第三十五話 街をさまよう
警察署の玄関で、大きなため息をつく人物が一人……
ようやく盗難届の手続きを終えたディランは、すでに疲労困憊の様子だった。
窓口をたらい回しにされ、待たされ、遂には存在を忘れ去られ……
ディランははじめのうち、『その窃盗がもしかしたら、計画的なものであったかもしれない、実は月にいるときもつけられている気配を感じていた! それに比べ、今回の犯人は相当の手練れ……そして、犯人が自分の手からメモを奪い去った時に触れた感覚、あれは……!!』などと詳細に熱く供述しようと思っていたが、現地の警察はそんなことには全く興味がないようで、あくびばかりしている。
そんな態度を見て、ディランもすっかり萎えてしまった。
恐らく、この星で窃盗など日常的な出来事なのだろう。『観光客がわざわざ路地裏を通って窃盗に遭った』という見方でとらえれば、警察官の億劫そうな態度も一定の理解はできる。
――外に出ると、すでに日が傾き始めているせいなのか、アクエッタの厚い雲がさらに重々しく、灰色に染まってきている。
わき目に入ってくるベンチに思わず腰を落ち着けたくなるが、ルミナリアに早く連絡を取らねばならない。けだるい体に気合を入れなおし、大きく息をつくとまた歩き出した。
◇ ◇ ◇
月の大使館は警察署のほど近く、アクエッタの中心部にひときわ高くそびえ立っている。
磨き上げられた銀色の外壁は陽光を鋭く反射し、石造りの古風な街並みへなじむことを拒絶するかのように、異世界の断片のように浮き上がっている。その異質で気高い雰囲気が、ディランに不思議な郷愁を覚えさせた。
中へ足を踏み入れると、無機質な、冷たい空気が迎える。広々としたロビーには余計な装飾がなく、職員たちは誰一人として無駄話をしていない、規律と効率だけで構成された空間である。月の本土と違う部分があるとすれば、機械でなく人間が対応しているという点だろう。
「パスポートの停止と再申請ですね……身分確認書類をお願いします」
「それが、身分証もすべて盗難に遭ってしまい」
「盗難……では、大変申し訳ないのですが、先に警察署へ行って救難申請を」
「はい、それはこちらに……あの、まず月に連絡をさせていただけないですか? 妻に連絡を取りたいのですが、滞在先の部屋の鍵も盗られて玄関にも入らせてもらえず、通信も貸してもらえないのです」
「なるほど……幸か不幸か、どのみち身分確認で連絡を取らせていただくので、その時でも?」
「は、はい! 助かります」
窓口の役人は届けの内容を確認しながら、手慣れた動作で端末を操作する。淡い光に照らされた氷のような無表情、その眉が一瞬傾いた。役人は目を細め、画面を確認しながらディランへ告げた。
「配偶者は、移民の方ですね……申し訳ないのですが、他に保証人を立ててもらえますか?」
「そんな。妻はもう月の民のはずですが」
「その通りなのですが……例の事件以降は、このような取り決めになりました。ご了承ください」
「ああ……」
ディランは顔を荒ませうつむいた。例の事件とは王家殺害テロの事であろう。そもそも、あの事件の以前は生体認証だけでパスポートの再発行も出来ていたはずだった。事件との関与……このシステムも悪用されたのか、そんな、頭の中に思わず浮かぶ考えを、彼は懸命にかき消した。もう、詮索はしない、そう決めていた。
「……では、隣人にお願いしてみます……それと、妻にも事情を伝えても?」
「ええ、そのくらいは問題ありません。もちろん検閲はさせていただきますが……」
ディランはデバイスを受け取ると、そこに隣人の『ネイボル』宛に事の顛末の説明、そしてルミナリアには、自分の無事と、隣人へお金を渡しアクエッタへの送金手続きをしてほしい旨を入力した。
「確認取れ次第発行手続きに移ります。今ですと、およそ五年後には再発行されるかと」
「五年……」
ディランは一瞬体を硬直させたが、すぐに軽くうなずいた。
これも恐らく、例の事件の影響なのだろうと、彼は無理やり納得しようとした。しかし、やはり月に残してきたルミナリアが心配なようで、
「あの、何とか短くなりませんか?」
ディランは目一杯の困惑を声にのせて訴えた。職員は少し同情するように口を結んだが、それまでである。
「……はい、パスポートが手元に戻ってくれば、期間の短縮はできますが……それ以外には」
「そうですか……わかりました」
「……生体認証は完了しているので、滞在許可証は発行しておきます。ホテルくらいならこれで入れてもらえるでしょう」
「……」
「大変だとは思いますが……アクエッタの人たちも、根は悪い人ではない。ちょっと誤解があるだけなんだと私は思っています。おっと……余計なことを言いました。こちらが滞在許可証です」
役人はそう告げると、すでに機械のように表情を無くし、また次の書類へ視線を移していた。
ディランもそれ以上言葉を交わすことなく、大使館を後にした。
◇ ◇ ◇
こうして無事にホテルに戻れたディランであったが、もう元手がない。疲れた、眠りたい、そんな気持ちに必死にあらがい、トランクへと研究書を積み込み始めた。ホテルの宿泊代は明日までの分しか払っていない。急場をしのぐために、彼は大事な本を売ることを思いついたようだ。そもそも、ホテルを出なければならない身にとって、大荷物は抱えておくわけにはいかない。
こうしてディランは、薄暗くなったアクエッタの街へと繰り出す。トランクを引く手ももう力が入らない。だが、歯を食いしばって必死に運んだ。今何とかしなければ、さらに苦労することになるだろう。その合理的な思考が、唯一彼の支えとなった。
しかし、廻った古本屋は月の書籍を引き取ってはくれなかった。
「あんたねえ……月の本なんか引き取れるわけないだろう! 帰ってくれ!」
店主に吐き捨てられるように言われ、ディランは本を抱えたまま、街をさまよった。本の有用性をいくら訴えても、聞く耳すら持たれない。値段がつけられないということなのだろうか。それとも、自分が月から来た人間だからであろうか。
すっかり夜になっていた。ディランは月の結界から出ずに過ごしてきたので、これが初めて経験する夜だった。しかしそれは、実に散々なものとなった。
「戻るか……」
明日はどうしようか、シプタに連絡を取ってみようか……ああ、墓参りもしなくては……そんなことを考えながら黒く沈んだ夜空を見上げた。
ホテルへの帰路、公共図書館の前を通りすがる。初めての星で、このような心細い思いをしている自分。以前に月の図書館で聞いた司書長の言葉が去来する。ルミナリアはどれだけ心細かったのだろうか。
図書館はもう閉館しているようだ。ガラスの扉越しに、内部を見ると、館内は薄暗くなっていた。
入り口の扉の脇には、小さな灯りの元に、返却用のボックスと寄贈用の箱が置かれている。
「良いものなんだがな……」と、一人呟きながら、ディランはそこへ、研究書を一冊また一冊と入れていった。誰かの役には立つかもしれない、と、そんなことを考えながら、時には開いて読んだりしながら、本との別れを惜しんだ。内容は頭の中にすべて入っているはずだが、何か、自分の体をもぎ取られるかのように物悲しい。
しかし、全部は箱に入り切らなかった。脇に置いていこうかと考えたが、一度に大量、となると迷惑になるかもしれないと思いとどまった。
「……明日にでもまた来よう」
ディランは弱々しく言うと、残りの本を抱え直し、その場を去っていった。
ありがとうござます!




