第四十八話 虹合わせの丘
「へっ?」
(聞き間違い、だろうか?)
あまりのことに、ディランはらしくない気の抜けた声を漏らした。
丘を渡る風は穏やかで、会話を遮る勢いはない。それでも、
「ここが、サ・ラ・の・お・は・か、って言ったのよ」
ハルモは聞き取りづらかったかと心配したようで、一字一字を丁寧に区切った。
「え!」
「え?」
二人は同じ言葉を発し、そのまましばし見合う。
「あっ!?」
そこで突然、ハルモが口元を押さえて声を上げた。
垂れ下がっていたまぶたが大きく見開かれている。
「あ、あの……」ディランが恐る恐る声をかけると、
ハルモはぎゅっと目をつぶり、「あっきれた……」と、声を絞り出した。
◇ ◇ ◇
墓標の脇にあった少し背の高い草を折り曲げ、二人はそこへ腰を落とす。
ハルモは先程から、上を向いては下を向き、口を開くかと思わせてまた考え込むことを繰り返している。ここが母の墓とは一体どういうことなのか、そんなことを思いながら、ディランはハルモの言葉を待っていた。
「……まずは、ごめんなさい」
ハルモから放たれたのは謝罪だった。ディランは首を傾げて次の言葉を待つ。
「もっと早い段階で気づけたのかしら……あなたは彼から、サラのお墓の話を聞いてなかった、ということよね?」
「……英雄の丘の老人から、ということならそうです」
「彼からはなんて?」
「この封筒を持っていって仕事の斡旋をしてもらえ、サラ・アクオーネを知りたいなら自分で行って確かめろ、と……」
「それだけ? あなた、それだけでここまで来れたの?」
その問いに、ディランは目を泳がせた。決定的な動機は何かあっただろうか。頭を巡らせはするが、思いつくことはない。
ハルモはすぐに察したようで、手のひらで額を支えながら細かく肩を揺らした。
「ふふ、向こう見ずなところはそっくりね……」
そんな言葉を、噛みしめるようにつぶやいていた。
「あなたのお父さんが来たときも突然だったわ。『助けてください』って。サラを大事そうに抱えてね……」
「親父が……」
「あ……そういえば……こういうことは事前に連絡してって、あの時散々言ったのに。アイツめ……」
「あい……つ?」
ディランは聞こえてくるはずのない言葉が耳に入った気がした。彼の横にいるのは、終始柔らかで慈愛に満ちた老婦人ただ一人である。
何かの間違いだろう――そう和やかに考えていたディランであったが、険しい目つきをしたハルモが「アイツと私が夫婦、ってことは聞いていた?」と聞いてくる。
(アイツとは英雄の丘の老人のことだろう。しかし、二人が夫婦だったとは……)
そんな話は聞いていませんと、否定するのは簡単だった。だが、これ以上彼女の怒気を煽っては体に障るというものだろう。
ディランは祈るような気持ちで「はい……」と返事を絞り出した。
すると、ハルモは肩のこわばりを解きながら、大きなため息を吐いた。
「ごめんね。あなたを責めているわけじゃないのよ」
そう断りを入れながら、一転して穏やかに笑った。
「ふふ、本当にどうしようもないわね。サラもきっと笑っているわ。いかにもユーフォらしい、って」
「母が笑っている……」
そのさりげない言葉に、ディランは表情を曇らせた。
ディランの母への思い出は――苦しみながら死にゆく姿を見ていることしかできない無力感だった。
――死者への後悔を持つものが、自分勝手に虚像を作る。それは残されたものの甘えであり、死者への冒涜――
死とは無。
それが月の都での常識だった。
だからこそ真剣に生き、会えるうちに感謝を伝え、生きているうちに恩を返さなければならない。
「ハルさんは、本当に死者の世界があるとお考えですか……」
気づけばディランは、そんな言葉を口にしていた。
墓標に目を細める老婦人に対して、なんと無粋な問いであることか。
それでもディランは非科学的な死生観を受け入れるわけにはいかなかった。
それがルミナリアを絶対に救うという決意を濁らせ、自分に言い訳を許してしまう気がして――
「そうね……」
ハルモはそれ以上答えず、ディランを見つめ返した。
柔らかな眼差しが心を見透かしてくるようで、ディランは慌てて視線をそらした。
◇ ◇ ◇
その丘から見えるアクオーネの景色は、どこか奇怪だった。赤黒くくすんだ山肌、深緑の草原。灰色の海には岬が突き出し、そこには文明の遺構がそそり立っている。
これらが色鮮やかだったなら、少しは絵になったかもしれない。なり損ないの景色――こんな場所がなぜ、サラの墓所となったのだろう。
「……先程の、親父がここに来た時の話の続き、聞いてもいいですか?」
「あら、本当。その話が途中だったわね……」
そんなことを言いながら、ハルモはマスク越しに鼻の頭をかいた。
「ええと……どこまで話したかしら……」
「……アクエッタの人は、英雄の丘にサラ・アクオーネが祀られていると思い込んでいる。しかし、実際はここに眠っている、ということですか?」
「……そうね」
「どうしてそんなことが?」
「ええ……お父さんがここに現れる数日前ね。サラが月から帰ってきたって、星中が沸いていたわ。大規模な葬祭が行われて……」
――サラが帰って来た時というのは、父親が『母を故郷へ改葬する』と言ってアクエッタへ旅立った時期の話であろう。結局、父親は事情も説明せず逃げるように行ってしまったから、こんな大事になっていたなど知る由もない。なおさら、英雄の丘に眠っているはず母がこの丘に移された理由など、ディランには想像もつかなかった。
「……父は墓を暴いたのですか」
「まさか。ユーフォに協力を頼んで、埋葬の前にすり替えてもらったって言っていたわ。ユーフォはずっとあそこの管理人をしているからね」
「そんな……なぜそんなことを?」
「ええ。ここに来た時に、口惜しそうに裏切ら――」
ハルモはそこで、鋭く言葉を切った――首を強く振り、小さな咳をする。
「……今のは忘れて。なんでもないの」
不穏な言葉が確かに聞こえた――しかし、踏み込めばここで口が閉ざされる――ディランは湧き上がる疑問を押し込んで、頷きだけを静かに返した。
「ええとね……彼はしばらくアクオーネを散策していたのだけど、ある日、この丘にサラを弔おうと思いますって。その時にやっと、ああこの人は本当にサラの夫なのかもって思えた」
「それは、なぜ……?」
ディランの問いに、ハルモはゆっくり頷いた。
「……事故の前は海も澄んでいてね。それに見て。そこの草原には昔、黄色いお花が群生していて……」
彼女は懐かしむように言いながら、眼前に広がる荒れ地のあたりを指し示す。
「火山が穏やかな時期、立っていられないくらいの風が吹くと、このアクオーネでも空が見える。ほら、想像してみて……」
ハルモはそう言って目を瞑った。
「……虹のアクオーネ。雄大な景色ではないけれど、星と人の営みが調和した素晴らしい景色だって……ここから見たアクオーネが大好きなんだって、サラはよく言っていた」
「……母が、そんなことを……」
今、眼前に広がっているのは荒廃した文明の姿。それが在りし日の景色への想起を強く妨げる。ハルモが追想する情景がいかほどのものなのか、ディランには想像すらつかなかった。
「……あなたのお父さんは、サラにその景色をまた見せたくてここへ連れてきた。そして失われた時間を取り戻すために、あの子たちを作って……きっとそれが事情なのよ」
ハルモはそんなことを言って、満足げな顔を向けてくる。一方のディランはといえば、父親のそんな話は気恥ずかしいとばかり、腰を浮かして顔をそらした。
いや、その心地の悪さには、他の理由もあったかもしれない。ハルモが隠そうとしている事情とは何なのか、それが気になっている。
「それにしてもあなた。よく、詳しい話も聞かずにここまで来れたわね」
「時間はあるので。それに何か、あの老人にいろいろ聞いてはまずい気がして」
「まずい? なんで?」
「事情に通じていながら多くを語ろうとしないところとか……私はてっきり、彼はその筋の人物なのかと……」
「なに、それは? 単に口下手で人見知りなだけよ」
「観察力や洞察力も……」
「神経質なのよ。お墓に住み着いているせいで幻覚でも見たんじゃない?」
「それは本当ですか……?」
「言ったでしょ。単なる坑夫上がりって……まぁ、あそこには同僚がたくさん眠っているから……それに、息子も、ね……」
「そ、それは……すみません」
「いいのよ……あの子は回復したけれど、足は不自由なままだった。月に戻って治療法を探す道もあったのに、月への抗議運動へのめり込んで、そこで……もったいないわよね。せっかくサラが命を助けてくれたっていうのに……」
「……」
ハルモの家の片隅に置かれていた車椅子――そんな事情があるとも知らず、自分はなにか失言をしなかったか。ディランはそんなことを思い返していた。
「男ってなんでそうなのかしらね。友情、絆、愛着。それが時に、命より重くなってしまう。親の気持ちは考えないくせに……」
――ハルモはゆっくり立ち上がり、杖を頼りに墓前へと進んだ。
身をかがませて、慈しむような手つきで墓標にうっすら積もった灰を優しく払う。
「私も人のことを言えないわ……思い出にしがみついて、ここから離れられない。私たちの時代は終わって、とっくに居場所なんてないはずなのに……」
「そんな……」
何かを言いかけて、ディランは結局口をつぐんだ。
彼女を癒す言葉を知らない。
自分が何かを言ってみたところで、寂しい笑みを返されるだけだと、彼はわかっていたのだ。




