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Ep.4-9 北へ

九月の朝は、夏の名残りを残しながらも、空気の底にひやりとしたものが混じり始めていた。


宿の玄関先で、ロゼッタは三人の荷物の口を、一つずつ確かめていた。


「干し肉、乾パン、塩、薬草の包み。ローワン、包帯の替えは?」


「入れたよ、母さん」


「火打ち石は」


「エレナが火種の魔法使えるから……」


「入れときな。魔法が使えない時だってあるんだから」


ぴしゃりと言われて、ローワンは黙って火打ち石を荷物の隙間にねじ込んだ。エレナとユリウスが、顔を見合わせて小さく笑う。


「ユリウス、学園の方はちゃんと片付いたのかい」


「はい。入学の手続きは、先月のうちに済ませました。従軍で入学が遅れる場合の届けも出してあります。……戦が雪で止まって、帰ってこられれば、多少遅れても受け入れてもらえるそうです」


「そうかい。なら、なおさらちゃんと帰ってこないとね」


ロゼッタは、ユリウスの荷物の口紐をきゅっと締め直した。それから、三人の顔を順番に見て、何かを言いかけ、結局は何も言わずに、エレナの頭を抱き寄せた。


「……行っといで」


「うん。行ってきます、ロゼさん」


ロゼッタの肩越しに、厨房の入口に立つアルドが見えた。腕を組んだまま、こちらを見ている。目が合うと、アルドは顎で通りの方を示した。それだけで、十分だった。


「行ってきます、父さん」


ローワンの声に、アルドの口元が、ほんのわずかに動いた。何と言ったのかは、聞こえなかった。


————————


王都の北門を出た先の宿場町は、去年の集結地点よりも、さらに大きな人と物の渦になっていた。


傭兵団の旗が、数え切れないほど翻っている。荷馬車の列は、街道の先が霞んで見えなくなるまで続いていた。軍の隊列が、規則正しい足音を響かせながら北へと進んでいく。


「一万五千って、こういうことなんだ……」


エレナが、呆然と呟いた。去年の集結地点で言葉を失ったのが、遠い昔のことのように思える。


「よぉ、月見草」


人混みをかき分けて、ガレットがやってきた。背中の大盾が、人の波の中でもよく目立つ。その少し後ろを、レンゾが不機嫌そうな顔でついてきていた。


「ガレット、レンゾさん。おはよう」


「おう。……おいおっさん、もうちょい速く歩けねえのか」


「おっさんではないと何度言えば分かる。それと、人混みで盾を振り回すな。さっきから三人ほど弾き飛ばしているぞ」


「え、マジで?」


慌てて振り返るガレットの後ろで、レンゾが深々と溜め息をついた。二人のやり取りは、この夏の間に、すっかり見慣れた光景になっていた。


ダードたち翡翠の剣の面々も、ほどなくして合流した。


「全員揃ったな。出るぞ」


ダードの短い号令とともに、遊撃隊の一行は、北へ向かう長い列の中に加わった。


————————


行軍は、十日あまり続いた。


王国の北の国境を越えると、景色が変わった。


なだらかな丘陵に、刈り入れの済んでいない麦畑が広がっている。いや、刈り入れが済んでいないのではない。刈り入れる人手が、もういないのだ。立ち枯れた麦の穂が、秋風に吹かれて、かさかさと乾いた音を立てていた。


「……ひどい」


エレナが、小さく呟いた。


通り過ぎる村々には、女と年寄りと子供の姿ばかりが目立った。若い男は、みな前線に取られたのだという。軍の隊列を見送る村人たちの目には、期待とも諦めともつかない色が浮かんでいた。


「これでも、まだ戦線から遠い南側です」


ユリウスが、静かに言った。


「北の穀倉地帯は、これよりずっと広いと聞きます。そこが、今は丸ごと魔族の手にある。……春に種を蒔けなければ、この国は来年の冬を越せないでしょう」


「だから、雪の前に押し戻すんだね」


「ええ」


ローワンは、黙って立ち枯れた麦畑を見ていた。宿の厨房で、毎朝パンを運んでいた自分の手を、ふと見下ろす。あのパンの麦も、どこかの誰かが育てて、刈り入れて、粉に挽いたものだった。


「……頑張ろう」


ぽつりと漏れたローワンの言葉に、エレナとユリウスは、何も言わずに隣を歩いた。


————————


国境を越えて七日目の夜。


野営地の焚き火の輪は、行軍が進むにつれて、少しずつ賑やかになっていた。不安を紛らわせるように、誰かが酒を回し、誰かが歌い、誰かが下手な冗談を飛ばす。


月見草の灯火の三人が座っていたのは、別の遊撃隊のベテランたちと隣り合った焚き火だった。白髪交じりの古参の冒険者が、杯を片手に、上機嫌で昔話をしている。


「――でな、その時の英雄ベルナルドの隣には、いつも一人の魔法使いがいたんだよ。銀の髪の、そりゃあもう、とんでもねえ美人でな」


「おいおい、また始まったよ、爺さんの与太話が」


向かいに座った中年の傭兵が、呆れたように笑った。


「与太じゃねえ。俺の師匠が見たって言ってたんだ。『最強の戦士と、美女の魔法使い』。あの二人が組めば、竜だって尻尾巻いて逃げたってな」


「いや、俺が聞いたのは違うぞ。ベルナルドの隣にいたのは、娘の魔法使いだ。『最強の戦士と、その娘の魔法使い』。親父に甘えっぱなしの、小さな娘だったって話だ」


「それは別の話だろうが!」


「同じ話だよ! 時期が違うだけだ!」


「同じなわけあるか! 美女と娘じゃ全然違うだろうが!」


焚き火の向こうで、伝説を巡る口論が、みるみる白熱していく。


エレナは、膝を抱えたまま、黙って炎を見つめていた。その肩が、小刻みに震えている。


「エレナ、大丈夫?」


ローワンが小声で尋ねると、エレナは顔を伏せたまま、絞り出すように答えた。


「……だい、じょうぶ……」


声が、完全に笑いを堪えている声だった。


(同じ人だよ……! どっちもお母さんだよ……! 若い頃と、年取ってからの……!)


母が晩年、急に老いて、父との見た目の差が開いたこと。誓約が解けた後、母が父に遠慮なく甘えるようになったこと。父から聞かされた話を全部知っている身としては、目の前の論争は、あまりにも的外れで、あまりにも可笑しかった。


隣で、ユリウスが額を押さえていた。ローワンも、口元を必死に手で覆っている。伝説の魔法使いがエレナの母親だということは、出会ったばかりの頃に、二人ともエレナ本人から聞かされていた。


「なあ、そっちの若いの」


不意に、白髪交じりの冒険者が、三人の方へ顔を向けた。


「お前らはどう思う? 美女か、娘か」


「え、えっと……」


エレナは顔を上げ、引きつった笑みを浮かべた。


「ど、どっちも……素敵な話だと思います……」


「なんだそりゃ、日和見だな!」


どっと笑いが起きる。その笑い声に紛れて、エレナはようやく、堪えていた息を吐き出すことができた。


————————


「そういや、嬢ちゃん」


ひとしきり笑いが収まった頃、白髪交じりの冒険者が、改めてエレナを見た。


「夏の合同訓練で見てたよ。ダンテの旦那の頭の上まで跳び上がったって、あれ、嬢ちゃんだろ。大した度胸だ。どこで剣を習った?」


「父に、です」


「親父さんも冒険者か」


「はい。……ベルナルドって言います」


焚き火の輪が、しん、と静まった。


白髪交じりの冒険者の手から、杯が滑り落ちかけた。


「……は?」


「ベルナルド。さっきの話の、ベルナルドです。私、娘なんです」


一拍の沈黙の後、焚き火の輪が爆発した。


「えっ、嬢ちゃん、あのベルナルドさんの娘だったのか!?」


「嘘だろ、おい!」


「どーりで強えわけだ! あの跳び方、普通じゃねえと思ったんだよ!」


「待てよ、ってことは」


中年の傭兵が、ぽんと手を打った。


「嬢ちゃんが、噂の『娘の魔法使い』ってことか!? ほら見ろ、やっぱり娘の話は別の伝説じゃねえか!」


「違います違います! 私、剣と弓です! 魔法はほとんど使いません!」


エレナが両手を振って全力で否定すると、白髪交じりの冒険者が勝ち誇ったように笑った。


「ほらな、やっぱり同じ話なんだよ!」


「何でそうなるんだよ!」


再燃しかけた口論に、エレナは頭を抱えた。どちらの説も間違っているのに、どちらにも説明のしようがない。


白髪交じりの冒険者が、身を乗り出してエレナの顔をまじまじと覗き込んだ。


「……ああ、言われてみりゃ、目元が似てる気がするな。いや、似てねえか。あの人はもっと、こう、熊みてえな顔してたからな」


「父さん、熊じゃないです」


「いやいや、褒めてんだよ。俺は若い頃、一度だけあの人と同じ依頼を受けたことがあってな。こっちが三人がかりで手こずってた魔物を、あの人は一人で、鼻歌交じりに片付けちまった。……そうか、あの人の娘か」


しみじみと呟いてから、白髪交じりの冒険者は、急ににやりと笑った。


「嬢ちゃん、頼むぜ。俺たちの分まで、全部功績持って行かないでくれよ?」


「えっ」


「冗談じゃねえぞ、これは本気の頼みだ」


周りのベテランたちが、どっと笑った。白髪交じりの冒険者も笑っている。だが、その目の奥には、冗談だけでは済まない色があった。


「俺も、もう五十を越えた。最前線に出られるのは、この戦が最後だろうよ」


杯を傾けながら、彼は焚き火の向こうの暗闇を見つめた。


「この戦争が終わっちまえば、俺たちみてえなロートルが、でけぇ功績を作れる機会は、そうそうなくなる。ギルドは、参加した奴の働きをちゃんと記録してくれる。最後に一つ、でかい山を当てて、それを土産に引退したい。……最後のチャンスなのさ」


その言葉に、周りのベテランたちも、それぞれの杯に目を落とした。誰も茶化さなかった。皆、同じことを考えているのだと、エレナにも分かった。


「……じゃあ、全部は持っていきません」


エレナは、少し考えてから、真っ直ぐに答えた。


「半分くらいで、我慢します」


一瞬の間の後、焚き火の輪が、今夜一番の大笑いに包まれた。


「半分かよ!」


「欲張りだな、嬢ちゃん!」


「さすがベルナルドさんの娘だ!」


背中をばしばしと叩かれながら、エレナも一緒になって笑っていた。その笑い声の中に、少しだけ、強がりが混じっていることに、ローワンだけが気づいていた。


————————


夜が更けて、焚き火の輪がまばらになった頃、ダードが三人のところへやってきた。


「さっきは、ずいぶん盛り上がってたな」


「聞こえてました?」


「野営地の端まで聞こえてたぞ」


ダードは、三人の隣に腰を下ろすと、焚き火に小枝を放り込んだ。


「あの爺さんの言ってたことは、本当だ。ベテランにとっちゃ、こういう戦は最後の大舞台なんだよ。……俺にとっても、まあ、似たようなもんだがな」


いつもの飄々(ひょうひょう)とした口調だったが、その横顔は、どこか遠くを見ていた。


「ダードさんも、功績が欲しいんですか」


ローワンが尋ねると、ダードは鼻で笑った。


「欲しいに決まってんだろ」


ダードは、手の中の小枝を、ぱきりと折った。


「冒険者なんてのはな、お前らが思ってるよりずっと、根無し草な商売だ。体が動くうちは稼げる。だが、腕が落ちりゃ、それで終わりだ。最前線に立てるのは、せいぜい三十の後半まで。そこから先は、昨日できたことが今日はできねえって日が、少しずつ増えていく」


折った小枝を、焚き火の中へ放る。小さな炎が、ぱっと明るくなって、すぐに落ち着いた。


「どんな奴でも、いつかはそうなる。あの爺さんも、俺も、ダンテやロレンツォだってな。……だから冒険者は、自分が衰えていくのに怯えながら、それでも、自分は何かを成し遂げたんだって、立派にやったんだって、思っていたいのさ」


「それが、功績……」


「ああ。だから、生涯最高でどこまで行ったか、なんて話にこだわる。B級止まりだったか、A級まで行ったか。普通に暮らしてる奴らからすりゃ、どうでもいい話だろうよ。誰も覚えちゃいねえし、腹も膨れねえ」


ダードは、自嘲するように口の端を歪めた。


「それでも、こだわっちまうんだ。そいつが、俺たちがこの稼業をやってた証になるからな」


焚き火の音だけが、しばらく続いた。エレナもローワンもユリウスも、すぐには何も言えなかった。いつも飄々としているダードの口から、こんな話を聞くのは初めてだった。


「……だがな」


ダードの声が、いつもの調子に戻った。


「それよりも先に、全員連れて帰る。去年、それができなかった。今年は、何があっても、それだけは譲らねえ。……死んじまったら、最高位も何もねえからな」


焚き火の火の粉が、夜空に向かって舞い上がっていく。


北の空には、星がいつもより低く、冷たく瞬いていた。風の中に、かすかに、雪の匂いが混じり始めている気がした。


「明日には、本陣に着く」


ダードが、静かに言った。


「そこから先は、いつ何が来てもおかしくねえ。今夜のうちに、よく寝とけ」


「はい」


三つの返事が、焚き火の音に重なった。


エレナは、寝袋に潜り込みながら、胸の中で、そっと両親に語りかけた。


(父さん、お母さん。父さんのこと覚えてる人、いっぱいいたよ。……お母さんのことは、みんな、ちょっとずつ間違えて覚えてたけど)


小さく笑って、エレナは目を閉じた。


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