Ep.4-13 夜明け
夜明けまで、あと一刻ほどだった。
雪は、いつの間にか小降りになっていた。岩場にうっすらと積もった白が、松明の明かりを受けて、ぼんやりと赤く染まっている。
隘路の出口には、夜のうちに駆けつけた者たちが、幾重にも陣を敷いていた。最前列には、傭兵団の大盾持ちが十数人。その中央に、ガレットとマルタとダード。後ろには、古参の冒険者たちの隊と、弓を持った傭兵たち。百を優に超える人数が、狭い鞍部の出口を埋めていた。
それでも、隘路の入口の向こうに並ぶ松明の数には、遠く及ばなかった。
「……静かだな」
ダードが、低く呟いた。
魔族の陣から、物音が消えていた。松明だけが、風に揺れている。夜通し聞こえていた、低い唸り声のような話し声も、武具の擦れる音も、ぴたりと止んでいた。
ローワンは、その静けさに、首筋の毛が逆立つのを感じた。
(来る)
次の瞬間、太鼓が鳴った。
一つ、二つ。腹の底に響くような重い音が、森の奥から押し寄せてくる。それに合わせて、松明の列が、一斉に動き出した。
そして、その先頭に、あの影がいた。
————————
黒ずんだ鉄の鎧が、松明の明かりを鈍く弾いていた。
周りより頭一つ高い巨体。肩に担いでいた片刃の大斧を、今は両手に握っている。その左右を固めるのは、同じように重い鎧をまとった、二十体ほどの精鋭。それが、楔のような陣形を組んで、隘路の入口へと突っ込んできた。
「盾、構えろ!」
ダードの怒声が飛ぶ。
最前列の傭兵たちが、一斉に大盾を構えた。その中央で、ガレットが欠けた大盾を地面に突き立て、肩を押し当てる。
楔の先端が、盾の壁に激突した。
轟音。
傭兵の一人が、盾ごと宙を舞った。もう一人が、膝から崩れ落ちる。楔の先頭、あの大斧の一振りが、盾の壁を紙のように引き裂いていた。
そして、その斧が、ガレットの大盾を真正面から捉えた。
「――ぐ、ぅ、おおおおっ!!」
ガレットの体が、雪の上を滑った。一歩、二歩、三歩。踵が岩を削り、膝が軋む。大盾の表面に、斧の刃が深々と食い込み、縁から中央へと、大きな亀裂が走った。
それでも、ガレットは、盾を離さなかった。
「……受けたぞ、おっさん」
血の滲む口元で、ガレットが笑った。
「〈打ち砕け、迸る礫よ――〉」
ガレットの肩越しに、レンゾの礫が撃ち出された。夜通し温存していた、最後の一撃だった。唸りを上げた礫が、大斧の主の胸板を直撃する。鈍い金属音が響き、巨体が、半歩だけ後ろへよろめいた。
だが、倒れなかった。
黒い鎧の胸に、浅い凹みが残っただけだった。兜の奥の目が、ゆっくりとレンゾを捉える。
「……化け物め」
レンゾが、膝をついた。魔力を絞り尽くした体が、もう言うことを聞かなかった。
大斧の主は、もうレンゾを見ていなかった。ひび割れた盾を構え直すガレットの脇を、巨体からは想像もつかない速さですり抜け、盾の壁の内側へと踏み込んでくる。その後ろから、楔の精鋭たちが、開いた穴へと雪崩れ込んできた。
「入られた!」
誰かの悲鳴が上がった。
————————
壁の内側は、一瞬で乱戦になった。
精鋭たちが、左右に散って、傭兵たちの背後を突く。古参の冒険者が、二体を相手に剣を振るっている。マルタのメイスが一体を叩き伏せ、ヴィートの矢が別の一体の喉を射抜く。
その中を、大斧の主は、真っ直ぐに進んでいた。
向かう先には、ダードがいた。
「……やっぱり、俺か」
ダードは、大剣を構えた。昨日の夕暮れに潰した必殺の手を、今度は自分の斧で成し遂げるつもりなのだ。
大斧が、横薙ぎに振るわれた。
ダードは、それを大剣で受けた。受けたはずだった。だが、受けた大剣ごと、体が真横に弾き飛ばされた。岩壁に背中を打ちつけ、そのまま雪の上に崩れ落ちる。
「ダードさん!」
ローワンの叫びに、ダードは片手を上げて応えた。生きている。だが、すぐには立ち上がれそうになかった。
大斧の主が、倒れたダードへと、ゆっくりと歩を進める。
その前に、エレナとローワンが、飛び込んだ。
「――させない!」
エレナの剣が、大斧の主の脇腹を狙う。だが、黒い鉄の鎧に弾かれて、火花が散っただけだった。ローワンの一太刀も、肩当てに阻まれて、腕に痺れが返ってくる。
(硬い……!)
大斧の柄が、無造作に振り払われた。エレナとローワンは、咄嗟に跳び退く。その鼻先を、重い風が唸りを上げて通り過ぎた。
ダンテの木剣を受けた時と、同じ感触だった。岩を叩いているような、どうしようもない硬さと重さ。
その背後で、精鋭の何体かが、こちらへ向かってくるのが見えた。大斧の主の加勢に来るつもりだ。
(まずい――)
前には大斧。後ろからは精鋭。挟まれる。
————————
ユリウスは、その全てを、隊の一番後ろから見ていた。
残りの魔力ポーションは、もうなかった。夜のうちに、最後の一本を飲み干している。今、体の中にあるのが、使える魔力の全てだった。
大斧の主を、止めなければならない。エレナとローワンでは、あの鎧を抜けない。止めて、隙を作らなければ。
同時に、加勢に来る精鋭も、止めなければならない。でなければ、二人が挟まれる。
足止めと、牽制。二つ。
交互に使う余裕は、ない。一つを放つ間に、もう一つの側が、二人を呑み込む。
(同時に)
六日目の夜、指の中で掻き消えた火種。二つ目を描こうとすると、一つ目の輪郭が崩れる。エレナでさえ、意識が離れてしまうと言っていた。
――だが、本当に、「見続けて」いなければならないのだろうか。
ユリウスの脳裏に、昨夜の雪の中の光景が、ふと浮かんだ。
重ねた、三つの手。一番上に置いた、自分の手。
あの時、自分は、手の下にある二人の手を、見てはいなかった。目を閉じていても、そこにあると分かっていた。重ねた手の重みと温もりを、ただ、離さずにいただけだ。
(見続ける、のではなく……離さずに、いるだけで)
ユリウスは、目を閉じた。
意識の内に、一つ目の回路を思い描く。霧の魔法。ただし、いつもの視界を遮る霧ではない。重く、粘りつき、絡みつく霧。足を取り、腕を縛り、動きそのものを沈める霧。
「――沈め」
大斧の主の足元から、白く重い霧が、湧き上がった。
霧は、地を這うように巨体の脚へと絡みつき、膝へ、腰へと這い上がっていく。大斧の主の動きが、目に見えて鈍った。泥の中を歩くように、一歩一歩が重くなる。
ユリウスは、その回路から、意識を離した。
ぼやけた輪郭を、見続けようとはしなかった。ただ、手を重ねるように、そこに置いたまま、離さずにいた。
霧は、消えなかった。
(――保てて、いる)
ユリウスは、空いた意識で、二つ目の回路を描いた。
氷槍。ただし、一本ではない。単体を貫くための槍を、組み替えて、散らす。いつか、レンゾを驚かせた時と同じ組み替え。加勢に来る精鋭たちの足元を、まとめて縫い止めるための形。
「――散れ」
ユリウスの杖の先から、無数の氷の礫が、扇状に撃ち出された。
迫ってきていた精鋭たちの足元に、氷の槍が次々と突き立つ。足を貫かれた者、氷に足を縫い止められた者、慌てて跳び退いた者。加勢の列が、一瞬で乱れた。
その間も、大斧の主の足元の霧は、消えていなかった。
二つの魔法が、同時に、そこにあった。
「……ユーリ」
振り返ったエレナが、息を呑んだ。
ユリウスの額から、汗が滝のように流れ落ちていた。鼻から、一筋の血が伝っている。それでも、杖を握るその手は、少しも揺れていなかった。
「今です」
掠れた声だった。
「長くは、持ちません」
————————
大斧の主が、吼えた。
霧に脚を絡め取られ、加勢の精鋭たちも氷に縫い止められている。前へ進めない。後ろからの助けも来ない。苛立ちが、その巨体から、熱のように噴き出していた。
兜の奥の目が、一番近くにいた者を捉えた。
エレナだった。
大斧が、横から振るわれた。脚が使えない分、上体だけを捻った、力任せの大振り。それでも、その一撃には、人一人を真っ二つにするだけの重さがあった。
エレナの足元は、雪だった。跳び退くには、間に合わない。屈むには、低すぎる。
(だったら――)
エレナの足が、宙を踏んだ。
光の板が、雪の上、膝の高さに浮かぶ。蹴る。一段。描いた回路を、崩さずに残したまま、そこへ魔力を流し直して――二段。
大斧が、さっきまでエレナの胴があった空間を、唸りを上げて通り過ぎた。
三段目。
ダンテとの手合わせでは、ここで崩れた。剣に意識を向けた瞬間に、足元が消えた。
今度は、崩れなかった。
手のひらの中の剣を、エレナは意識していなかった。足元の回路も、意識していなかった。ただ、そこにあると知っていた。二月の夜から、灯しては消し、消しては灯し続けた、あの小さな火のように。
四段目。巨体の頭上を、エレナの体が越えていく。
大斧の主の兜が、エレナを追って、上を向いた。だが、霧に絡め取られた体は、それ以上振り向けなかった。
エレナは、巨体の背後に、音もなく降り立った。
黒い鉄の鎧。どこを斬っても、刃は通らない。
――ただ一箇所を除いて。
兜と、背中の鎧の継ぎ目。首の後ろの、指二本分ほどの隙間。上を向いた兜のせいで、その隙間が、わずかに広がっていた。
腰を落とす。
捻る。
腕は、後からついてくる。
『最後に敵を斬るのは、腰の入った一太刀だ』
父の形見のショートソードが、夜明け前の薄闇を、一筋の光となって走った。
刃は、隙間に、吸い込まれるように入った。
手応えがあった。骨の手前を抜けて、深く。
巨体が、びくりと痙攣した。
――終わった。
そう思った、その瞬間だった。
大斧の主の体が、軋むような音を立てて、捻じれた。脚を絡め取っていた霧が、薄れ始めている。ユリウスの限界が近いのだ。首の後ろに刃を呑んだまま、巨体は、残った全ての力を両腕に集めて、大斧を振り上げていた。
背後のエレナを、道連れにするために。
(――抜けない!)
エレナは、剣を引いた。動かなかった。鎧の継ぎ目と、骨と肉とに、刃ががっちりと噛み込まれている。もう一度引く。びくともしない。
大斧が、振り下ろされてくる。
剣を手放して、跳ぶか。間に合わない。足元は、降り立ったばかりの雪だ。屈むには、近すぎる。
時間が、引き伸ばされたように遅くなった。
振り下ろされる斧の刃。その向こうの、白み始めた空。そして、自分の意識の内に、まだ残っているもの。
頭上を越えるために描いた、足場の回路。四段目を蹴った後も、崩さずに、手を重ねるように、そこに置いたままだった回路。
(足場って――)
足の裏で、重みを受け止める板。上から来るものを、下で支える板。
(――向きを、変えたら)
考えるより先に、意識が動いていた。
残しておいた回路に、魔力を流し直す。ただし、足元にではなく。床として寝かせるのではなく、壁として立てるように。上から来る重みを、下で支えるのではなく、前から来る重みを、正面で受け止めるように。
エレナと大斧の間に、淡く光る板が、縦に立ち上がった。
大斧が、その板を叩いた。
硬く、甲高い音が、隘路に響き渡った。光の板に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。衝撃が板を通して、エレナの全身を打った。足が雪の上を滑り、体が後ろへ弾き飛ばされる。
それでも、板は、砕けなかった。
斧の刃は、エレナの体に、届かなかった。
雪の上に背中から転がったエレナの目の前で、大斧の主の腕から、力が抜けていった。振り上げた斧の重みに引かれるように、巨体がよろめく。首の後ろに、エレナの剣を突き立てたまま。
大斧が、雪の上に落ちた。重い音がした。続いて、黒い鉄の巨体が、前のめりに、ゆっくりと崩れ落ちていった。
光の板が、ふっと、溶けるように消えた。
(……盾)
雪の上に仰向けになったまま、エレナは、荒い息の中で、ぼんやりと思った。
一月の訓練場で、ロレンツォが言っていた。『足場でも盾でも、同じことができる』。盾って何、と聞いた自分に、彼は答えなかった。足場で回路の使い回しができるようになったらな、と。
(こういう、ことだったんだ)
————————
誰もが、動きを止めていた。
精鋭たちも、傭兵たちも、冒険者たちも。雪の上に倒れた黒い巨体と、その傍らでゆっくりと身を起こす、小柄なハーフエルフの少女を、呆然と見つめていた。
その静寂を破ったのは、遠くから響く、角笛の音だった。
一つではなかった。いくつもの角笛が、尾根の東の斜面、魔族の陣の背後から、一斉に鳴り響いた。続いて、大地を揺らすような蹄の音。鬨の声。
「――騎兵だ!」
古参の冒険者が、叫んだ。
「シルヴィオの騎兵が、裏に回ったぞ!」
東の空が、白み始めていた。夜明けだった。
頭を失い、背後を突かれた魔族の陣が、目に見えて崩れていった。隘路の内側に入り込んでいた精鋭たちが、我先にと入口へ逃げ戻ろうとする。だが、その先にも、もう逃げ場はなかった。
「押し返せ! 今だ!」
雪の上から身を起こしたダードが、大剣を杖代わりに立ち上がりながら、怒鳴った。
その声に応えるように、傭兵たちが、冒険者たちが、一斉に前へ出た。
————————
それから先のことを、エレナは、あまりよく覚えていない。
倒れた巨体の首から、父の形見の剣を、ローワンと二人がかりで引き抜いたことだけは、なぜか、はっきりと覚えている。
ただ、気がついた時には、陽が昇りきっていて、隘路の入口の向こうには、もう動く魔族の姿はなかった。森の奥から、騎兵たちの勝鬨が、途切れ途切れに聞こえてくるだけだった。
雪の上に、エレナは座り込んでいた。
「エレナ!」
ローワンが、駆け寄ってきた。左腕の包帯が、血で赤く染まっている。昨夜の傷が開いたのだろう。それでも、その顔は、泣き笑いのような顔をしていた。
「ローワン……」
「すごかったよ、エレナ。今の、足場。最後まで、崩れなかった」
「……うん。崩れなかった」
エレナは、自分の手のひらを見下ろした。まだ、少し震えていた。
「ユーリは」
二人が振り返ると、ユリウスは、隘路の一番後ろで、岩に背を預けて座り込んでいた。顔は紙のように白く、鼻の下には乾いた血の跡がこびりついている。杖を膝の上に横たえたまま、目を閉じていた。
「ユーリ!」
駆け寄ったエレナに、ユリウスは、ゆっくりと目を開けた。
「……大丈夫です。魔力を、使い果たしただけです」
声は、ひどく掠れていた。それでも、その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
「二つ、同時に。……できました」
「うん。見てた」
エレナが、ユリウスの手を握った。冷たい手だった。ローワンも、その上から、自分の手を重ねた。
「どうやったの?」
「……あなた方のおかげ、です」
ユリウスは、重ねられた二つの手を見下ろして、少しだけ笑った。
「見続けなくても、いいんだと。手を重ねた時のように……そこにあると知って、離さずにいれば、いいんだと」
エレナとローワンは、顔を見合わせた。意味は、半分も分からなかった。それでも、昨夜の雪の中で重ねた手のことを言っているのだと、それだけは分かった。
少し離れた場所では、ガレットが、真っ二つに割れた大盾を前に、力なく座り込んでいた。その隣で、レンゾが、ガレットの外套に包まれたまま、雪の上に大の字に倒れている。
「……盾、割れちまった」
「お前が割れなかっただけで、上出来だ」
レンゾが、目を閉じたまま言った。
「……おっさん、今の、褒めたのか?」
「おっさんではない」
ダードは、岩壁に背を預けて座り込み、マルタに肩の傷を縛ってもらっていた。ヴィートが、その傍らで、黙って空になった矢筒に目を落としている。
古参の冒険者が、雪を踏んで、エレナたちのところへやってきた。顔は傷だらけで、片方の袖が千切れていたが、その目は、子供のように輝いていた。
「嬢ちゃん」
「おじさん……」
「半分で我慢するって、言ってなかったか?」
にやりと笑うその顔に、エレナは、一瞬きょとんとしてから、泣きそうな顔で笑った。
「……ごめん。半分、超えちゃったかも」
「いいさ」
古参の冒険者は、雪の上に倒れた黒い巨体を見やって、深く息をついた。
「最後に、いいもんを見せてもらった。……あの人の背中に、そっくりだったよ」
エレナは、何も言えなかった。ただ、膝の上で、父の形見の剣の柄を、ぎゅっと握りしめた。
東の空から、朝の光が、雪の積もった尾根を照らしていた。白い光が、隘路の岩壁を、倒れた者たちを、立ち上がろうとする者たちを、等しく照らしていた。
エレナは、ローワンとユリウスの顔を、もう一度見た。
二人とも、ぼろぼろだった。自分も、きっとそうだ。
それでも。
(生きてる)
三人とも、生きていた。
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