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第三十六話 英雄の丘

 ──ホテルの向かいにある小さな公園で、ディランはベンチに腰掛けていた。


 ベンチの傍らには大きな荷物が積まれていた。書籍の整理は少しついたが、まだまだ長い距離を運べるような荷姿ではない。台車が無ければ身動きすら取れない。それに引き換え、手元に残っているのはわずかな小銭のみ。

 今夜の宿どころか、雨風をしのぐあてすらない。


 灰色の雲が街を覆い、昼だというのに光は鈍い。ディランの心はそんな雲よりも、重く重く、鈍く沈んでいた。父の手がかりがなかったことが、そして、月への帰還が遅れてしまうことが、よほどショックだったのだろう。いつものような機転も回らず、彼は珍しくただうつむき、途方に暮れていた。


 しばらくすると、公園の向こうから足音と共に、大きな声が聞こえてきた。


「先生!」


 足早に駆けてくる一人の女性の姿、シプタである。ディランは先ほどホテルの受付で電話を借り、彼女へと連絡をしていた。よっぽど慌てて出てきたのだろう。医療施設の制服姿のまま、大きく手を振ってディランの元へ走ってきた。


「大変でしたね……はぁはぁ……体は!?」

 シプタは肩で息をしながら、ディランに尋ねる。その表情には若干の汗と不安の色がにじんでいた。

「いや、命に別状はないんだ。それより済まないな……勤務初日だというのに……」

「いえ……今は休憩中なので……でも、無事でよかった……」

 ディランの無事を確認すると、シプタは胸に手を当てた。


「無事ではないがな。荷物を盗まれた。財布もパスポートも、何もかもだ」

 そう言いながらディランは苦笑した。彼女は少し微笑むと、白衣をはたいてベンチに腰を落とす。

 そこからは尋問のように、シプタはディランが遭遇した災難を事細かに聞き出した。盗難、再申請、さらには、父親にも会えそうにないということも。


 やがて事情を聞き終えたシプタが、ゆっくりと立ち上がった。


「すみません……この町がそんなに治安の悪い場所だったなんて思っていなくて……」

「いや別に……君のせいではないのだから。私も油断していたのだ」

 ディランの言葉に、シプタは穏やかに首を振った。そして、しばらく考え込んだ後、意を決したように顔を向ける。


「先生。私の家に来ませんか?」

 ディランは目を瞬かせた。

「いや、それは迷惑を掛ける」

「迷惑なんかじゃありません。それに先生、頼る人もいないのでしょう?」

「それはそうだが……」

「先生には助けてもらいましたから! 今度は私の番です」

「いや、そういうわけにはいかない」

「いいからいいから。遠慮しないでください」

「今、月から送金を頼んでいるのだ。それが届くまでの……申し訳ないがお金を少し、融通して……」

 歯切れ悪くディランがいうと、シプタはあっけらかんと、

「お金? お金なんてないですよ?」と言い放った。


 ◇ ◇ ◇


 二人がかりで荷物を運んでいくと、公園の駐車場へと着いた。

 シプタは年季の入った小型車の目の前に荷物を下ろし、そして得意げに「これです! かわいいでしょう?」とディランに話しかけた。

「あの時の、船医の報酬で買ったんです! この子、ちょっと型は古いんですが、味があるでしょう!?」

 彼女は嬉々として、目を輝かせながらディランに問うた。彼はその勢いに圧され「ああ、いいな……」と当たり障りなく返す。

「へへ……ずっと憧れだったんです。力もあるし、きびきび走るし……まぁ弱点があるとすれば……」

 と、彼女はディランがその背と両手に抱えた荷物を一瞥し苦笑いをした。

「あはは……というわけで、お金なんてないです! だからおとなしく、うちに泊まってください!」

「しかし……」

「送金が届くまでの間だけでも」

 その一言に、ディランは返す言葉を失った。

 ホテル代もない。

 しかし、迷惑をかけてしまうのではと、頼ることは本意ではない。そう思ったディランだが、すでに十分迷惑をかけているな、ということにも気づく。現にこうして、彼女の大事な初出勤日をめちゃくちゃにしている。選べる立場でもない。


「……すまない。甘えさせてもらおう。」


 その言葉に、シプタはほっとしたように微笑んだ。


 ◇ ◇ ◇


 二人で重いトランクを持ち上げ、後部へと積み込む。

 月で見慣れた浮揚車とは違い、四つのタイヤで舗装路を走るアクエッタ製である。外装には細かな傷があったが、よく手入れされていた。


 ぎゅうぎゅうに荷物を押し込んで、やっと、ゆっくりと、車が走り始めた。


 窓の外に灰色の街が流れていく。

 石造りの建物が規則正しく並び、その合間を幾筋もの水路が走っていた。人も荷も、多くは船で運ばれている。


 アクエッタの陸地は、星全体の一割しかない。

 人々はその限られた土地の上に都市を築き、水と共に暮らしてきた。そのためか、道を走っている車はわずかである。それほどに、この星では車が貴重なのだろう。シプタの運転技術は分からないが、災難がもう一つ追加される、ということはなさそうだ。


「これからどうするんですか?」

「ああ、とりあえず、職を探さねばな……相当な期間、このアクエッタに滞在することになる」

「なるほど……働き口、ですか……」

「あと、そうだ。母の墓参り。公共墓地というものがどこにあるか、知っているか?」

「え、公共墓地ですか? それなら……」

 シプタは一瞬ディランへ顔を向け、前方へ目配せした。


 道の先に一つの丘が見えてくる。


 街の中から静かに盛り上がるその丘は、灰色の空を背負いながら、まるで島のように孤立して見えた。

「あのあたりが公共墓地、盛り上がっているのが英雄の丘という場所なんです」

 シプタが前方を指差す。

「丘……」

「はい、アクエッタでは自然の高台は本当に貴重なんですよ」


 車が丘の麓へ向かって進んでいくと、段々と、その高さが明らかになっていく。

「英雄の丘には、この星に功績を残した人たちが祀られているんです」

「英雄? ……まぁ、すごいなそれは」

「ええ」

 少し間を置いて、シプタは苦笑した。

「もっとも、実際には月から来た方のお墓ばかりなんですけどね」

「おお、そうなのか」

「はい、この星の開発に貢献した、ということで……」

「開発……?」

「でも、一人だけ、アクエッタ人も祀られているんですよ。私が医者になろうと思ったのも、その人の話を聞いたからなんです……」

 その言葉だけを残し、彼女はそれ以上語らなかった。


 ◇ ◇ ◇


 やがて車が墓地の入口へと到着する。


「すまないな、わざわざ寄ってもらって」

「いえ、きっとお母様も喜びますよ」

「喜ぶ? もう亡くなっているというのに?」

「ああ、それ、すごく月の人っぽい考えですね……」

「ふふ、そうかもしれないな。だが、どう思うかな……月に墓があったころは一度も行かなかったし……」

「まぁ、私なら嬉しいかな……あ、すいません、もう行かなきゃ! 仕事が終わってからなので、お迎えは相当後になってしまいますが……」

「ああ。構わない」

 ディランはそう言うと、トランクを開け、中から一冊だけ研究書を取り出して表紙を軽く撫でた。

 その様子を見て、シプタが微笑む。

「お母様によろしくお伝えください」

「ははは。わかったよ」

「では、また後ほど……」


 車は静かに走り去っていくのを見送った後、ディランは墓地のほうを振り返った


 公共墓地、その中心部にある英雄の丘へ続く石段。それは緩やかに空へ伸びている。

 ディランは一段、また一段と階段を踏みしめていく。上がるたびに、車道の騒音がどこか遠ざかっていくような感覚があった。


 丘の上へ着くと、穏やかな風が木々の緑をくすぐっていた。ディランはなぜか、この丘に吹く風を懐かしく感じた。


 小道の脇には展望台への道が伸びていた。あそこからなら、あの網目のようなアクエッタの中心街が一望できるのであろう。ディランは吸い寄せられるように、その展望台へと歩み寄った。


「すごいな……」

 思わずつぶやいてしまうほど、景色は想像を超えていた。街の外縁では、そのまま広大な水域へと溶け込み、陸と水の境界は曖昧だった。


 どこまでも続く灰色の空。

 どこまでも続く静かな水面。

 それは、宇宙船から見下ろした景色とは異なる、風情と感覚に満ちていた。

 ディランはそこで、ゆっくりと、無心で風を体に受けていた。


 それでよかった。

 それがよかった。


 焦る理由など、ディランにはもう、どこにも見当たらなかった。


 ◇ ◇ ◇


 英雄の丘には整然と墓碑が並んでいた。しかし、英雄が祀られている場所とは思えないほどに草木は繁茂し、薄汚れているのであった。その草木の陰からわずかに見える墓碑には、見慣れた月の文字が刻まれている。


 ディランは思わずにはいられなかった。このような、星の貴重な場所に、月から来た者たちの墓を作ろうなどと、どうやったら思い至るのであろう。本当にこの星の発展に貢献した者たちなのだろうか。

 ならば今、なぜ、この星の人は苦しんでいるのか。誰かが感謝してくれているのなら、このような草木で荒れ果てた墓碑にはならないはずだ。得体の知れない恥ずかしさがこみ上げ、彼の心がざわついた。


 そんなことを考えながら、ディランはしばらく丘を彷徨った。しかし、一向に場所が分からなかった。父親のメモに書いてあった場所、どこが28番なのかが。本当に、ここに、こんな場所に、母が眠っているのか。


 丘の片隅にあった、小さな墓石を磨いていた老人を見つけ、声を掛けた。不思議な光景だった。その墓石の一角だけは、まるで別の空間のように整えられ、色とりどりの花たちがそよ風に花びらを揺らしている。

「すみません。二十八番の墓を探しているのですが。」

「二十八番……」

 老人は杖をつきながら立ち上がる。

「ここじゃ」

 老人が今まさに磨いていたその墓には、色とりどりの花や手紙、小さな供物が並んでいる。

 今なお、多くの人が訪れていることが一目で分かる。


 そこには、書かれていた。

 『英雄 サラ・アクオーネ、ここに眠る』と。


「……違う。」

 ディランは思わず呟いた。

 刻まれている名前は違う。


 母の名前は、サラ・クレセント。


 ディランの呼吸が止まった。


 ―― 母親の墓参りに行けと、手紙とメモを託し、その言葉すら偽りであったのか。故郷に改葬したという話すらも嘘なのか。それとも、何かの間違いなのか ――


 ディランの膝から力が抜け、その場へ静かにしゃがみ込んでしまった。


 ――父への怒り、いや、それ以上に胸に押し寄せた感情。幼き頃の記憶がゆっくりと浮かび上がる。


 白い病室。

 隔離された透明な壁の向こう。

 痩せ細ったその手にはもう、触れることが許されなかった。

 記憶に残っているのは、母が、

 何度も、何度も繰り返した言葉だった。


『ごめんね……』



 そしてそれが、別れの言葉にもなった。


 研究書が墓前へ零れ落ちた。動けなかった。


 彼は、彼が思うより深く、傷を負っていたのかもしれない。母の故郷の星に来たことで、眺めるしかできなかった母という存在の輪郭が鮮明となり、幼少期の自分を、何もできなかったあの時の無力な自分を救うために、心から、墓参りをしたいと、いつの間にか思っていたようだった。


「……どうしましたかな」

 振り向くと、先ほどの老人が立っていた。

「いえ、少し、昔を思い出していました……母の墓参りに来たのですが、場所が分からなくて……」

「そうですか」

 老人は自然な仕草で隣へ腰を下ろした。


 風が二人の間を吹き抜ける。

 老人は正面を向いたまま、唇を動かさず、腹話術のように囁いた。


「お前……つけられているぞ」

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