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第三十四話 ディランの受難

 管理棟へのバスを降りると、ディランは早速その「多さ」で目立つことになった。


「……これ、全部先生のですか?」

 シプタの目は点になっていた。ターンテーブルから次々と現れる荷物の山。スーツケース、トランク、――その数は、何年も他の星に留学していたシプタの荷物をはるかに上回っていた。


「あ、ああ……旅行というものが初めてでね。何があるかわからないと思って、つい……」

「いや、その、気持ちはわかるんですが……」

「まぁ、これは失態だな。シプタはあれだけか?」

 彼女を見ると、小ぶりなキャリーバッグ一つ。まさに旅慣れた人間の装いだ。

 シプタは苦笑しながら、ディランの方を向いた。

「月の人って、こんなに大荷物が普通なんですか? でも、あれ? 先生、自動翻訳機は?」

「ん? ああ、これ以上荷物が増えては大変だと思ってね。用意していない」

「……」

 絶句するシプタをよそに、彼は彼で頭を抱えていた。

「まぁ、帰りは少し、整理するか……」

 そんな他愛もない言葉を交わしながら、二人は手続所へと向かう。


 窓口で手続きをしようとするディランに、シプタは甲斐甲斐しく寄り添っていた。旅が初めてとなれば自分の出番である、彼女はそう確信していた。

「ディラン・クレセント。月からですね。職業欄は『無職』と……」

 事務員が淡々と書類を確認していく。アクエッタ語だ。ただ、他の星の出身者も手続きできるよう、自動翻訳用のマイクが机に置かれている。


「滞在の目的は?」

 事務員がそう尋ねた時、シプタが待ってましたと躍り出ようとした。が、

「墓参りです。母がアクエッタ人なもので。あと、観光を少々」

 とディランが流暢に返す。

「そうですか……滞在先はホテル、と。ありがとうございます。どうぞお通りください」

 事務員が手のひらでゲートを示すと、ディランはそこから荷物を一つ一つ、外へと運び出し始めた。


 荷物をやっと運び終えたころ、手続きを終えシプタがディランの元にやってくる。

「あ、あの……どうしてアクエッタ語話せるんですか。発音も完璧でした。あ、お母様に習ったとか?」

 シプタは訝し気にディランに尋ねた。先ほど役に立てなかったという悔しさも混じっているだろうか。しかしディランはあっけらかんと、

「いや、話せたほうが効率的だと思ってね。もちろん今も勉強中だ」

 と言い放った。 


 ◇ ◇ ◇


 空港の出口で、二人は異様な光景に出くわした。


 数十人の人間が、一つの方向を向いて座り込んでいる。プラカードを掲げた者もいれば、ただ黙って座っているだけの者もあった。彼らの表情は、いずれも厳しく、暗く、怒気に満ちていた。

「あれは……?」

 ディランが首をかしげる。


「月からの客船が到着するのを待ってるんだと思います」

 シプタが小声で答えた。


「あの人たちは……アクエッタの公害被害者の集いです。月の乱開発による公害の影響を受けた人たちの団体で。客船が着く頃を見計らって、こうして……」

「公害……」

 ディランは彼らの横顔を見つめた。その目には、何かやるせない感情が映っていた。同時に、彼の中に何かが落ちた音がした。

「月がこの星で嫌われている理由が、また一つわかった気がする」

 その呟きには、深い絶望と、自重の念が潜んでいた。



 空港を出ると、シプタとの別れの時が来る。

「では、私はこちらに向かいます。勤め先が方が迎えに来てくれたので」

 彼女は笑顔を作ろうとしたが、どこか寂しげだった。

「そうか。忙しいな」

「何かあれば、いや、何もなくても頼ってくださいね。連絡先は――」

「ありがとう。本当に。長くは滞在しないとは思うが」

「そう……ですか」

 シプタの笑顔がまた一つ沈んでいく。


「……では、お体に気をつけて。お父様に会えるといいですね」

「ああ。ありがとう」

 二人は互いに一礼し、別々の方向に歩き出した。

 シプタは何度か振り向いて、ディランの後ろ姿を見送った。しかし彼は、一度も振り返ることは無かった。


 ◇ ◇ ◇


 ホテルの一室に落ち着いたディランは、すぐに銀行への道を辿った。

 父親の手紙にあった貸金庫。それが今の彼にとって唯一の光明だった。


 銀行の扉を入ると、奥の窓口にいた初老の行員がディランを一目見て、その眉をわずかに寄せた。月の人間だと一瞬で見抜いたのだろう。対応は明らかに冷たくなった。

「貸金庫? 身分証をお見せください」

 事務的な口調。そこには何の温かみもない。

 ディランが身分証を提示すると、銀行員は書類を取り出した。貸金庫開閉の届出書だろうか。だが、その内容は全てアクエッタ語で書かれている。行員の顔が一瞬だけ、悪意のある笑みに歪む。

「代筆サービスを利用の場合は、この料金表を……」

 そう行員が言いかけた時、ディランの手がペンへと伸びる。

 そのペンは淀みなく走った。次々に書類の欄が埋められていく。あっという間に書き終わったかと思うと、

「これが戸籍謄本です。 月で、アクエッタではこれが必要になると聞いたので」

 と、ディランは封筒を一つ受付の机上に置いた。



 ――銀行員は、記された文字を見つめたまま、言葉を失っていた。

 ディランの字は美しく、完璧だった。

 それは月の人間、特に月の標準言語しか使わない人間にとって、非常に珍しい技能だ。なぜなら、月の人間は水の星アクエッタを見下している、と、少なくとも水の星の住人はそう感じていたからだ。

 この行員は、意地悪く、わざわざアクエッタ人用の書類を差し出していた。自動翻訳機が発達しようと、書くことは難しい。困り顔の一つでも見てやろうという意趣である。

 行員が再びディランを見たが、どうやら、自動翻訳機の類すら身に付けていないようだった。


 銀行員が書類を確認する。一つの間違いもない。表記も、文法も、すべてが完璧だった。


「あ……申し訳ありません」

 銀行員の態度が一変した。顔に、恥意と尊敬が混在した表情が浮かぶ。


「失礼いたしました……こちらへ」

 銀行員はディランを貸金庫スペースへ案内しながら、声のトーンを柔らかくして話を続けた。

「まさかアクエッタ語の読み書きができる月の人間に、また会うこととなるとは。アクエッタ語を話す人間に悪いやつはいない、ってのが私の考えでね……しかも書き言葉まで……」

 その声には、本当の後悔が込められていた。


「気にしていません。そちらも気にしないでださい」

「いえ。それにしても、よくぞお越しくださいました。この預け主様とは長らく連絡がつかず……」

 銀行員の表情は柔らかくなっていた。ディランへの見方が、根底から変わったようだ。

「この貸金庫もね、開かずの扉なんて言われていたんです。もうすぐ千年の期限を迎えるということで、ただ、どう処分したものか当行も難儀していたのですが。まさか、こうして引き取り手が現れるとは……」

「千年……」

 月での三年は、外では千年の月日に相当する。

父親がこの星に何を預けたのか、その理由が、今やっと解き明かされる。ディランは少し身震いしていた。

「しかし嬉しいものだ。自分の言語を学んでもらうというのはこんなに嬉しい。実に久しぶりの感覚でした」

「いえ、まだまだです」

「ふむ。確かに少し教科書的ですな。ではどうでしょう、スラングを一つ伝授しますよ」

「おお、それはありがたい」

「……オホン、では……『グッカロ』などはいかがでしょう?」

「……グッカロ? それはどういう?」

「はい。くそったれ、という意味でございます」


 貸金庫スペースに着くと、行員はディランに鍵を渡して金庫の場所を指し示し、深く頭を下げて戻っていった。

ディランは示された金庫棚のあたりを見回している。

「番号……これだな」


 鍵を持つ右手が震える。それを左手で抑え込み、そっと鍵を差し込み、回す。


 扉が開いた。


 ――しかし、中には、一枚のメモがあるだけだった。


 ディランはそれを手に取った。父親の筆跡だ。懐かしい、かつ見慣れた字。だが、そこに書かれていたのは、ディランが期待していたものではなかった。


 『サラの墓は、公共墓地の英雄の丘、28番にあり』


 それだけ。父親の居場所も、連絡先も何もない。


 ディランは重い足取りで、また受付に戻ってきた。その顔を見て行員も何かを察したかのように、

表情をそぎ落とす。

「鍵、ありがとうございました」

「いえ……ご利用ありがとうございました。後ほど延滞分の請求も――」


 銀行員の声が遠く聞こえた。ディランはメモを握りしめたまま、銀行を後にした。


 ◇ ◇ ◇


 ホテルへの帰路。


 ディランの足は、まるで他人のもののように感じられた。自分がどこを歩いているのか、もはやどうでもよかった。心はメモの文字を追い続けていた。

 母の墓の場所だけ。それだけ。

 白い箱の手がかりは、そこにはなかった。ルミナリアを救う道は、この星に転がっていなかったのだ。


 アクエッタの街並みは、ディランの視界を通り抜けるだけだった。石造りの建物も、アクエッタ語で描かれた看板も、水の都ならではの水路も、全てが霞のように感じられた。心がそこにはなく、思考だけが彷徨っていたのだ。

 路地を曲がり、また曲がり、気がつくとディランは見覚えのない街並みに迷い込んでいた。幅の狭い通路は、薄暗く、人気も少ない。ここがどこなのか、どちらがホテルなのか、そうした判断を下すことすら、もはや無意味に思えた。


 足を進める。


 ただそれだけを繰り返していた。


 メモの内容を脳裏に焼きつけ、それを必死に思い当たった。昔の記憶、父親の話、母親の面影。思いかえしては何か糸口はないか――それを考えることだけが、今のディランンに残された行為だった。その暗号めいた記述が、何を意味するのか。父親は何かを伝え、何を隠そうとしているのか――そうした問いが、渦を巻いていた。


 その時だった。


 背後から、何かが飛んできた。体への衝撃。

「!?」

 声を上げる間もなく、ディランの視界は回転した。

 次に来たのは地面に叩きつけられる痛み。そして、カバンが奪われていく音がした。


 全ては一瞬の出来事だった。


 ディランが立ち上がった時には、犯人の姿は既に闇に消えていた。彼の手には何も残されていなかった。


 財布。父親からの手紙。貸金庫のメモ。パスポート。

 アクエッタでの滞在を可能にする全てが、奪われてしまった。


 ――ディランは路地に立ち尽くしていた。


 痛む体。奪われた荷物。それすら他人事のように思えた。


「……グッカロ……まずは盗難届けと……パスポートの手続きかな」

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