ディランは小さく首を振った。ありえないことだ。
「お前も一緒に見てくれるか?」
にやけながら鼻を鳴らし、彼はまた画面を見つめはじめた。
◇ ◇ ◇
「まさか……」
それ以上、言葉が続かなかった。
ディランは幾度も資料を見返した。
方法。実証実験。結果。考察。
その一つひとつを追い直していく。
……方法……実証実験……結果……考察……それらが美しく、一つの道筋を織りなしている。
「――完成……してないか? これ……」
そう発した瞬間、ディランの全身に冷や汗がまとわりついた。気を抜けば、その場に崩れ落ちてしまいそうなほどの衝撃だった。
(母さんは志半ばで死んだのではなかった……のか?)
もちろん、実際に再現してみたわけではない。資料に記された結果がすべて正しいとも、まだ断言できない。ただ、これほどまでに精緻に練り上げられた医学論文を、ディランは知らなかった。
「……嘘だろ」
思わず椅子から立ち上がった。じっと座ってはいられなかった。
研究室内を歩きまわり、数歩進んでは立ち止まり、また歩くのを繰り返す。
――いや待て。本当に完成した研究なら、なぜ、こんな重要な資料がここにある?
これではまるで、父親が意図的に人目から遠ざけたようではないか。
ハルモも言っていた。サラは志半ばで逝去した、と。いや、違う。彼女は、そう聞いていた、と言っていたのだ。
「母さん……」
ディランは相変わらず画面を見つめている機械人形へ、そう呼びかけていた。
刹那、解析装置から短い電子音が鳴った。
呼応するようにディランの肩が跳ねる。
急いで椅子へ戻り、腰を下ろす勢いのまま、画面を開く。
新たに解析された資料が、一件。
表示されたのは、論文とはまた違う文字列。
ディランの眼差しが、その文字の上を何度も往復する。
「これは……手紙……か?」
ディランは唾を飲み込んだ。
そして、震える指でもう一度、最初の一行を映すのだった――




