第四十三話 過去への扉
シプタと別れてから、すでに半日。
ディランは二度目の乗り換えを終え、アクオーネへと向かう列車に乗っていた。
ここから先は支線となる。車両は古く飾り気もない。アクオーネ方面へ向かう採掘者や工場労働者が利用する工業路線だ。
厳重に固定された窓が、これから汚染区域へ進入するのだという事実を物語る。
駅員の合図とともに、車体が小さく揺れ始める。
ディランは窓際の席に身を預け、空調の低い音と規則正しく響く車輪の音を聞きながら、流れていく景色を眺めていた。
窓の外には色褪せた大地がどこまでも続く。耕された畑はいつしか姿を消し、乾いた土と背の低い草が、風に吹かれて波打つばかりだった。
――痩せていく生活の気配。ディランはその景色の変化を眉をひそめたまま見つめていた。
夕刻が近づくと、曇天がさらに色濃く落ちてくる。
線路が海沿いへと出る。灰色の海岸が長く長く伸びていた。
その一角に、小さな人影があった。
距離が縮まるにつれ、それが何なのかが見えてきた。
幾人もの子供が砂浜にしゃがみ込み、手元を探っている。
すでに日が傾いている。しかし彼らは手を止めず、列車が通り過ぎても顔を上げない。
ディランは思わず窓の外を追った。
「切符を拝見……」
背後からの声にディランが振り返ると、そこには車掌が立っていた。ディランはたまらず尋ねる。
「あの、子供たちが海に……ここはすでに汚染区域では!?」
瞬間、車掌は手を止めた。その後、小さく息を吐き、
「ええ。それが何か? 生きるためです。さぁ、切符を」と、低い声で返した。
「しかし、危険では!?」
ディランの問いに、車掌は不満げに眉を寄せる。
「ああやって金属を拾い集め、買い取ってもらう」
「しかし、病となればかえって困窮することに……」
「……危険と言いましたな。ならばあなたはあの子たちを救えるのですか? まさか、安全のために飢え死ねと?」
「そんな……」
ディランは言葉を探すように逡巡し、最後には沈黙した。力なくポケットを探り、切符を差し出す。
そしてすぐ、窓の外へとまた目を向けた。
その後も同じ風景は繰り返された。ディランの顔が色を失っていく。しかし彼は、その現実から目を背けようとはしなかった。
◇ ◇ ◇
「アクオーネ、終点です」
扉が開くと、外の熱気が車内へ入り込む。空は暗く、雲は一段と厚く、重くなっていた。
駅の鉄骨は赤黒く、長年さらされた跡が刻まれている。
向かい側の乗降場には列車を待つ労働者たちが群がっていた。
ディランは首をもたげたまま改札へと向かっていた。その足取りは重い。
背後から足音が聞こえ、「待って」と呼び止められる。
先ほどの車掌だった。
「さっきは、余計なことを、いっちまった」
重い吐息が漏れ、彼の肩がわずかに落ちた。
「いえ、こちらこそ、何も知らずに……」
「いや、あんた、他所の人間だろうけど悪い奴じゃないと思ってね。こんな場所までくる人は珍しいから、つい」
そう言いながら車掌は頬をかいた。そしてふと気づいたように、
「そういえばあんた、どこまで行くんだい?」
と続けた。
ディランは小さく頷き、
「ええ。アクオーネ、その、アクオーネ旧市街まで。そこに住んでいる人を訪ねます」
「え!? 本当かい……あんなとこ、もの好きしか住んでないよ」
「ええ……」
「……騙されてんじゃないのかい? 気を付けなよ。じゃあ」
その言葉を残して、男は列車へと戻っていった。
◇ ◇ ◇
ディランは廃線沿いの小道を辿り、旧市街地を目指していた。色褪せ、朽ちかけた建物たち。壁は剥け、窓は割れ、ドアは閉ざされたままだった。錆びた線路。朽ちた枕木はその姿をとどめない。
進むにつれ、景色はより廃れていった。草が道を隔てる。
それらをはねのけ、道を作る間にも日は傾いていく。
「急がねば……」
微かな波の音を耳でとらえた頃、風向きが変わった。湿った空気が流れ込んでくる。
ディランは歩みを緩め、顔を上げた。錆びた線路は途中で砂に埋まり、崩れた鉄骨が暗い海の中へ伸びている。水平線には、海面から湯気のように雲が立ち上っている。さらに見上げれば、夕日の残光が厚い雲の下で鈍く滲み、一日の終わりを告げようとしている。
その光景は、人類の文明が荒廃した後の、別の世界のもののようだった。
「さて……」
周囲を見回すと、生い茂った木々の間から小さな明かりが見えた。そこへと歩みを進めるにつれ、古い家の形が浮かび上がる。
「ここか……?」
夕暮れの薄暗がりの中、その家だけ窓に明かりが灯っていた。庭先には手入れされた花壇、刈り揃えられた草。そこには確かな生活の匂いが漂っていた。
一度深呼吸し、指の背で扉を叩く。
「夜分失礼します。どなたかいらっしゃいませんか?」
声は波音に吸い込まれていった。
ディランはしばらく待った後、また腕を構えた。その時、内側から小さな音が聞こえた。やがて奥から近づいてくる軋み。
「どなた……?」
か細い老婦人の声が、扉越しにやっと聴こえる。
ディランは姿勢を正し、
「失礼しました。私は月から来たディラン・クレセントと申します。ニアさんのお宅はこちらでしょうか?」
と返した。すると、すぐに内側で留め金の外れる音がした。
―― 勢いよく開かれる扉。ディランはそれを何とか身をひるがえして避ける。
一人の老婦人が、そこにいた。背筋は伸び、その白髪はきちんと結い上げられている。深いしわの刻まれた顔。その中にある瞳は見開かれ、少しにじんで見えた。
「ええと……」と、ディランは少し身じろぎしながら胸元から封筒を取り出し、老婦人の前に差し出す。
「英雄の丘のご老人から紹介をいただきまして。ニアさんを訪ねろ、と……」
――ディランがそう説明をしている間、老婦人は何も発することなく、ディランを見つめたままである。
「あ、あの!」とディランが声を強めると、老婦人の肩が小さく揺れた。瞬きを繰り返し、そして、そこでやっと差し出された封筒をみる。
「あ、ああ……ごめんなさいね……少しびっくりしてしまって……嫌だわ、私ったら」
「いえ……すいません。てっきり連絡がいっているものかと……」
「……いや、そうじゃないの。ディラン……どうぞ上がって。話をしましょう」
老婦人は封筒を受け取ると、ディランを内へと招いた。
ディランは小さく頷きながら、「……失礼します」と玄関へ入った。
波の音が、ゆっくりと遠ざかっていった。




