Ep.4-11 隘路
尾根の岩場に駆け戻ったローワンとヴィートの顔を見て、ダードは何も聞かずに立ち上がった。
「何があった」
「東の斜面に、足跡を消した跡があります。尾根に向かって、点々と。それと、鳥が一羽も鳴いてません」
息を切らしながらのローワンの報告に、ダードはヴィートへと視線を移した。寡黙な弓使いは、短く一言だけ添えた。
「……確かだ」
それで十分だった。
「全員、得物を取れ。声は出すな」
隊の空気が、一瞬で張り詰めた。昼食の準備をしていたマルタが、黙って鍋を火から下ろす。ガレットが大盾を背負い、レンゾが杖を握り直す。エレナは黒塗りの弓を背から外して右手に握り、ユリウスは手帳を閉じて懐にしまった。
「ヴィート、ローワン。もう一度だけ見てこい。今度は上からだ。数と向きを確かめたら、すぐ戻れ。絶対に見つかるな」
「はい」
「マルタ、狼煙と角笛の用意。合図するまで、絶対に上げるな」
「あいよ」
ダードの指示は短く、迷いがなかった。
————————
尾根の東側に張り出した岩棚に、ローワンとヴィートは腹這いになって身を潜めた。
眼下には、斜面を覆う木々の海が広がっている。風に揺れる枝葉の間を、ローワンは目を凝らして探った。
最初は、何も見えなかった。
だが、しばらく見つめているうちに、木々の間の暗がりが、ゆっくりと動いていることに気づいた。一つではない。二つでも、三つでもない。木立の奥から奥へと、途切れることなく、何かが這い上がってくる。
(……人の、列)
いや、人ではなかった。
木漏れ日の中に、一瞬だけ姿が浮かんだ。粗く鞣した革を継ぎ接ぎした衣。肩から瘤のように盛り上がった肉塊。人とは違う角度に曲がった関節。去年の秋、森の中で見たものと同じ姿だった。
ただ、あの時とは、数が違った。
ローワンは、無意識に数え始めていた。木々の切れ間を横切る影を、一つずつ。十、二十、五十。百を越えたところで、数えるのをやめた。列の終わりが、見えなかった。
「ヴィートさん……」
声が震えるのを、止められなかった。
「百じゃ、ききません。……千、か、それ以上……」
ヴィートは、何も言わなかった。ただ、弓を握る指の関節が、白くなるほど力が込められていた。
列の中ほどに、ひときわ大きな影があった。周りの魔族より頭一つ高い。全身を、黒ずんだ鉄の板を重ねたような鎧で覆い、肩には巨大な片刃の斧を担いでいる。その周りだけ、列の動きが妙に整然としていた。
「……あれが、頭だ」
ヴィートが、初めて口を開いた。
「戻るぞ」
————————
岩場に戻った二人の報告を聞き終えた時、隊の誰も、すぐには口を開かなかった。
「千以上……」
ガレットが、掠れた声で呟いた。去年の秋、増援と合わせた三十名足らずで四十余りの別動隊を相手にした時ですら、あれほどの犠牲を払った。その何十倍という数が、今、この斜面を登ってきている。
「士官殿の言ってた、最悪の方だな」
ダードが、低く言った。
助攻を出す素振りだけ見せて、こちらに警戒させるか。少数の助攻で兵を縛るか。それとも、逆を突いて、一昨年を上回る規模の助攻を送り込んでくるか。この春、支部長室で聞かされた読み合いの答えが、今、目の前にあった。
「向きは」
「真っ直ぐ、この尾根に向かってます。たぶん、ここを越えて、本陣の裏に出るつもりです」
ローワンが答えると、ダードは地図を広げた。尾根の西側、本陣へと下る斜面の途中に、指を置く。
「ここだ」
尾根の頂から少し西へ下ったところに、両側を切り立った岩壁に挟まれた、細い鞍部があった。尾根を越えて本陣側へ抜けるには、どうしてもそこを通らなければならない。
「この隘路なら、一度に通れるのは、せいぜい三人か四人だ。千だろうが二千だろうが、ここでは数の差が意味をなさなくなる」
「ここで、止めるんですか」
ユリウスが尋ねた。その声は、いつもより僅かに硬かった。
「止める。応援が来るまでな」
ダードは、全員の顔を見回した。
「狼煙を上げれば、近くの隊が駆けつける。本陣にも伝わる。シルヴィオなら、必ず何か手を打つ。……それまで、ここを抜かせなけりゃ、俺たちの勝ちだ」
誰も、反論しなかった。
ほんの短い間、隊の面々は、それぞれの得物を確かめた。
エレナは、矢筒の中の矢を指で数えた。ローワンは、ダガーの留め具を締め直した。ユリウスは、杖の先をじっと見つめていた。
「……ねえ」
エレナが、小さな声で言った。
「去年さ、森で四十を相手にした時、私、怖くて手が震えてた。今も、ちょっと震えてる」
自分の左手を、ローワンとユリウスに見せる。ローワンに貰った革の手袋に包まれたその手は、確かにかすかに揺れていた。
「僕もだよ」
ローワンが、自分の手を差し出した。同じように、震えていた。
「私もです」
ユリウスは、手を見せる代わりに、杖を握る指先に、ほんの少しだけ力を込めた。
「……でも、先走らない。勝手に死なない。三人で帰る」
エレナが、一つずつ確かめるように言った。初陣の夜に決めたこと。この春、ロゼッタと約束したこと。
「うん」
「ええ」
それだけで、三人の手の震えが、少しだけ収まった気がした。
「おい、そこの二人」
ダードが、預かりの若い傭兵二人に顎をしゃくった。
「お前らは本陣へ走れ。東の尾根に、千を超える助攻。頭は鎧の大斧。そう伝えろ。一言一句、間違えるなよ」
「は、はいっ!」
二人が、転がるように斜面を駆け下りていく。その背中を見送ってから、ダードはマルタに頷いた。
「上げろ」
————————
尾根の上に、黒い狼煙が高く立ち上った。
続いて、マルタの吹く角笛が、森じゅうに響き渡る。長く、二度。去年の訓練で叩き込まれた、敵発見の合図だった。
その音が、斜面の下の木々の海に吸い込まれていく。
一瞬の、静寂があった。
それから――森が、吼えた。
斜面の下から、地鳴りのような鬨の声が沸き上がった。もう隠れる必要はないと悟った魔族の群れが、一斉に動き出したのだ。木々の間から、枝を折り、落ち葉を蹴散らす音が、波のように押し寄せてくる。
「来るぞ! 隘路まで下がれ!」
ダードの号令とともに、八人は尾根の西側へと駆け下りた。
鞍部の入口は、思っていたよりもさらに狭かった。左右から迫る岩壁の間に、細い獣道が一本通っているだけだ。その出口側、少し開けた場所に、八人は陣を敷いた。
「前は、俺とマルタとガレット。三人で道を塞ぐ。ローワンは、その後ろで、抜けてきた奴を斬れ。ヴィートとエレナは、弓で入口を狙え。抜けてくる奴が増えたら、エレナも剣に持ち替えて前に出ろ。レンゾとユリウスは、一番後ろだ。でかいのを頼む」
ダードは、大剣を抜き放ちながら、最後にガレットへ目を向けた。
「ガレット。お前の盾が、この隊の壁だ。いいな」
「……おう」
ガレットは、大盾の取っ手を握り直した。その手が、かすかに震えている。だが、足は一歩も退いていなかった。
「おっさん」
背後のレンゾに、ガレットが振り返らずに声をかけた。
「俺の後ろから、絶対に動くなよ」
「……誰に向かって言っている」
レンゾは、眼鏡を指で押し上げた。
「お前こそ、俺の詠唱が終わる前に倒れるなよ。盾が倒れたら、俺は死ぬ」
「上等だ」
————————
最初に姿を現したのは、身軽な先触れの一団だった。
十体ほど。軽装で、短い得物を手にしている。隘路の入口に飛び込んでくるなり、こちらの陣を見て、一瞬だけ足を止めた。
その一瞬を、エレナは逃さなかった。
弦が鳴る。先頭の一体の喉を、矢が正確に射抜いた。続けざまに二の矢、三の矢。ヴィートの矢も、それに重なる。崩れ落ちる仲間を飛び越えて、残りが一斉に突っ込んできた。
「来いやあっ!」
ガレットの大盾が、先頭の一体を真正面から受け止めた。鈍い衝撃音。押し返された魔族がよろめいたところを、マルタのメイスが横から叩き潰す。ダードの大剣が、その隣で唸りを上げた。
「――凍てつけ」
ユリウスの一言とともに、隘路の入口の地面に、白い霜が走った。足を取られた二体が、つんのめるように転ぶ。そこへ、ローワンが踏み込んだ。
腰を落とす。捻る。腕は、後からついてくる。
夏の間、何千回と振り続けた一太刀が、魔族の肩口から胸にかけてを、深々と斬り裂いた。
「……っ!」
手応えに、ローワン自身が息を呑んだ。半年前の自分なら、刃が骨で止まっていたはずだった。
「いいぞ、坊主!」
ダードの声が飛ぶ。ローワンは返事をする代わりに、次の敵へと剣を向け直した。
先触れの一団は、ほどなくして全て地に伏した。
だが、誰も、息をつく暇はなかった。
隘路の入口の向こう、木々の間から、本隊が姿を現し始めていた。
先触れとは、まるで違った。重い鎧に、長い槍と大きな盾。一体一体が、鍛え抜かれた戦士の体躯をしている。それが、隘路の幅いっぱいに、隙間なく並んで、ゆっくりと前へ出てくる。その後ろにも、そのまた後ろにも、列は途切れずに続いていた。
「……精鋭ばっかりかよ」
マルタが、珍しく笑みを消して呟いた。
「〈打ち砕け、迸る礫よ――〉」
レンゾの詠唱が、背後で始まる。
最前列の魔族が、盾を構えて一斉に踏み込んできた。ガレットの大盾が、それを受け止める。一枚、二枚、三枚。押し寄せる盾の圧力に、ガレットの踵が、じりじりと地面を削った。
「ぐ……っ、おおおっ!」
それでも、退かなかった。盾を構えたまま、ほんのわずかに体を傾ける。背後のレンゾから、敵の列の中央までの射線が、一筋だけ開いた。
詠唱の後半が、レンゾの頭の中で結ばれる。
次の瞬間、唸りを上げた礫が、ガレットの肩越しに撃ち出された。最前列の盾を打ち砕き、その後ろの二体、三体をまとめて薙ぎ倒す。隘路に、鈍い破砕音が響き渡った。
「――盾を引くタイミングが、ようやく合ったな」
レンゾが、ぼそりと言った。
「覚えてんだよ、何回言われたと思ってんだ!」
ガレットが、盾越しに怒鳴り返した。
崩れた列の穴を、後ろの魔族がすぐに埋めていく。倒しても、倒しても、隘路の向こうから新手が押し寄せてくる。
「――上だ!」
ヴィートの鋭い声が飛んだ。
見上げると、隘路の左右の岩壁を、身軽な魔族が数体、蜘蛛のように這い上がっていた。正面の列が押し合っている間に、壁を越えて、こちらの背後に回り込むつもりだ。
「エレナ!」
「分かってる!」
エレナは弓を背に回し、腰の剣を抜き放った。父の形見のショートソードが、木漏れ日を鈍く弾く。
岩壁の上から、一体が飛び降りてきた。狙いは、一番後ろの魔法使い二人。エレナは、その着地点へと走り込んだ。右隣に、いつの間にかローワンが並んでいる。
着地と同時に振るわれた短剣を、エレナの剣が弾く。体勢の崩れたところへ、ローワンの一太刀が、腰の入った重さで叩き込まれた。
「次!」
「左の壁、二体!」
ローワンの目は、もう次の敵を捉えていた。エレナは迷わずそちらへ駆ける。壁を降りかけた一体の足首を払い、落ちてきたところを返す刃で斬り伏せる。もう一体が、壁の途中で、背後から飛来した矢に射抜かれて転げ落ちた。ヴィートだった。
「――惑え」
ユリウスの一言とともに、岩壁の上の方に、白い霧が渦を巻いた。壁を登ろうとしていた後続の魔族たちが、足場を見失ってずり落ちていく。
「上は、しばらく霧で塞ぎます。ですが、長くは持ちません」
ユリウスの額には、もう汗が浮かんでいた。正面の足止めと、岩壁の霧。二つの魔法を交互に繰り返すたびに、魔力が確実に削られていく。
(同時に……同時に保てれば)
六日目の夜、手のひらの中で掻き消えた火種のことが、一瞬だけ頭をよぎった。だが、今それを試す余裕はなかった。ユリウスは、目の前の一つの回路に、意識を集中させた。
————————
どれほどの時間が経ったのか、誰にも分からなかった。
陽は、いつの間にか西に傾き始めていた。隘路の入口には、倒れた魔族が折り重なり、それを踏み越えて、新手が押し寄せてくる。こちらは、八人のまま。誰も倒れていない。だが、誰も無傷ではなかった。
マルタの頬には、浅い切り傷が走っている。ガレットの大盾は、縁が欠け、表面に幾筋もの深い傷が刻まれていた。ダードの息が、少しずつ荒くなっている。
不意に、敵の列が、潮が引くように後ろへ下がった。
「……引いた?」
ローワンが、荒い息の合間に呟いた。
「違う」
ダードが、大剣を構え直しながら言った。
「仕切り直しだ。……向こうも、ここを力押しじゃ抜けねえと分かったんだろうよ」
下がった列の奥に、エレナは、それを見た。
周りより頭一つ高い影。黒ずんだ鉄板を重ねた鎧。肩に担いだ、巨大な片刃の斧。
列の後方で、その影が、ゆっくりとこちらを向いた。兜の隙間から覗く目が、隘路の出口に陣取る八人を、一人ずつ、値踏みするように眺めていく。
その視線が、最後に、ダードの上で止まった。
背筋に、冷たいものが走った。
(――あいつ、指揮してる人を見てる)
去年の秋の森が、エレナの脳裏をよぎった。指示を出す者が、真っ先に狙われる。それが、知恵ある敵と戦うということだった。
遠くで、別の角笛が鳴った。近くの隊が、こちらの合図に応えている。だが、その音は、まだ遠かった。
隘路の入口に、新たな列が、黒々と並び始めていた。
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