第四十五話 痕跡
食器を片付け終える頃、外の景色はすっかり漆黒に沈んでいた。
ハルモは最後の皿を棚にしまうと、ディランに目配せして玄関の方へと歩き出した。
「じゃあ行きましょうか」
そう言いながら薄い外套を肩にかけ、「ふう」と軽く息をつく。
「え、どちらへ?」
ディランは思わず声を上ずらせた。気分転換――それがまさか、外出であるとは予測していなかったのだ。
ハルモは戸惑うディランをまるで意に介さず、玄関にあった古い杖と懐中電灯を持って待っている。
これだけの暗い夜に、足の悪い老人が出歩いて平気なのか。ディランは、部屋隅の車いすを指し示した。
「あの、よければ私が押しますので、あちらを使われては……?」
「……ありがとう。でも、あれはね。違うのよ」
そう答えながら目を背けたハルモの顔は、少し苦しそうに見えた。
「心配ないわ。ご近所だし、早く見せた方が良いと思って。それに、あなたにお願いしたい仕事もそこにあるのよ」
そう告げると、彼女は夜の空気の中へ出ていった。
◇ ◇ ◇
二人は心細い暗がりの中を歩いていく。
目が闇に慣れてくると、頭上に垂れ込めている暗雲が胎動するようにうごめいているのが分かる。海底火山に温められた海面から立ち上った蒸気が、陸の奥へと流れていくのだ。
そんな荒廃した景色に不釣り合いなほど、歩道は整備されていた。除草され、足を取られるようなへこみもない。とはいえ、闇に向かって杖を突く老婦人を見て、ディランの心はやはりざわついた。
「私が先を歩きましょうか?」
しかしハルモは首を横に振る。
「ありがとう。でも慣れているから平気よ」
いくら歩いていても、人の気配も灯りもまるで感じられない。一体どこへ行こうというのだろう。
「明日になったらみんなにも紹介しなければね。きっと喜ぶわ」
そんなことを言うハルモに、ディランはまた違和感を覚えた。
これほど静まり返った暗闇の廃墟、みんなというのはどの人間のことを言っているのか、と。
◇ ◇ ◇
しばらく歩くと、暗闇の中に四角い建物が浮かび上がった。
外壁は長い年月を受けて風化したように痛み、ところどころ穴が開いている。
周囲の建物と比べても、決して新しいものではない。
「ここよ」と言ってハルモがその建物の前に立つと、
古びた扉が小さな作動音を響かせゆっくりと開いた。
外観はひどく朽ちているのに、機械だけは律儀に生きているらしい。
中へ踏み入ると、ひとつ、またひとつと、灯りが点いていく。
そこはまるで、何かを研究している施設のようだった。棚には資料が詰められ、壁際に用途の分からない機器が並べられている。床には引きずったような跡があり、いくつかの棚は開けられたままで、資料が床へと散逸していた。
「どうかしら?」と、ハルモが問いかけた。ディランがこの場所を食い入るように観察しているのを見つめながら、どこか安心したような笑みを浮かべている。
「……ええ、何かの研究所だった、のでしょうか。荒らされた形跡もあるような……」
床に落ちている資料を拾い上げようとするディランを残し、ハルモが先へ進んでいく。
奥で開いた扉、その向こうにあったものを見た瞬間、ディランの目は見開いた。
部屋の中央には作業台があり、その上に一体の機械人形が横たわっていた。
背中側の装甲がこじ開けられたように破壊され、内部構造が露出している。
「ここって、まさか……」
「ふふ、分かるのね。ここは、あなたのお父さんの研究施設よ」
「っ! ……親父がここにいたのですか!? あ、あの! 今はどこにいるのでしょうか!?」
ディランは興奮気味に大きな声を出した。
ハルモは体をビクッとさせた後、申し訳なさそうに目を伏せる。
「……ごめんなさい。私も分からないの」
その言葉でディランが我に返り、頭を下げた。
「……すいません、つい興奮してしまい……」
「いえ……彼がここに最後にいたのは――今から四百九十六年前、ね」
「そ、そんなに前……」
「ええ……もうそんな前になるのね……」
ハルモは懐かしむように部屋を見回し、機械人形の背をそっと撫でた。
「……この子は落盤の現場を補修してくれているの。人が立ち入れないような危険な場所でずっと作業してくれている……」
「……」
「すごい技術よね。ずっと働き続けているの。動力とか修理とか、どうなっているのかしら……」
「……」
ディランは唇を震わせたまま、言葉を発せなかった。父親は人型機械の第一人者であったから、技術に驚いたわけではない。むしろ、諦めかけていた父の痕跡が、これほど一度に現れるとは思っていなかったからだ。
「大分、驚いているようね」
「ええ、それは、もう……」
「じゃあこれで、おあいこ。私も驚かされたもの」
そんなことを言いながら、ハルモは再び、作業台の機械人形へ視線を戻す。
「今から三年前、この子が誰かに襲われてしまったみたいで……せっかくこの星のために働いてくれているのに、ひどいわよね」
「襲われた……?」
――背筋に寒気が走る。父親の研究情報を嗅ぎまわっているのは、月で自分をつけ回した連中と同一かもしれない。守備機兵につながるような機密情報がここから漏れたとなれば、月の治安への脅威となってしまうだろう。
「……みんなが駆け付けた時にはもう、この状態でね……ここにみんなが運んでくれたの」
「……あの、みんな、というのは?」
「ああ、ごめんなさい。この子と同じような機械人形が他に九体いるのよ」
「九体、も……」
「この子たち同士は意思疎通できるようなのだけど、私とは会話ができないのよ。だから、何があったのかを教えてもらうこともできなくてね……」
ハルモは少し寂しそうに笑った。
「私が月にいた頃は、こういう子たちは人間とも話ができる機能があるものだと思ったのだけれども……」
しょげる口調でこぼすハルモに、ディランが静かに言う。
「……ええ。機械人形も、以前は人と同じ能力を付与することこそ至高だとされていたのですが……最終的には不要なものとして、自我や感情、会話能力は省略されました。作業用となればなおさら……」
「あら……寂しいことね……」
「そういう意見ももちろんあります。ただ、人間のために調整するとかえって彼らの能力を制限することにもなると、そんな論文もありまして……」
この地で長年一人で生きてきた老婦人の、真っ当な疑問に対し、ディランが心苦しそうに言う。なにしろ、その論文を書いたのは父親だった。
ハルモはうつむくディランを見つめ、ふっと笑った。
「詳しいのね、やっぱり」
「いえ、機械人形についてはそこまで……」
「実はね、これがあなたに頼もうと思っていたこと、なの」
「これ、とは?」
「もちろん、この子の修理よ。時間はたっぷりあるでしょう?」
「え、いや……私にはそのような技術は……」
ディランは再び機械人形を見た。単なる故障ではない、破壊されている。機能の心臓部である核が強引に引き抜かれている。
もし修理できれば、ずっと胸に引っ掛かっているこの星への罪滅ぼしになるかもしれない。それでも部品を一から作るなど、これまで試みたこともない。
――そんな思案に暮れるディランを見て、ハルモは吹き出した。
「ふふふ……」
「ど、どうしました?」
「ふふふ。だって、聞いていたよりずっと思慮深いというか。彼から聞いていたのよ。息子は自信満々で万能感に満ちているって……」
ディランはまた、返す言葉を失った。当時の自分を顧みれば、父親からの評価は納得できるものだ。
だが、さすがに専門外の分野となればしり込みするのが正常であろう。可能性を見出すとすれば、棚に詰め込まれた研究資料に製法が載っているかもしれない、ということである。
「あの、しばらくここを調べていってもよいでしょうか?」
「ええ、もちろんよ。好きなだけ……」
そんな言葉をかけるハルモに見向きもせず、ディランはすでに資料に手を伸ばしていた。
「ふふ。気が済んだら戻ってらっしゃいね」
そう言い残して、彼女は部屋を出た。
◇ ◇ ◇
しばらく夜道を歩いた後、ハルモは立ち止まり振り返った。
暗闇の中に、研究所の明かりがぼんやり浮かんでいる。
「懐かしいわね……」
彼女は小さく呟いた。
アクオーネを取り巻く闇が、その一角の瞬きだけを静かに許していた。




