第四十一話 星の希望
ディランが最後の荷物を車から取り出そうとした頃には、夜気もいっそう冷たくなり、寮内の灯りもほとんど消えていた。彼は指先を少し震えさせながら、駐車場の電灯の下で本の表紙を一冊ずつ確認している。
――この星の二日目の夜。風が吹くたび、遠くから波の音が届く。
次の夜はどこで何をしているのだろう、そんなことを考えながら、本の背表紙を眺めていた時だった。
「先生」
聞き覚えのある声に、ディランがゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、部屋着姿のシプタだった。
「……どうした?」
短く答え、ディランが本を抱え直す。
「……なんだか、寝付けなくて。本、読んでるんですか?」
シプタはそう言って、視線を積まれた本へと落とした。
「ああ。役立ちそうな知識がないかと思ってね。倉庫の明かりは少し暗く……」
「あっ、聞きましたよ……あそこ、倉庫じゃないですか。ひどいですよね……」
「いや、十分に有難い。感謝しているよ」
彼は一冊を手に取りながら小さく頷いた。そこで急に顔色が変わる。先ほどの寮長とのやり取りを思い出したようだ。
――二人の間に、短い沈黙が落ちる。
夜の駐車場には、静かな波の音だけが響いていた。
「そうだ……車の鍵を……」
「いえ……明日の朝でいいですよ……」
シプタは首を軽く振りながら、苦笑いを浮かべると、ディランは少しだけ眉を動かし「……そうか」と短く返してまた目を背けた。
あんなことを言われては、どうしても意識してしまうというものだろう。ディランは目線をシプタへと向けることが出来ないでいた。
その態度のよそよそしさ。それはシプタにも違和感となって伝わっている。ディランは目線を合わそうとせず、その声も少し硬くなったように聞こえた。
シプタが歩み出し、愛車へと寄りかかった。
そして少し首をかしげながら、
「もしかして、寮長に何か言われました?」とディランへ尋ねると、彼は「いや……」と、苦笑しながら答える。
「……君のことを褒めていたよ。この病院にとって、大切な人材だと。この星の希望だ、と」
「……そうですか」
彼女のその返事には、喜びとも少し違う響きがあった。
「……昔は、期待されていた、が正しいのかも」
その一言に、ディランの手が止まる。
「昔は……?」
するとシプタは夜空へ目を向けた。
「出発の時は、たくさんの人が見送ってくれたんです」
「……」
「私はこの星の期待を背負って、緩和ケアの第一人者になることを望まれて留学に行きました。患者さんの苦しみをすこしでも和らげるために、医術を修める……」
ディランは黙って聞きながら、本を開いてそちらへ目を落とした。
シプタは構わず、静かな声で続ける。
「でも、医学を学ぶうちに……治療の分野に興味が出てきて。根本から治す研究がしたいって話をしたんですけど……怒られちゃいました」
海から吹き抜ける風が、電灯の明かりをわずかに揺らす。ディランの場所からは、シプタの細かな表情までは確認できなかった。
「笑っちゃいますよね……何もわからない学生の分際で、誰も解決できなかった治療を研究したいです、なんて」
シプタは小さな笑い声をあげたが、ディランは何も言わず、ただ、本をめくる手だけを静かに動かしている。
しばらくして、彼女は続けた。
「でも……先生なら……先生は、希望を運んでくれる人なんじゃないかって」
そこまで黙って聞いていたディランがゆっくり首を振る。
「いや……買いかぶりすぎだ。私は妻の病気を治したい一心で医学を学んだ」
ディランは遠くを見る。
「だが、私こそ、何も成し遂げていない……」
ディランが悔しさをにじませるように絞り出した。そして、
「しかし、君には医術の才能がある」
と、シプタの目を見て言う。
「そっか……先生は奥様のために医学を。それで、あれほどの……奥様って、どんな方なんですか?」
シプタの問いに、ディランは少し驚いたように目を瞬かせた。
「そうだな……」
少し考えたのち、
「私にとって、彼女は光のような人だ」
と、 ディランは少し照れたように指で頭をかきながら答える。
「光……」
「惜しみなく知識を分け与え、才に溺れず、周りとともに成長しようとする。奇しくも、彼女にも……生まれ育った星を救えなかったという、大きな無念があるが……それでも今は、病に侵されながらも前を向いている」
ディランは穏やかに続けた。
「それに比べれば、君には可能性がある……などと私が言っても、説得力はないかもしれないが」
シプタはしばらく黙っていたが、やがて、ふっと息を吐き、「……かなわないなぁ」と漏らした。
その言葉に、ディランが思わず笑う。
「ははは。かなわない、か……」
ディランはそう言って、夜空へ視線を向ける。
「彼女ならきっと、「諦めないで頑張りましょう。お手伝いします!」なんて言いながら手を握ってくるかもしれない。勝ち負け、なんて気にする人ではないよ」
そう語りながら慈しむように笑っているディランを、シプタは見ていられなかった。
そして、絞り出すように、
「……勝ち負けって、あるんですよ……」
と呟く。
ディランは少し意外そうな顔をして彼女を見た。そして、
「そうか……そうかもしれないな。私もまだまだ学ばなくてはならない」
と、頷く。
シプタは視線を逸らしたまま、「そうです、先生は……分かってないんです」と続ける。
夜の風が吹く。
彼女の瞳が、電灯の光をわずかに反射した。
シプタは視線を逸らしたまま、小さく首を振った。
「……分かってないのは、私の方か……」
その声は、ディランにも届かず、波音に紛れて消えていった。




