Ep.4-12 間に合え
陽が、尾根の向こうに沈みかけていた。
隘路の入口の先、木々の間に、魔族の列が並び直している。先ほどまでとは、並び方が違った。前列には大盾を構えた重装の者たち。その後ろに、長槍を立てた者たち。さらに奥、木々の陰に紛れるように、軽装の影がいくつか、ゆっくりと左右に散っていくのが見えた。
「水を飲んどけ。今のうちだ」
ダードの声に、八人はそれぞれ水筒を口に運んだ。誰も喋らなかった。荒い息だけが、岩壁の間に低く響いている。
ユリウスは、腰の小瓶の栓を抜き、中身を一息に呷った。魔力ポーション特有の、舌に残る苦味。それでも、空になりかけていた体の奥に、じわりと熱が戻ってくる。
「残りは」
「あと二本です」
ダードの問いに、ユリウスは短く答えた。それが何を意味するのか、ダードもよく分かっているようだった。
「レンゾ、お前は」
「一本。……それと、気合いだな」
眼鏡の奥で、レンゾが自嘲気味に口の端を上げた。その頬は、ひどく青白かった。
————————
ローワンは、水筒を握ったまま、隘路の入口の向こうをじっと見つめていた。
並び直した魔族の列。前に出てくる重装の盾。左右に散っていく軽装の影。
何かが、引っかかった。
(……前にも、見たことがある)
去年の秋の森。四十余りの別動隊と押し合った、あの戦い。数で勝る敵が、なぜか一気には押し込んでこなかった。絶妙な線で、拮抗を保ち続けた。そして――
正面の列が、一瞬だけ緩んだ。こちらの目を引くように。その隙に、横合いから、低く、速く、指揮を執るフィンへと殺到した。
ローワンの喉が、ひくりと鳴った。
「ダードさん」
自分の声が、思ったよりも落ち着いていることに、ローワンは少しだけ驚いた。
「さっき、あの鎧の大きいのが、ダードさんを見てました」
「私も見た」
エレナが、すぐに言葉を添えた。
「……ああ」
「それと、左右に散っていった軽い奴ら。たぶん、また壁を登ってきます。でも、さっきみたいに後ろの魔法使いを狙うんじゃなくて」
ローワンは、一度、唾を飲み込んだ。
「ダードさんを狙ってくると思います。正面で押し合って、ダードさんが前に気を取られた瞬間に、横から。……去年、フィンがやられた時と、同じ手です」
隊の空気が、凍りついた。
マルタが、ガレットが、レンゾが、ローワンを見た。エレナは、唇を噛んで、黙ってローワンの横顔を見つめていた。
「確信は」
ダードが、静かに尋ねた。
「……七割、くらいです」
ダードは、しばらくローワンの顔を見ていた。それから、ふっと短く息を吐いた。
「なら、十分だ」
————————
ダードは、隊の面々を手早く集めた。
「いいか。俺は、あえてこれまで通り前に立つ。向こうに、俺が前に気を取られてると思わせる。……ローワン。お前は、俺の右後ろにつけ。壁から何か降ってきたら、俺に何も言わずに、迷わず斬れ。俺が気づいてからじゃ遅え」
「はい」
「エレナ。お前はローワンの左だ。二人で、俺の背中を守れ」
「うん」
「ヴィート、お前は弓で、壁の上だけを見てろ。正面は撃たなくていい」
ヴィートが、無言で弓を握り直した。
「マルタ、ガレット。前は、二人で俺の分まで持たせろ。俺は前に立つふりをするが、本当に前を支えるのは、お前らだ」
「任せな」
「……おう」
ガレットが、欠けた大盾を構え直した。
「レンゾ、ユリウス。正面の列を削れ。ただし、魔力は残せ。本当にでかいのは、まだ後に来る」
ダードは、一人一人に目を合わせてから、最後にローワンへと視線を戻した。
「坊主。指示は、お前が出せ。俺の背中で何が起きてるかは、お前の目の方が先に気づく。俺も、お前の声に従う」
ローワンは、一瞬、言葉を失った。B級の、自分たちのメンターだった人が、自分の声に従う、と言っている。
「……はい」
答えた声は、いつもの、控えめで少したどたどしい声だった。それでも、震えてはいなかった。
————————
陽が落ちきる直前、魔族の鬨の声が、再び森を揺らした。
重装の列が、盾を揃えて隘路へと踏み込んでくる。先ほどよりも遅く、重く、確実な足取りだった。ガレットとマルタが、その最前列を受け止める。盾と盾がぶつかる鈍い音が、岩壁に反響した。
ダードは、その二人の間に立ち、大剣を振るった。いつもと同じように、前だけを見ているように。
ローワンは、その右後ろで、息を殺していた。
正面の押し合いは、一見、先ほどと変わらない。こちらが押されれば、向こうも押される。どちらも崩れない。じりじりとした、拮抗。
――拮抗。
(来る)
ローワンは、目だけを動かして、左右の岩壁の上を見た。夕闇が、壁の輪郭を溶かし始めている。ヴィートの弓が、その上を、ゆっくりと左右に舐めている。
正面の列が、ふっと緩んだ。
最前列の盾が、示し合わせたように半歩下がる。押し合っていたガレットの体が、わずかに前へ泳いだ。ダードの視線が、反射的に、その空いた空間へと向く。
その瞬間だった。
右の岩壁の上、夕闇の溶けた輪郭の中から、四つの影が、音もなく落ちてきた。
「――右! 今!」
ローワンの声が、隘路に響いた。
ダードは振り返らなかった。言われた通り、何も確かめずに、半歩、左へと身を引いた。
ダードが立っていた空間に、四つの影が着地した。低く構えた短い刃が、ダードの背中があったはずの場所を、空しく薙ぐ。
そこへ、ローワンの剣が飛び込んだ。
腰を落とす。捻る。夏の間、何千回と繰り返した一太刀が、着地したばかりの一体の脇腹を、深々と斬り裂いた。
「エレナ、奥の二体!」
「分かってる!」
ローワンの左から、エレナが滑り込む。父の形見のショートソードが、二体目の喉元を正確に捉えた。返す刃で、三体目の刃を弾く。
四体目が、ローワンの横から飛びかかってきた。剣を引き戻す暇はない。ローワンは、咄嗟に左手のダガーを逆手に構え、その刃を受け止めた。重い。腕が軋む。
「――っ!」
刃の先が、ローワンの左腕を浅く掠めた。熱い痛みが走る。それでも、ダガーを離さなかった。
次の瞬間、四体目の頭が、横合いから飛来した矢に射抜かれて、がくりと傾いだ。ヴィートだった。
最後に残った三体目を、エレナとローワンが、二人がかりで斬り伏せる。
全てが終わるまで、十数える間もなかった。
「……右壁、四体。全部、倒しました」
ローワンが、荒い息の中で報告した。左腕から、血が一筋、指先へと伝っていく。
正面の列が、明らかに動揺していた。必殺の一手が、何の成果も上げずに潰えたのだ。緩んでいた列が、慌てたように盾を構え直す。
その隙を、ガレットとマルタは見逃さなかった。
「おらあっ!」
ガレットの大盾が、浮き足立った最前列を押し返す。マルタのメイスがその頭を叩き割り、ダードの大剣が、今度こそ本当に前を向いて、二体まとめて薙ぎ払った。
「〈打ち砕け、迸る礫よ――〉」
「――貫け」
レンゾの礫と、ユリウスの氷槍が、交互に列の中央を穿つ。崩れた陣形の穴に、さらに矢が降り注いだ。
やがて、魔族の列は、再び隘路の入口の向こうへと、退いていった。
————————
夜の帳が、尾根を覆った。
隘路の入口の向こうでは、魔族たちが松明を灯し始めていた。その数が、闇の中に点々と、木々の奥へと続いている。まるで、森そのものが燃えているようだった。
「腕、見せて」
岩陰に座り込んだローワンの隣に、エレナがしゃがみ込んだ。ローワンが袖をまくると、左の前腕に、浅いが長い切り傷が走っていた。
「浅いね。……でも、ちゃんと洗わなきゃ」
エレナは、水筒の水で傷口を洗い、荷物から取り出した消毒薬を染み込ませた布で拭った。ローワンが、小さく顔をしかめる。包帯を巻く手つきは、思いのほか慣れていた。
「ロゼさんに、包帯の替え入れとけって言われたの、正解だったね」
「火打ち石もね」
「それはまだ使ってないけど」
小さく笑い合ってから、エレナは、包帯を巻き終えたローワンの腕を、両手でそっと握った。
「……ありがとう、ローワン」
「何が?」
「ダードさんのこと。……去年、フィンの時、私、何もできなかった。気づいた時には、もう遅かった」
エレナの声が、少しだけ震えた。
「今日は、間に合ったね」
ローワンは、すぐには答えなかった。焚き火のない暗がりの中で、隘路の向こうの松明の列を、じっと見つめていた。
「……フィンが、教えてくれたんだと思う」
ぽつりと、ローワンは言った。
「あの時、フィンが何をされたのか、ずっと頭から離れなかった。どうして気づけなかったんだろうって、何回も考えた。……だから、今日は、気づけた」
それ以上は、二人とも、何も言わなかった。
少し離れた岩陰で、ダードがその様子を見ていた。何かを言いかけて、結局、何も言わずに、手の中の干し肉を噛みちぎった。
その目元が、夜の闇に紛れて、かすかに光った気がした。
————————
隘路の出口に近い岩陰では、ガレットが、欠けた大盾を膝に乗せて座り込んでいた。
その隣で、レンゾが岩に背を預け、目を閉じている。眠っているわけではなかった。青白い顔のまま、浅い呼吸を繰り返している。魔力を使い果たしかけた魔法使いの、典型的な顔色だった。
ガレットは、しばらく黙ってその横顔を見ていたが、やがて、自分の外套を脱いで、レンゾの肩に乱暴に被せた。
「……何の真似だ」
目を閉じたまま、レンゾが言った。
「寒そうだったからよ。魔法使いってのは、魔力が減ると体まで冷えるんだろ。前にユリウスがそう言ってた」
「余計な世話だ」
「じゃあ返せよ」
「…………」
レンゾは、外套を返さなかった。代わりに、その襟元を、ほんの少しだけ引き寄せた。
「……盾は、まだ使えるのか」
「縁が欠けただけだ。真ん中は、まだ受けられる」
「なら、いい」
レンゾは、目を開けて、隘路の入口の松明の列を眺めた。
「次は、あの斧が来る。あれを受けられるのは、この隊ではお前の盾だけだ」
「分かってる」
「……分かっているなら、いい」
それきり、二人は何も言わなかった。外套一枚分の距離を空けて、並んで座ったまま、夜明けを待っていた。
————————
夜が更けた頃、隘路の後方、本陣側の斜面から、いくつもの足音が登ってきた。
「――味方だ!」
ヴィートの短い声に、隊の面々が一斉に振り返る。
松明を掲げた一団が、息を切らしながら斜面を駆け上がってきた。その先頭にいたのは、白髪交じりの、見覚えのある顔だった。
「よう、嬢ちゃん! 生きてたか!」
野営地で伝説論争を繰り広げていた、あの古参の冒険者だった。後ろには、彼の隊の面々と、さらに別の二つの隊が続いている。
「おじさん!」
エレナが、思わず声を上げた。
「角笛が聞こえたからな、近くの三隊でまとめて駆けつけた。……で、どうだ。功績は、まだ半分残ってるか?」
にやりと笑うその顔に、エレナは、一瞬きょとんとしてから、吹き出した。
「……半分どころか、まだ全然手つかずだよ。向こうに、山ほど残ってる」
「そいつは重畳だ」
古参の冒険者は、隘路の入口の向こうの松明の列を眺めて、ひゅう、と口笛を吹いた。
「こりゃまた、えらく取り放題だな」
その軽口に、張り詰めていた隊の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
さらに半刻ほどして、今度は、傭兵団の旗を掲げた一隊が登ってきた。百名近い大所帯だった。その隊長らしい髭面の男が、ダードのところへ大股で歩み寄る。
「お前がここの隊長か。よく持たせたな。……隣の尾根から見てたが、あの松明の数。千五百はいるぞ」
「千五百……」
ダードが、低く繰り返した。それが、自分たち八人が、日暮れまで押し留めていたものの数だった。
さらに、本陣へ走らせた若い傭兵の一人が、肩で息をしながら戻ってきた。
「隊長! シルヴィオ殿からの伝言です!」
若い傭兵は、懸命に息を整えてから、一言一句を確かめるように口にした。
「『夜明けまで、隘路を守れ。夜明けとともに、本陣より騎兵を東の尾根の裏へ回す。挟み撃ちにする。それまでは、決して退くな。……諸君の働きに、感謝する』」
隊の誰もが、黙ってその言葉を聞いていた。
夜明けまで。
あと、半夜。
————————
その夜、尾根に、初めての雪が舞った。
最初は、暗闇の中に、白いものがちらちらと浮かぶだけだった。やがて、それは静かに数を増し、岩場の上に、うっすらと白い膜を張り始めた。
「雪……」
エレナが、手のひらを差し出した。落ちてきた一片が、手袋の上で、すぐに溶けて消える。
「戦が止まる合図、ですね」
隣で、ユリウスが言った。その声は、ひどく疲れていた。
「でも、止まる前に、もう一回あるんだよね」
「ええ。……おそらく、次が最後です」
ユリウスは、隘路の入口の向こうに目を向けた。松明の列の中、ひときわ大きな影が、焚き火の前に立っている。黒ずんだ鉄の鎧。肩に担いだ、巨大な片刃の斧。
「必殺の手を潰されて、頭が出てこないはずがありません。……夜明けの前に、あれが来ます」
エレナは、何も言わずに、その影を見つめていた。
(同時に保てれば)
ユリウスは、自分の手のひらに目を落とした。六日目の夜、指の中で掻き消えた火種。今日の昼、二つの魔法を交互に使い分けるたびに、確実に削られていった魔力。
残りの魔力ポーションは、二本。
(次は、交互では、きっと持たない)
雪を踏む足音がして、ローワンが二人の隣にやってきた。包帯を巻いた左腕を、外套の下にかばうようにしている。
「見張り、交代してきた。……二人とも、少しは寝た方がいいよ」
「ローワンこそ」
エレナはそう言ってから、ふと、二人の顔を交互に見た。
雪明かりに浮かぶローワンの顔は、疲れていて、それでもどこか落ち着いていた。ユリウスの顔は、青白く、それでも目だけは、まだ光を失っていなかった。
去年の冬、この二人のどちらかが、フィンのようになっていたかもしれない。明日の朝、そうならないという保証は、どこにもない。
「ねえ、二人とも」
エレナは、手袋をはめた左手を、二人の間に差し出した。手のひらを下に向けて。
「約束しよ」
ローワンとユリウスが、顔を見合わせた。
「絶対、生きて帰るよ。三人で」
いつもの軽い調子ではなかった。一言一言を、確かめるように。
「帰って、ロゼさんのシチュー食べるの。根菜がごろごろ入ってるやつ。アルドさんのパンも。それから、ユーリは学園に行って、ローワンは厨房でパン運んで、私は借金返して。……全部、ちゃんとやるんだから」
ローワンが、包帯を巻いた左手を、エレナの手の上に重ねた。
「うん。絶対」
短い返事だった。けれど、その手は、エレナの手をしっかりと押さえていた。
ユリウスは、少しの間、重なった二つの手を見下ろしていた。それから、杖を左手に持ち替え、空いた右手を、一番上にそっと置いた。
「必ず。……エレナの借金がちゃんと減っていくのを見届けないと、学園でも落ち着いて勉強できそうにありませんから」
「そこ?」
エレナが、思わず吹き出した。ローワンも、肩を揺らして笑う。ユリウスは、澄ました顔のまま、それでも、重ねた手を離そうとはしなかった。
三つの手の上に、雪が一片、舞い降りて、すぐに溶けた。
「……約束だよ」
「うん」
「ええ」
雪が、音もなく降り続けていた。夜明けまでは、まだ遠かった。
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