第四十二話 失われた未来
――明朝。
視界は霧に覆われ、仰ぎ見れば鉛色の天蓋。白黒織りなす無彩色の世界で、草木はじっとりと湿り、淡い陰影を纏わせている。
朝ぼらけの港町。
限りないはずの海は深い靄の中にその身を隠し、柔らかなさざ波の音だけを漂わせていた――そんな心地よい静けさを、遠浅の微かな霧笛が遠慮がちに遮った。
ディランが大きく背伸びをする。背後で、扉が静かに開かれた。
「お待たせしました……」
「いや、本当にありがとう。こんな早くに」
「……いえ、先生のお役に立てるなら何よりです。ああ、今朝は冷えますね……」
ディランは今日、アクオーネへ発つ。道程は遠く、人を訪ねるとなれば日の落ちる前を目指したい。
そんなことを話していたら、シプタが仕事前に駅まで送ると申し出てくれた。
二人は静かにドアを閉めたが、結局、けたたましい排気音が静寂を打ち砕く。
「では、行きましょうか」
朝霧立ち込める隘路に向かい、シプタは静かにハンドルを切った。昨晩の出来事は未だに、言葉にならない気まずさとなって彼女の表情に影を落としている。
灰色の雲は相変わらず低く、頭上を抑えつけるように空を覆っていた。そんな雲が車の屋根まですり抜けてしまったかのように、車内には重々しい空気が充満している。
そんな雰囲気の中、口火を切ったのはディランの何気ない問いだった。
「アクオーネについて知っている事があれば、教えてほしいのだが」
シプタはしばらくの間を置き、「はい……」と、短く答えた。
口をすぼめながら長く息を吐き、視線は注意深く前方へ固定したまま口を開く。
「アクオーネはアクエッタ人の起源の地、そして……」
「……崩落事故が起こった場所でもある、と」
「はい。海底火山の影響で鉱産資源が豊富な土地なんです。他の星からも採掘者が訪れるほどに栄えていたと。そんな、星の発展を支えた場所が悲劇の始まりの場所にもなってしまった。皮肉ですよね……」
「……」
「水や食事。中毒症には十分気をつけてくださいね。火山の活動時期はマスクも必須で、雨にもなるべく当たらないように……」
「そうだな。気をつけなければ」
「……って、そんなことならご存知でしたよね。余計なお節介を……」
「いやいや、どんなことでも教えておいてもらえると助かる」
ディランはそう言いながら、胸元から封筒を取り出していた。墓守の老人から渡された手紙ーーそれをしげしげと見つめながら、
「色々と知っておかねばな。この星には長く滞在することになりそうだ……」
と、漏らした。
「そうですね……」
シプタは噛みしめるようにつぶやく。手紙に視線を落とすディランを流し見し、自嘲気味な笑いを浮かべながらさらに続けた。
「そういえば……アクオーネのあたりでは、手紙を食べる習慣があるそうですよ」
「え? 手紙を?」
「はい……あ、先生今、野蛮な習慣だなって思ったでしょう?」と、弾む声でシプタがからかう。
「いやいやいや。文化は多様性があってこそ……どういうことか気になっただけで」
狼狽えるディランの様子が面白かったのか、シプタは悪戯好きな子どものような笑みを浮かべて続けた。
「アクオーネに自生していたという『メメン草』。それを原料にして紙をすくらしいんですけど……」
「ほう」
「成分が物忘れに効用があると言われていて……それを食べて、『私を忘れないで』、ということなのでしょうけど……」
「なるほど」
「一説によると、脳の神経細胞まで再生するとかなんとか……」
「ほうほう」
繰り返される単調な相槌に、とうとうシプタは頬を膨らませた。
「……すいません、非科学的ですよね」
「え? いやいや。どうかな。人間も所詮、自然から生まれた存在、そんな作用があっても不思議ではない……が、有用ならとうに見出されているはず、とは思ってしまうかな」
と、ディランは弁明気味に答えた。
「それは確かに……」シプタが言い淀み、その声に影が落ちる。
「先生の言うとおりです……ただ、その植物も公害の影響で自生域が侵され、すでに絶滅してしまったと」
「……そうか、生態系にまでそんな影響を」
「……はい、確認しようがないですね。でも、月の都の人からしたら理解しづらいんじゃないですか? そんな危険な場所になぜ人が住み続けるんだろう、って」
「……いや」
「故郷、思い出、つながり。様々な事情で苦しみとの共生を選んだ人、選ばざるを得なかった人……これほどの年月が経ったというのに、未だに人々は苦しみ続けている。アクエッタの時間は、あの時から止まったまま、なのかもしれません」
シプタの声は、ゆっくりと低くなっていった。なにか責められているようで、ディランは言葉を受け切れず窓の外へと視線をそらす。
失われた文化、失われた自然。もしも事故が起きなかったら、いや、そもそも月が干渉しなかったら――ディランの脳裏に焼き付いた小さな墓標たちが、失われた未来を、どうしても想起させる。
先進文明の功罪、そんな言葉で片付けようとすることすらおこがましい。自分は、月の都で無自覚のまま犠牲の上に立っていた。そんな忸怩たる思いがディランの胸の奥にのしかかってくる。
◇ ◇ ◇
やがて車は市街地へ至った。
このあたりでは霧も大分薄まるが、街はなお灰色に沈んでいる。雲間からのかすかな光が、石造りの建物のその輪郭だけを淡く浮かび上がらせていた。
水路沿いの通りではすでに人々の営みが始まっている。網を繕う手、船を用意する声、荷物を運びこむ足音。この星の朝は、日の出という合図もなく始まる。
留学中は故郷を懐かしむどころか、毎日のように朝日に感動していましたーーそんな事を言いながら、以前のようにわだかまりのなく笑うシプタの横顔を見て、ディランは胸をなでおろしている。
大通りにぶつかる三叉路、ディランの視線は正面の建造物にとらわれた。周囲の建物に全くなじまない白亜の尖塔、鏡面のように仕上げられた銀色の外壁。まるで先日訪れた月の大使館を彷彿とさせる、いかにも月の人間がこしらえそうな趣味の建物。厳かな門扉には、見たことのない印章の浮き彫りが施されている。
「あの、前方の建物はなんの施設だ?」
ディランは思うより先にシプタへ尋ねていた。
「ああ、あれですか? あれは……マナス教の本部。ええと、この星の主教ですね」
「マナス教? 宗教の施設なのか……あれは」
「ええ。このアクエッタの民を救済し、天国へ導く。そんな教義の教団で……私の職場も教団の運営なんですよ。留学を支援してくれたのも教団なんです」
「ほう……」
ディランの目は、その一際異様を放つ建物へと釘付けになった。通り過ぎてもまだ目線を送る彼を横目にとらえ、シプタは微笑みながら問う。
「そんなに気になります?」
「ああ、いや、なんとなく」
「……先生って、なにか信仰ってあるのですか?」
「え? 信仰? どうかな」
ディランの曖昧な返答にシプタは思わず吹き出し、慌てて口元を覆う。
「ふふ……まぁ、無いですよね。 先生なら『天国? 何を根拠に』、ってばっさり言いそうだし……」
「そう思われてしまうのは否定はできないが……信仰を否定するつもりはない。私にだって理性で割り切れない感情ぐらいあったからな……」
ディランはそんな言葉を返し、街の風景をぼんやり眺めた。ここではないどこかへと向けられているような、遠い眼差し。
――シプタはそんなディランを一瞥して、
「……そう、ですか」
と、力なく答えた。きっと彼は『月に残してきた奥さんのことを思っている』、そんなことを、いやでも感じ取ってしまった。
◇ ◇ ◇
駅舎は、街の中心部からややはずれた場所にあった。
入口にある石造りの門は装飾も剥げ落ち、駅舎にもひび割れの痕跡が刻まれ、その歴史を物語っている。いや、もはや廃れて補修もされていない、といったほうが正確だろうか。
車が駅前の停車帯へゆっくりと寄せられる。
「着きました……あとこれ、本当に少なくて申し訳ないですけど……」そう言いながら、シプタは封筒をディランへ手渡す。
排気の音が静まると、途端に沈黙が張り付く。
窓の外にはまばらな人影、淡い灰色の中で駅舎へと向かう背中は疲れ果て、宵闇へ吸い込まれていく亡者のようにも見えた。
「大切に使わせてもらう……助かったよ。本当にありがとう。」
「……いえ」
助手席のドアが開け放たれると、肌寒い空気が一気に流れ込んでくる。ハンドルを握ったままうつむいているシプタの様子に後ろ髪を引かれながらも、ディランは片足を降ろす。
ーー彼女は自分に、この現状を打破して欲しいと期待している。しかし、自分には彼女を、星の希望を支えられるような技術も知識もない。器ではない。首を突っ込むべきではないーー
医療に対する無力感、それはディランの心に決して癒えない傷を残していた。
「では……」
立ち上がろうとしたその時、「ディランさん!」と声をかけられる。
振り向くと、そこには笑顔のシプタがいた。
「……絶対また会いましょうね! 私たち、仲間でしょう?」
ディランはその真っ直ぐな瞳を見つめ、静かに頷いた。
「ああ。そうだな。また会えるといいな」
「……私、自信があります。絶対、また会えるって」
ディランは、喉まで出かかった「なぜだ?」という言葉を押し込み、代わりに「ああ!」と力強く返した。
「……じゃあ、いってらっしゃい」
「ああ、いってくる」
小さく手を振りながら微笑みを浮かべると、ディランは踵を返して駅舎へと歩き始めた。その後ろ姿が人波に吸い込まれていくのを、シプタはしばらく見守っていた。
◇ ◇ ◇
(……私、自信があります。絶対、また会えるって)
シプタは帰りの車中、自分の言葉を思い返しては悶え、顔が燃えてしまうのではと思うほどに赤面していた。あの時、一体自分はどんな顔をしていたのだろうか、そんなことを思い返す度に声を上げてしまいそうになる。
しかし、耳まで赤く染まった彼女の顔は、どこか満足気だ。
――ディランは寮に書籍を置きっぱなしのままであるから、きっと取りにくるだろう、たったそれだけのことが彼女の確信の根拠であった。つながりが消えていないという事自体が、彼女の心へ希望と勇気をもたらしてくれる。
病院へ戻る頃には少し落ち着いたが、その顔は昨晩よりも相当に晴れやかだった。
溜め込んでいた自分の心の内、苦しさや悔しさをディランに告白できたこと。結果はどうあれ、彼女の心は軽くなっていた。
さて、寮の駐車場へと着いたシプタは、すぐに異変に気付いた。寮の車寄せに警察車両が2台も停まっているのだ。なんだろうと思いながら駐車していると、警察車両の隙間から寮長がぬっと姿を表して、シプタの車めがけて駆け寄ってきた。
「シプタさん! 彼が残していった荷物を警察が……」
「え!?」
シプタは扉を開け放つと、寮長をそこへ残したまま倉庫目指して駆け出した。
扉から出入りする警官たちが、次々とディランの書籍を箱へと詰め込んでいるのが見える。
「どうしたんですか!?」シプタは反射的に叫んだ。そして、
「誤解です! その中身は学問の書籍ですよ!」と警官へ詰め寄る。すると、
「ん、この持ち主の関係者? 君が彼をここに連れてきたの?」と、警官は煩わしそうに返した。
「ええ、そうです。多分、誤解が生じています。これは押収されるような書物ではありません」
「ん……? だってこれ、月の書物でしょ」
「そう、ですけど……」
「じゃあダメじゃない」
眉をひそめるシプタの後方から、追いかけてきた寮長が息も絶え絶えに割って入った。「はぁはぁ、すみません。この人はあの事件の時、留学中だったもので……」
「ああ、だから知らないのか」そう言いながら、警官は手を止めずに書籍をさらに箱へ詰める。
その様子を見ながら、「あの事件……?」とシプタは首を傾げた。警官が顔を上げる。
「例の、月の王様が殺されたってあの事件だよ……って、本当に知らないのかい」
「いえ、それはさすがに知っていますが……でも、それがなぜ?」
「お月さんが技術の漏洩に敏感になってるらしくてね。なに、捨てはしないよ。警察で保管しているって本人には伝えといて。まったく、こんな仕事増やされるこっちの身にもなってほしいね、ったく……」
「でも、保管しておくだけなら問題ないのでは……」
「ありあり、問題大ありだよ。今騒ぎになっているでしょ? 本町の図書館に、大量の月の本が投棄されたって話」
「え……」
「昨日は大騒ぎだったんだからね。残りの本もあるはずだ、探せ!って教団からも散々どやされて。目撃情報からやっとここを探し当てたってわけ」
「そんな……あの、彼はなにか罪に問われるんですか?」
「え? いや。今のところは、特にそういう話は聞いてないな」
「……なおさらおかしくないですか。それなら、最初からこの星に持ち込むなとあらかじめ規則があれば、彼だって……」
「君ねえ……月の人にそんなこと言えるわけ無いでしょう? それに、うちに言われたって困るよ。もっと上に言ってくれなきゃ」
そう、警官は愚痴をこぼすように答え、最後の書籍を箱へ詰めた。
「よし、これで全部、ってことでいいかな」
運び出されていく箱たち。倉庫の棚に積まれていた本は一冊も残っていなかった。
シプタはその場から動けなかった。この世の終わりのような表情で、今にも倒れそうである——着任早々騒動ばかり起こすシプタを注意しようと考えていた寮長ですら、叱りの言葉を飲み込んで寄り添う。
「昨晩ね、私が彼の情報を大使館に照合したのよ……でも、警察がちゃんと保管してくれると言ってくれてるじゃない。こんな湿気った場所より、本にとってはよっぽどいい。だから、あなたが責められることなんてないわ。元気出しなさい!」
と、肩に手を乗せながら激励してくる。
「うう。そ、そうじゃ……そうじゃないんです……ううっ」
うめき声は誰に届くこともなく彷徨う。やがて走り出した警察車両の排気音が、日常の始まりを告げていた。




