Ep.4-10 静かな森
本陣は、なだらかな丘の上に築かれていた。
かつては公国の小さな城塞だったという石の砦を中心に、無数の天幕が丘の斜面を埋め尽くしている。翻る王国の旗と、公国の旗。炊事の煙が何十本も立ち上り、鍛冶場の槌音と、馬のいななきと、兵たちの号令が、絶え間なく入り混じっていた。
「……街だ」
丘の麓で足を止めたローワンが、呆然と呟いた。
「これが、一万五千……」
「いえ。これで、一万五千の全部ではありませんよ」
ユリウスが、丘の斜面を見渡しながら、静かに訂正した。
「一万五千というのは、戦う兵の数です。ですが、軍はそれだけでは動きません。荷を運ぶ輜重の人足、馬の世話をする馬丁、武具を直す鍛冶、炊事係、騎士や士官の従者、軍について回って商いをする者……。あそこで槌を振っている人も、鍋をかき回している人も、一万五千には数えられていないはずです」
「じゃあ、実際には何人いるの?」
エレナが尋ねると、ユリウスは少し考えてから答えた。
「正確には分かりません。ですが、戦う者と同じくらいの数が、その後ろにいると考えた方がいいでしょう。下手をすれば、倍です」
「倍……」
ローワンは、改めて丘を見上げた。天幕の間を行き交う人影の、どれが兵で、どれがそうでないのか、遠目には見分けがつかない。
「実家の商売が傾く前、父が軍に糧食を卸す話を持ちかけられたことがあるんです。その時に、帳簿を見せてもらいました。……兵の数だけで糧食を見積もると、必ず足りなくなる。父は、それで痛い目を見かけたと言っていました」
「ユーリのお父さん、そういう話もしてたんだ」
「数字の話だけは、よくしてくれましたから」
ユリウスは、少しだけ懐かしそうに目を伏せた。
王都の市場が丸ごと北へ引っ越してきたような賑わいだった。その一人一人が、この戦のためにここにいる。戦う者も、戦わない者も。
「北を見てください」
ユリウスが、丘の向こうを指差した。
なだらかな平原の先、地平線の手前に、黒っぽい帯のようなものが横たわっている。目を凝らすと、それが無数の天幕と、柵と、人影の連なりだと分かった。
「あれが……」
「魔族の陣です。正面の主力でしょう」
その距離が、近いのか遠いのか、エレナには判断がつかなかった。ただ、平原を渡ってくる風が、王都のそれよりずっと冷たいことだけは、はっきりと分かった。
————————
到着した翌日、遊撃隊の各隊長が、砦の一室に集められた。
ダードが戻ってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。隊の面々が待つ天幕に入ってくるなり、どさりと腰を下ろす。
「どうでした、隊長」
マルタが尋ねると、ダードは苦笑交じりに首を振った。
「シルヴィオってのは、噂以上だな。ありゃ化け物だ。剣を振るわねえ化け物」
「どんな人だったんですか」
エレナが身を乗り出すと、ダードは少し考えてから口を開いた。
「見た目は、そのへんにいる地味なおっさんだ。細身で、背筋がやたら真っ直ぐで、灰色の口髭を生やしてる。声も大きくねえ。……なのに、あの部屋にいた全員が、あいつの一言一言を、息を詰めて聞いてた」
「……あの、一つ伺ってもいいですか」
ユリウスが、怪訝そうに眉を寄せた。
「シルヴィオ殿も、ダンテさんやロレンツォさんと同じく、冒険者なんですよね。それほどの指揮の才があるなら、なぜ冒険者などをやっているんですか? 軍に入れば、間違いなく出世できるはずです」
「まあ、誰でもそう思うわな」
ダードは、苦笑交じりに頭を掻いた。
「国に縛られたくない奴ってのは、いるんだよ。国軍に入っちまえば、どれほど力を持とうが、自由はねえ。どこへ行けと言われりゃ行くし、誰を斬れと言われりゃ斬る。……今回だって、あいつは軍に雇われて本陣を預かってるだけだ。契約が終われば、また好きにどこへでも行ける」
ダードは、少しだけ遠くを見るような目をした。
「名誉よりも、自由を重んじる人なんだろうさ。……ベルナルドさんも、そういう人だったって聞くしな」
エレナが、ぴくりと顔を上げた。父が、最後まで一人の冒険者のままだったこと。肩書きを欲しがる人ではなかったこと。それは、エレナもよく知っていた。
「……そっか」
エレナは、それ以上何も言わなかった。けれど、まだ会ったこともないシルヴィオという人に、ほんの少しだけ、親しみのようなものを覚えた。
ダードは、懐から折り畳んだ紙を取り出し、天幕の中央の木箱の上に広げた。本陣を中心に、周囲の地形が簡略に描かれている。その東側、森に覆われた尾根の一角に、赤い印がつけられていた。
「ここが、俺たちの持ち場だ」
「東の森……ですか」
ユリウスが、地図を覗き込んだ。
「本陣の東は、この尾根を越えれば、すぐ砦の裏手に出られる。正面の平原を避けて本陣を突くなら、通り道としては、ここが一番素直だ。……そういう場所を、いくつかの隊で手分けして見張る」
「一番素直な道、ってことは」
「一番来る可能性が高いってことだな。もしくは、一番来ないと思われてるか、だ」
ダードは、肩をすくめた。
「シルヴィオの訓示は、短かった。覚えてるのは、これだけだ」
ダードは、一度言葉を切ってから、低い声で、誰かの口調を真似るように言った。
「『諸君の任務は、待つことだ。来なければ、諸君は何もせずに帰ることになる。それが、この作戦にとって最善の結果だと心得てほしい。来たならば――諸君だけが、本陣を救える』」
天幕の中が、しんと静まった。
「……来なければ、何もせずに帰る」
ローワンが、ぽつりと繰り返した。
「去年の士官殿と、同じことを言ってますね」
ユリウスが言うと、ダードは鼻を鳴らした。
「あの士官殿は、去年シルヴィオの下で働いてたからな。……さ、今日の午後には持ち場に移る。荷をまとめとけ」
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東の尾根は、背の高い針葉樹と、葉を落とし始めた広葉樹が入り混じる、深い森だった。
尾根の頂に近い岩場に、隊は野営の拠点を置いた。そこからは、木々の切れ間に、本陣のある丘と、その先の平原が見渡せる。逆に、尾根の東側の斜面は、どこまでも続く木々の海に呑まれていて、ほとんど見通しが利かなかった。
隊は、ダードたち翡翠の剣の四人、月見草の灯火の三人、ガレット、そしてダードが別の隊から預かったという若い傭兵が二人。合わせて十人だった。
捜索の手順は、去年と同じだった。二、三人ずつの組に分かれて、割り当てられた範囲を交代で歩く。異変があれば、狼煙と角笛。夜は、焚き火を最小限に抑え、交代で見張りに立つ。
一日目は、何事もなく終わった。
二日目も、三日目も、何も起きなかった。
「……暇」
五日目の昼、見回りから戻ったエレナが、岩場に寝転がって空を見上げた。
「エレナ、それ言わないって約束じゃなかったっけ」
「約束はしてないもん。暇なのはやだって言っただけ」
ローワンの指摘に、エレナは口を尖らせた。ユリウスは、岩に背を預けて手帳に何かを書きつけている。
「暇なのは良いことです。シルヴィオ殿の言葉を借りれば、最善の結果に近づいています」
「分かってるけどさあ」
エレナは寝転がったまま、空に向かって手を伸ばした。その手の先に、ぽう、と小さな光の板が浮かぶ。一枚、二枚、三枚。形の揃った足場が、空中に並んだ。
「待ってる間に、こっちの宿題でも進めとこうかな」
「そういや、ダンテの旦那に言われてた素振りは?」
離れた岩場で大盾の手入れをしていたガレットが、横から口を挟んだ。
「……千回のやつ?」
「おう。俺も付き合わされてんだよ、ローワンの千回に」
「ガレットまで!?」
「当たり前だろ。あいつが毎朝丸太叩いてりゃ、隣で寝てられるかよ」
ローワンが、少し照れくさそうに笑った。ここ数日、夜明け前に起き出して素振りをするローワンの隣で、ガレットが黙って剣を振っているのを、エレナも知っていた。
「レンゾさんは?」
「おっさんは、詠唱の練習だとよ。ぶつぶつ言ってて気味悪いったらねえ」
「聞こえているぞ」
木陰から、不機嫌そうな声が飛んできた。ガレットが首をすくめる。エレナとローワンは、顔を見合わせて吹き出した。
退屈で、穏やかで、それでいてどこか張り詰めた日々だった。
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六日目の夜、エレナとローワンは、二人で見張りに立っていた。
焚き火を落とした岩場は、星明かりだけが頼りだった。吐く息が白い。王都ではまだ秋の盛りだというのに、ここではもう、夜になると指先がかじかむほど冷え込む。
「寒いね」
「うん」
外套の襟を立てたエレナの隣で、ローワンは、尾根の東側の暗がりにじっと目を凝らしていた。
「ローワンってさ」
「ん?」
「見張りの時、全然喋らないよね。いっつも、じっと見てる」
「……喋ると、音が聞こえなくなるから」
「そっか」
エレナは、膝を抱えて、ローワンの横顔を見上げた。初陣の頃は、暗い森の中で物音がするたびに肩を跳ね上げていた少年が、今は、何時間でも黙って闇を見つめていられる。いつの間に、こんな顔をするようになったのだろう。
「ねえ、ローワン」
「何?」
「帰ったらさ、ロゼさんのシチュー食べたいな。あの、根菜がごろごろ入ってるやつ」
「……今それ言う?」
ローワンが、思わず小さく吹き出した。
「お腹空いてきちゃったじゃん」
「私も。言ってから後悔した」
二人で声を殺して笑っていると、背後で、かすかに砂利を踏む音がした。
振り返ると、ユリウスが立っていた。交代の時間には、まだ少し早い。
「ユーリ、眠れないの?」
「いえ。……少し、試したいことがありまして」
ユリウスは、二人から少し離れた岩に腰を下ろすと、杖を膝の上に置いて、目を閉じた。
しばらくして、彼の足元に、薄い霧がふわりと立ち込めた。視界を遮るほどではない、ごく淡い霧だ。それが、消えずに、ゆっくりと漂い続けている。
ユリウスの眉間に、深い皺が寄った。
霧を保ったまま、ユリウスは、もう片方の手のひらをそっと丸めた。その窪みの中に、豆粒ほどの小さな火種が灯る。外に光が漏れないよう、指で包み込むようにして。その火が、ちろりと揺れて――同時に、足元の霧も、溶けるように消えた。火種も、指の中でふっと掻き消える。
「……やはり、まだ駄目ですね」
ユリウスは、目を開けて、小さく呟いた。額に、うっすらと汗が滲んでいた。
「今の、何?」
エレナが、興味深そうに身を乗り出した。
「ロレンツォさんが仰っていた、回路を残しておくというお話です。……一つの回路を残したまま、もう一つ、別の回路を描くことができないかと思いまして」
「二つ同時ってこと?」
「理屈の上では、できるはずなんです。詠唱は、口が一つしかない以上、一度に一つしか唱えられません。ですが、詠唱を使わないのであれば、その制約は、ないはずです」
ユリウスは、自分の手のひらを見つめた。
「ただ、私の場合は、思い描く回路がぼやけているせいか、二つ目を描こうとすると、一つ目の輪郭が崩れてしまう。……まだ、言葉にできるほどの手応えは、ありません」
「ふうん」
エレナは、少し考えてから、自分の手のひらに火種を灯した。小さな火が揺れる。その火を灯したまま、もう片方の手に、もう一つ火種を灯そうとして――最初の火が、ぷつりと消えた。
「あ、私も駄目だ。二つ目を描こうとすると、一つ目から意識が離れちゃう」
「エレナでも、ですか」
「うん。見えてても、二つ同時に見るのって、難しいんだね」
ユリウスは、意外そうに目を瞬かせた。それから、どこか安堵したように、小さく笑った。
「……そうですか。では、私だけの問題ではないのかもしれませんね」
「戦いが終わったら、一緒に練習しよっか。ローワンも、見張りついでに数えてて」
「僕の役目、それなの?」
ローワンの不満げな声に、三人は、また声を殺して笑った。
星の下、尾根の東側の闇は、相変わらず静まり返っていた。
————————
七日目の朝、平原の方角から、地鳴りのような音が響いてきた。
「――始まったな」
岩場の端に立ったダードが、低く呟いた。
木々の切れ間から見下ろす平原に、黒い波がうねっていた。魔族の主力が、柵を越えて動き出している。それを迎え撃つように、本陣の丘の麓から、王国と公国の軍勢が、整然と隊列を組んで前に出ていく。
太鼓の音。角笛の音。何万という足音が、ひとつの巨大な響きになって、尾根の上まで届いてくる。
やがて、二つの波がぶつかった。
遠すぎて、一人一人の姿は見えない。ただ、ぶつかり合ったところから、土煙が高く舞い上がり、鬨の声が、風に乗って途切れ途切れに聞こえてくるだけだった。
「ダンテさん、あの中にいるのかな」
エレナが、小さく言った。
「いるだろうな。一番前の、一番硬いところにな」
ダードは、平原から目を離さずに答えた。
「……見とれてる暇はねえぞ。正面が始まったってことは、来るなら、これからだ。見回りを倍にする。二人一組で、間隔を詰めろ」
隊の空気が、一瞬で引き締まった。
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その日の午後、ローワンはヴィートと組んで、尾根の東側の斜面を下っていた。
ヴィートは、相変わらず何も喋らなかった。ただ、足音を殺し、木々の間を滑るように進んでいく。その背中を追いながら、ローワンも周囲に目を配った。
木漏れ日。落ち葉。苔むした倒木。
何も、おかしなところはない。昨日と同じ森だ。
――昨日と、同じ。
ローワンは、不意に足を止めた。
「……ヴィートさん」
小声で呼ぶと、ヴィートが音もなく振り返った。
「静かすぎませんか」
ヴィートの目が、わずかに細められた。
ローワンは、耳を澄ませた。昨日までは、この斜面には鳥がいた。木の実を啄む小鳥の声、遠くで鳴く山鳩の声。それが、今日は、聞こえない。
それだけではなかった。
足元の落ち葉に、ローワンはしゃがみ込んで目を凝らした。一面に積もった枯れ葉の、ほんの一部だけが、妙に平らに均されている。踏まれた跡を、後から誰かが丁寧に散らして隠したような、不自然な均され方だった。
それが、斜面の下から、尾根の方へ向かって、点々と続いていた。
「確信は、まだ……半分です」
ローワンは、喉の奥が乾いていくのを感じながら、それでも、はっきりと口にした。
「でも、何かが、ここを通ってます。それも、通った跡を、わざわざ消してる」
ヴィートは、しばらく無言で地面を見つめていた。
それから、短く一言だけ言った。
「……戻るぞ。急げ」
二人が尾根へ向かって斜面を駆け上がり始めた、その背後で。
木々の奥の暗がりが、かすかに、動いた気がした。
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