第四十四話 大切なのは
「どうぞ、お掛けになって」
ディランは勧められた椅子に腰を下ろす。
「ごめんなさいね。散らかっていて……」
そんなことを言いながら、老婦人は卓上にあった読みかけの本を持ち上げた。彼女が背を向けたのを見計らって、ディランはそれとなく室内を見渡す。
家の中は思っていたより広々としていた。もっとも、物が少ないからそう感じるのかもしれない。卓と二つの椅子、壁際の棚。家具はどれも年季が入り手掛けの部分が摩耗している。部屋の隅には、たたまれた車椅子があった。
ディランの目を特に引いたのは、棚の上に並べられた写真立てだった。ただ、そこに光が届いておらず、どんな写真なのかもわからない。
「ああ、いけない」
と、老婦人は独り言のように言って手のひらを合わせる。ディランは背筋を伸ばし、次の言葉を待った。
「何かお飲み物をお出ししなくちゃ……」
「い、いえ。本当に、本当にお構いなく!」
ディランの言葉は少し強めに発せられた。家に招き入れる時から、彼女が片足をつっぱらせるように歩いているのを目にしていたのだ。
「そう? 喉は渇いていない? お腹は?」
「いえ、携行食を持っていますので……」
「そう……」
老婦人は残念そうに漏らすと、やっと向かいの席へと手をかけた。どこか足を悪くしているらしく、座る動作にはすこしだけ時間がかかる。
「ごめんなさいね。お話が先、よね」
「すみません……突然訪ねておいて……」
ディランは頷き、そこで改めて相手の顔を見た。卓上の燭台がゆらぎ、深く刻まれたしわの陰影を伸ばす。
「いろいろと聞きたいことがあるのですが……」
「まぁ大変。答えられるかしら……」
——英雄の丘の老人は言っていた。見放された土地に住み続けている月の人間がいる。アクオーネに行って、その人を訪ねろ、と。
ここへ来る前は、聞かなければならないことがはっきりしていたはずだった——サラ・アクオーネが何者なのか。しかし実際に会い、こうして向かい合って座っていると、何から話すべきか分からなくなる。
ディランが発したのは、
「……その前に、私が何者なのかの話をしたほうが……」
というものだった。
サラ・アクオーネは自分の母ではない、そう言われてまた拠り所を失ってしまうことを、彼は無意識に恐れていたのかもしれない。
そんな心情を知ってか知らずか、彼女は頬に手を当て、思案するように上を向きながら、
「まあ、言われてみれば確かにそうねぇ」とつぶやく。
「いえ、すみません。不要でしたか……」
「あらら。正直に言うととっても興味があるのよ。是非聞かせて欲しいわ」
「本当ですか……?」
老婦人の言い方があまりにも素直だったので、ディランは少し驚いた。何となく、自分の事情など他人にとっては退屈なものだと思っていたからだ。
彼は話し始めた。
途中、彼は何度か口をつぐむこととなった。あらためて言葉にしてみると自身の境遇が考えていた以上に惨めなものに思えてしまったからだ。
◇ ◇ ◇
「……大変だったのね」
まとまりのない苦労話に、老婦人は終始微笑みながら耳を傾けていた。
「いえ、自分で招いた落ち度なので……送金まで食いつないでいかねばならず、その、こちらで働き口を案内してくれるのではと、その方が……」
「そうなの? お仕事を探しにわざわざこんなところまで」
「いえ、あともう一つ……サラ・アクオーネ。その人物を知りたいと思ったことも、ここへ来た理由です」
「まぁ……」
ディランは一通り身の上を話して心の整理がついたのか、最後にそっと核心に触れた。
「突然押しかけてこのような長話を……申し訳ないです」
そう言ってディランが頭を下げると、彼女はすぐに首を振った。
「いいえ、聞かせてもらえて嬉しいわ。私が知っていることは全部話すのだけど、どこから話して良いものか……」
困り顔をしている老婦人を見て、ディランはいたたまれない気持ちになったのだろう。
「……あ、あの。今日はもう遅くなってしまったので、あらためたほうが……」
と、自身の行動への反省を示した。
「あら、あらためるって、どうするの?」
「その、このあたりで宿泊できそうな場所を教えていただけますか?」
「あらあら、宿泊できる場所なんて駅の周りくらいよ。それに、お金もないのでしょう?」
「それは、まぁ……」
図星であった。シプタから路銀を受け取ってはいたが、切符代を支払った今ではそれもだいぶ心もとない。
そんな彼の心を見透かしたように、ハルモは目を細め口を開く。
「うちに泊まっていきなさいな」
「いえ……これ以上ご迷惑は……」
「ご迷惑……? ふふふ、迷惑だったらそう言うわ。そうだ。ちょっとお手伝いしてもらおうかしら」
「手伝いということなら是非、こちらからもお願いしたいです。なんでも申し付けてください」
「ふふふ、じゃあ、こちらへ」
老婦人が卓上に手をつき立ち上がる。ディランも慌てて立ち上がり、老婦人の後を追った。
行先は炊事場。棚から野菜、干し肉が取り出されていく。
「あなた、料理は?」
「はい、少しだけ……」
「そう? ふふ、じゃあこの野菜を切って頂戴。大体指くらいの長さに」
「え……いや、この野菜は?」
「問題ないわ。地下水をろ過した水で育てているの」
「なんと。ここで栽培したものなのですね……」
料理に苦戦する父の背を見て育ったディランは、あえて料理への興味を閉ざしていた時期があった。そんな彼が初めて料理に触れることになったのは、他ならぬルミナリアの看病のためである。彼が作るのは薬効が先走った『調合品』にすぎなかったが、「せっかくだから」と、ルミナリアは残さず食べてくれた。
そんなディランにとって、誰かと一緒に料理を作るのは初めての経験であった。
「ああ、いけない。自己紹介がまだね。ハルモって言うのよ。ハルさんと呼んでくれると嬉しいわ。みんなそう呼んでいたから」
途中そんな会話をしながら、二人は調理を進めた。
料理が皿に盛り付けられ、小さな卓へと並べられていく。野菜炒めと干し肉のスープ、申し訳程度の乾パン。質素ではあるが、立ち上る湯気や香気は心を踊らせる。今日、ろくな食事をしていなかったディランにとっては垂涎もののご馳走だ。
ハルモはディランが腰掛けていた椅子の前にも取り皿を置く。
「もちろんあなたも一緒に食べて。久々に、おしゃべりしながらお食事したいわ」
「よいのでしょうか……」
「あら、困ったわ。この状況で私だけいただいたら、とんでもない悪人だと思われてしまうのだけど……」
「いえ、ありがたくいただきます……」
席につけば、食欲には抗えない。口に入れたその瞬間から、疲れた体の隅々が癒されるような錯覚を得た。最初こそお行儀よく小口でつまんでいたディランも、たまらずその手は勢いづく。
しかし一方のハルモは早々に食器を横たえ、ディランの食事を見守っていた。
気付いたディランが手を止めると、老婦人はそっと微笑んだ。
「気を使わなくていいのよ。ふふ、実はね、最近はもう、晩は食べていなかったのよ。でも、あなたを見ていたらなんだか食べられそうな気がして」
「そう、でしたか……」
空腹であることはとうに見抜かれていた、ということだろう。長旅の疲労や不安が顔に出ていたのかもしれない。
「全部、あなたが食べて」
ハルモの気遣いに対し、ディランは気恥ずかしそうに視線を背けた。そのまま部屋を見回すと、やはり、古い写真立てが目を引きつける。
「気になるかしら……」
「ああ、いえ……その、こちらには長いのですか?」
「ふふ……そうね、もう八千年は住んでいるわ……例の落盤事故の前から、ね」
「八千年……あの、失礼ですが、ずっとおひとりで、ですか?」
「いえいえ。ふふふ、そうね。そこはしっかり話さなければいけないわ」
老婦人は過去を思い返すように写真立ての方を見つめた。医療技術が高度発達した月の民の感覚から言えば、一万年以上の寿命があっても不可思議ではない。ただ、実際にそれほどの年を重ねたという人物に話を聞くというのもなかなかない機会である。
「……私はアクオーネで採掘に携わっていたの。そこで夫と出会って、子どもを授かった。その頃の写真が、それね……」
「そうですか……」
「ふふ……懐かしいわ。その集合写真、それもほんの一部の作業員なの。今の姿からは想像もつかないでしょうけど、このあたりは月の都と見紛うくらいに発達していたわ」
老婦人は目を細めた。その視線はしばらく写真立ての辺りをさまよい、それから静かに卓へ落ちた。
「……そして、事故が起こった。きっかけは火山性の地震だったの。このあたりでは珍しくないのだけど」
老婦人が小さな嘆息を吐いて続ける。
「……その日の地震は揺れも大きく長く感じた。うちの子はそのとき赤ん坊だったのだけれど、ひどく泣いて。非番だった夫と『今回のは大きいね』なんて話しながら……」
――言葉が途切れ、沈黙が訪れた。
ディランは何も言わず、しかし目は逸らさず聞いていた。
スープの湯気が消えかけた頃、ハルモは目尻を指で拭い、再び口を開いた。
「……その時ね。遠くでかすかにまた、地鳴りのような音がした。『最悪の事態』、が頭をよぎったわ。でも怖くて、考えないように、考えないようにって……その後で連絡が来てね。崩落だ、って……」
「……」
「その後は救助や対応に追われたわ。私も子どもをおぶりながら手伝いをした。大切な人をなくした人がたくさんいた。みんな、自分だけが助かってしまったって、毎日……合同葬儀の最中でも、坑道に行って待ち続ける人もいてね。それがやっと落ち着いて、これからどうしようかって時に、最初の患者が出た。赤ん坊だったわ……息子よりも小さい子……」
「公害の……」
ハルモはそこでまた押し黙ったが、ディランは卓の下で手を握りしめたまま、じっと言葉を待つしかできない。
「……当時はまだ、事故のあった場所だけ廃鉱にして操業再開なんて話もあったのだけれど、それどころじゃなくなった」
「そうだったのですね……」
「ええ。そして、ついに私たちの子どもにも症状が出た」
「……っ」
ディランはすでに後悔していた。涙を滲ませ、時折言葉を探しながらやっと話す老婦人。長い年月を経ても癒えない傷。自分はそんな彼女の過去を掘り返し、苦しみを与えてしまったのではないかと。
「あの子は足の関節がどんどん硬くなってね……とうとう歩けなくなってしまった。痛い痛いって泣き止まなかった。情けない話、親子で泣いて暮らしていたわ。事故後に星を捨ててすぐに月に帰還すれば、この子は苦しむことはなかったかもしれない……そんなふうに自分たちを責めながらね……」
「あ、あのっ……!」
ディランは思わず、老婦人の話を遮った。
「もう、十分です……」そう言う彼の顔はもう、土気色になっている。
ハルモはそんなディランの声に驚いた様子でしばらくは目を丸くしていたが、ふっと微笑んだ。
「優しいのね。でも決して、辛いだけで泣いているわけではないの。話していると、楽しかったことも思い出す。いろいろなことがあったなって、感傷に浸ってしまっただけ……」
「ですが……」
「……でもいいの? 大切なのはここからよ?」
「えっ?」
◇ ◇ ◇
サラ・アクオーネ。
当時不明だった公害病状の原因特定、さらに、その対症療法を確立したと伝えられるアクエッタの英雄。彼女はここアクオーネの名士の家系で、私財を投じて事故への対応を行った。
ディランが知り得た情報はそんなところだった。何分、昔の人物であるし、月の書物からは名前そのものが抹消されている。ただ、英雄の丘の墓標で未だに花束や手紙が絶えていない様子を見ていたので、この星の人々に愛され続けていることだけは知っていた。
「その、大切なのはここから、というのは……?」
そう聞き返したディランだが、確信はもちろんあった。いよいよサラ・アクオーネの話となるのだ、と。
「ええ。この状況を受けて、原因特定のための調査が進められたの。ただ、月側はあまり積極的ではなかったのだけどね」
「え、そうなのですか?」
「そう。そこでこの地の名士、アクオーネ家が全面的に支援して調査が続行された。崩落した場所を調べるのは、それはそれは危険な作業だったのだけど……ついに、採掘現場で有害地層の封じ込め処理が行われていなかったことがわかってね……それが崩落によって流れ込んだ海水に溶け込んで……さらには地下水脈にも達していることもわかった」
「……企業が積極的ではなかった理由はそれ、でしょうか。彼らは封じ込めが万全でなかったことを把握していて、原因の特定を恐れた……」
「否定はしていたけれど、おそらくは、ね……」
「しかし、その時すでに原因が特定されていたなら、対処も可能だったはずでは?」
「それが、うまくはいかなかった……二次災害の危険もあって、何より規模が広範囲だったって。作業は思うように進まず、企業も倒産。そのうちアクオーネ家の資金も底を尽いてしまって」
ディランは言葉を失った。状況は彼が想像していたよりも陰険だった。それが当時を知る被害者の証言ともなれば、その意味はより重い。何より、ここに来るまでに見てしまった浜辺での光景が彼の思考を埋め尽くしていた。
「……その時にはもう、人々はどんどん、この星から去っていったわ。この星の人たちは月の民へつらくあたるようになった……無理もない。そう、以前この星は水の豊かな星、アクオーネと呼ばれていたのよ。でもあの事故以降は『アクエッタ』なんて呼ばれるようになった……」
ハルモはそこまで話をして、ディランへと視線を向けた。スープをじっと見つめたまま、呼吸も浅いようにうかがえる。
「あ、すみません……どうぞ、続けてください」
話が自分のせいで途切れたことに気づき、ディランは続きを促した。
「……今日はここで終わりにしましょう。また、明日にでもゆっくり……」
ハルモはそう言いながら静かに食器を重ね始めたが、ディランは拒む。
「私は……平気です! どうぞ、話の続きを」
そうせがむ彼の瞳をしげしげと見つめながら、ハルモは眉尻を下げた。
「そうは言っても、ねえ……」
「戸惑わせてしまい申し訳ない。もう、本当に平気ですから」
そんなディランの言葉にしばらくうつむいていたハルモであったが、なにかひらめいたように顔を上げ手を合わせた。
「いいことを思いついたわ。気分転換しましょう!」
「いえ、しかし……」
「あら、どのみちあなたに伝えなければならないことだから」
「え? それはどういう……」
「それはお楽しみに。じゃあ、先に片付けをしちゃいましょうか!」




