第四十話 すれ違い攻防戦
場面は月の都。
――ディランから盗難に遭った旨の連絡を受けたルミナリアが、隣家のドアの前に立っていた。その様子、眉間にしわを寄せ、固く握られた右手は胸の前で震えている。
玄関の戸が静かに開く。それを待ちかねたように、
「ネイボルさん!」
と、ルミナリアの声が響いた。
玄関から顔を出した隣人、そのネイボルと呼ばれたその女性は、ディラン、つまりクレセント家の隣に住んでいる月の民である。
ディランは盗難の知らせをルミナリアへ送ると同時に、隣家のネイボルにも連絡を入れていた。
父の代からクレセント家と付き合いがあり、旅立つ前には「何かあればルミナリアを頼みます」と頭を下げていた相手である。
「いらっしゃい、って……顔色悪いわよ?」
ネイボルがルミナリアのただならぬ様子に気付き、その様子を見るなり表情を引き締めた。玄関先に立つ彼女の瞳は微かににじみ、まるで今にでも降り出しそうな雨雲のようである。
「すいません、あ、あの! 夫がご迷惑を……」
「いえいえ、今しがた確認したわ。それよりもあなた……一旦、中に入って座って」
「あ、はい、すみません……」
ルミナリアは小さく謝ると、促されるまま客間へ通される。
「ごめんねぇ。私がそっちに行けば良かったのに」
「いえ……すいません、連絡が届いたばかりだというのに、押し掛けてしまって……」
椅子へ腰を下ろしてもなお落ち着かず、膝の上で両手を重ねたり離したりを繰り返していた。何かもてなしを、と考えていたネイボルではあったが、まずは話が先だと決意するように頷き、向かいの椅子を引く。
「とにかく落ち着いて。パスポートの保証人、よね?」
「それと、実は私、送金もできないので……」
「ああ、そっか……夫婦なのに送金もできないとは。まだ政府は移民に対してそんな意地悪やってるんだねぇ……ルミナリアちゃんが何かしたわけじゃないってのに」
「いえ、あんな事件があったので仕方ないとは思います……」
「うーん、まぁ……移民にもいろいろいるからね……」
ルミナリアは法的に月の民とはなっているが、一部の行動が制限されている。特に王家の事件以降、重要な手続きの代理人、資金移送などは認められなくなっていた。
「……しっかし、ドジだねディル坊も」
努めて軽い調子で言ったネイボルだったが、ルミナリアの表情は少しも和らがない。
――ネイボルにとって、ルミナリアがここまで焦燥していることは予想外のことだった。なぜならルミナリアは積極的にディランを旅へと促していたからだ。盗難というトラブルは不幸な出来事であったが、健康なのであれば不幸中の幸い。だというのに、何か思いつめたような表情をしている。
「……心配ないよ。簡単には死にやしないよ。そういう運だけは強いからね」
「はい……彼の知恵があれば大抵のことは問題ないと思います」
そこまで言って、ルミナリアは言葉を濁した。
「ただ……」
「ただ?」
「はい……彼、お金もすべて奪われたって……」
「うん」
「だから……いえ、なにか……あっちで知り合った女性のところに、転がり込んだり、とか……?」
「ころがり……」
一瞬の静寂。
そして、「ぶっ――」と、ネイボルはたまらず吹き出した。
「あっはっはっは!」と大声を上げて笑いだす。
「ひぃ、ひぃ……あの甲斐性無しが? ははははっ!」
涙まで浮かべながら笑う隣人を前に、ルミナリアは不満げに口をすぼめている。
……ようやく笑いがおさまると、ネイボルは目尻をぬぐい、大きく息をついた。
「ああ、ごめんね……真剣に心配してるのに……ルミナリアちゃんがそんなふうに嫉妬するなんて意外だったって言うか」
その一言に、ルミナリアの肩がぴくりと震えた。
「それは、妻ですから……彼はあんな感じですけど、結構魅力的な部分もあって……」
「あら、ご馳走さま……」
ネイボルは嬉しそうに目を細めながら続けた。
「それにしてもいじらしいっていうか。そんなに心配なら本人に言えばいいじゃない」
「……何を、ですか?」
「……決まってるでしょう?『他の女の人のところへ行かないで。あなたを愛しています』って。ああでも、そんなこと言ったら、本当にディル坊の心臓止まるかも……」
ネイボルはそう言いながらまた吹き出しそうになり、顔をそむけた。旅立つ前、ルミナリアに素っ気ない態度を取られるたび、目に見えて落ち込んでいたディラン。まさかそんな態度の彼女が哀願するように貞操を憂うなど、彼は夢にも思っていないだろう。
「ふう……」
心を落ち着けて再び前を向くと、ルミナリアが肩を小刻みに震わせ、うつむいたまま、膝の上で両手を重ねていた。
「あっ……ごめんルミナリアちゃん、私、ちょっと悪ふざけが……」
「いえ、私がいけないんです。彼を突き放すようなことをしておいて……それなのに結局、私が生きている間は……少し嫌だなって」
「……」
「でも、束縛したくはない、彼の重荷にはなりたくないんです……彼には彼の人生を歩んでほしい。そう思っているのは本当で……」
その時、ルミナリアの堰が遂に切れる。あふれる涙が懸命に拭う指先から零れ落ち、テーブルを濡らしていった。
その様子を静かに見守るネイボル。目を細め、ゆっくりと口を開いた。
「……難しいねぇ、まったく」
「……」
「わかった……! 今スグに、手続きしようね。こうしちゃいられないよ!」
そう言いながら席を立ち上がると、ぱん、と軽く手を叩いた。
「あ、ありがとうございます! あと、すいません、実はそこまでお金が無くて、少しお借りできないかと……」
「ふふ、水臭いねぇ。クレセントさんには散々お世話になったからね。色付けて送っておくから、気にしないで!」
◇ ◇ ◇
一方その頃、アクエッタでは――
ディランとシプタが寮の廊下で押し問答をしている。
「気持ちはありがたいが、車で十分だ……君はゆっくり休んでくれ」
「いいえ! 先生こそ初めての星で大変な目に遭っているじゃないですか。ここでお休みになってください。あんな狭い車では血管が詰まりますよ!」
しばらくそんな会話が続くうちに周囲の部屋の扉が次々と、少しだけ空いていく。住居人が「一体何事だ?」とその様子をうかがっているようだ。車に戻ろうとするディラン、その袖を持ちシプタは食い下がり、体を伸ばして眠ることの重要性を必死に訴えている。
――と、そんな彼女の背後から一つ、大きな咳払いが聞こえた。
振り向くとそこには、壮年の女性。問答をしている間に、気づかず歩み寄られていたようだ。
シプタが慌てて頭を下げる。女性は眉間に皺を寄せたままにらみつけるような視線を送ると、大きくため息をついた。
「……ロジヒン・シプタさん?」
「はっ! はい!」
「例の同居の件は……こちらの方かしら?」
女性はそう言いながら、ディランの方へと視線を移した。
「あ、はい! 寮長さん、すいません、今、外出から戻りました。あっ、あの、連絡入れたほうが良かった、ですか……?」
「はぁ……それはそうでしょう? 部外者なのですから念のために確認させていただかないと。勝手に招き入れられては寮内の秩序に影響が出ます」
「す、すみません……」
「ではそちらの方、滞在許可証を見せていただける?」
そう言いながら、寮長はディランの前に手のひらを差し出した。「あ、はい!」と、ディランはポケットから許可証を取り出して手のひらにのせると、彼女はそれをマジマジと、ディランの顔と交互に確認し始めた。
「月の……何と読めば?」
「はい、ディラン・クレセントと読みます」
「ディラン・クレセント……しかしあなた、盗難にあったと聞きましたが? こんな大事なものをポケットに入れて持ち歩くとは、なんと不用心な……」
そう指摘されたディランは背を叩かれたように姿勢を正し、「そ、それは確かに……面目ない」と答えた。
寮長は許可証を返し、再度大きなため息をつく。
「……シプタさん、言わなくてもわかっているでしょうが、このように騒がれては困りますよ……ああ、それと」
そう言いながら、寮長がディランを射抜くような目で見据える。
「一部屋用意できそうなので、それを伝えに来たのでした。この方にはそちらを利用してもらおうかと思います。まぁ、ちょっと物は置いてありますが」
その寮長の言葉に、「へ? そうなんですか?」と、シプタが目を丸くして返す。
「ええ。では貴男、部屋の片付けを手伝ってくださいな。いいですね?」
シプタは本当に自分の体を心配してくれているのだろうと思いながら、それでもやはり、女性と同じ部屋に泊まるわけにはいかない。さすがのディランにもそれくらいの分別はあったようで、「はい! よろしくお願いします」と意気軒昂に返している。
「そ、そんなぁ……」と、シプタが肩を落とす。それはディランの疲れを案じて、という落ち込み様ではない。しかしディランは「君はゆっくり休んでくれ。初日で疲れているだろう」と連れない。
その横で、寮長は「フン」と鼻を鳴らす。ディランが歓迎されていないことは火を見るより明らかなようだ。
◇ ◇ ◇
ディランが案内されたのは、階段脇にある一室だった。
その扉には清々しいくらいに堂々と、「倉庫」という表札が掲げられている。寮長は軋む扉を肩で押し込むように開け放ち、「さ、入りなさい」とディランを一瞥する。
「失礼します……」と縮こまりながら入っていったところで、なんとも言えない据えた匂いが鼻を突いてくる。天井の心もとない電球が照らす室内、突き当りには棚があり、古い書類の束が無造作に詰め込まれている。周囲の壁際には役目を終えたであろう医療器具や福祉用具がその体を錆びさせながら敷き詰められ、なんとも言えない寂寥感を漂わせていた。
ディランが部屋の中央へ足を踏み入れたところで、寮長はまたぎいぎいと重い音を鳴らしながら扉を閉める。肩を軽くはたいた後、ディランへとまた鋭い眼光を向け、重々しく口を開いた。
「貴男……あの娘をどうするつもり?」
予想外の問いに、ディランは目を瞬かせた。
「え? どうって……」
「あの娘はね……この病院の要になる人材なの」
「おお……私も彼女の医術を目の当たりにしました。その様に期待されていることも納得です」
その言葉に、寮長の眉間の皺がさらに深くなる。
「……しらじらしい……では、なぜ、あの娘をたぶらかすの?」
「へ!? たぶっ?」
慌てふためき手を振るディラン。その様子を見て、寮長はおでこに指を当てながら長いため息をついた。
「この星の医療を担う、そんな期待を背負って留学に遣わされた娘だったんです。それが……」
ディランは必死に否定する。
「ご、誤解です。そのような考えは持っていません! それに、私は妻が居りますから!」
「……まぁ、既婚者なの? なお悪いじゃない」
「違います! 彼女とは渡航中に知り合っただけで、そのような仲では……」
「ふん、どうだか。そんな風には見えなかったけど?」
狼狽えるディランをよそに、寮長は雑多に物が置かれたあたりのスペースを指さして、
「そのあたりを片付けて使用しなさい」
と吐き捨てた。
「はい、わかりました。あ、あの……」
「何ですか?」
「はい、私は明日にでも発ちます。ですのでご安心ください」
「へえ、明日。この星で、どこか行く当てが?」
「はい、有難いことにご縁をいただきまして。それでその、こちらに私の荷物をしばらく、置かせていただいてもよいでえしょうか?」
「荷物を?」
「はい。書籍なのですが、持ち運ぶには少し量があるというか……そこまで場所は取りませんので」
「……まぁ、そのぐらいならいいでしょう。ダメだと言えばまたロジインさんが預かると言い出しかねませんし……」
「ありがとうございます!」
「フン」
そう鼻を鳴らしながら踵を返し、扉を開けようとする寮長。しかし、扉の立て付けが悪いためか、重いようで苦戦をしているようだ。
その瞬間。
「失礼します」
ディランが横から手を伸ばした。
寮長が振り向くより早く、彼は扉を引き開ける。
「どうぞ」
「フン、どうも……」
寮長は眉を吊り上げながらディランへと一応の礼を告げ、廊下へと歩み出ていった。
そして去り際、
「月の人間が……面白がって手を出さないで……」と言い残し、もと来た廊下を歩いていく。
ディランはその背中を見ながら、「ふう」と息をつき、「さて、やるか……」と腕をまくるのであった。




