閑話 一人分の報酬
国境の小競り合いは、もう三月も続いていた。
ミレニア王国の東、なだらかな丘陵地帯の一角を巡って、隣国とのいがみ合いが、いつの間にか本物の戦になっていた。どちらの国も、本気で攻め込むつもりはない。かといって、退くつもりもない。そういう、終わりの見えない泥沼の戦だった。
その丘の麓に陣を張った傭兵団の野営地で、ベルンは、焚き火を前に膝を抱えていた。
「浮かない顔ね」
隣で、ヴィオラが煙管をくゆらせていた。目深に被った外套のフードの下から、紫紺の瞳だけが焚き火の明かりを映している。傭兵だらけの野営地で、エルフの女が素顔を晒すのは、面倒事の種にしかならない。
「……なあ、ヴィオラ」
「何かしら」
「今日の分の報酬、聞いたか」
「ええ。敵兵一人につき銀貨五枚。士官なら大銀貨一枚。首の代わりに、片耳を持ってくればいい。分かりやすい仕組みね」
「分かりやすいけどさ」
ベルンは、手の中の小枝を、焚き火の中へ放り込んだ。
「報酬額に釣られて加わったが……人を何人殺して幾ら、っていうのは、ちょっと気分が悪いな……」
焚き火の向こうでは、傭兵たちが今日の戦果を自慢し合っていた。腰の袋から取り出した耳を数えては、酒をあおり、大声で笑っている。ベルンは、その光景から目を逸らした。
魔物なら、いくらでも斬れた。だが、今日斬った相手は、自分と同じように、誰かに雇われて、誰かに言われて、ここに立っていただけの人間だった。
「あら」
ヴィオラが、煙管を口から離した。
「それなら、一人だけ倒して満額頂く手もあるわよ」
「……嫌な予感しかしないんだが」
「失礼ね」
ヴィオラは、ふう、と細く煙を吐き出した。
「敵将だけを狙うのよ。どうせこの戦、どちらの兵も、命令されたから立っているだけでしょう。命令する頭がいなくなれば、勝手に崩れるわ」
「敵将って……向こうの本陣は、丘の向こうだぞ。間に、何千って兵がいる」
「あなたの突破力があれば、単騎で敵本陣まで辿り着くのは不可能じゃないわ。私の防護魔法と合わせて、二人でまっすぐ本陣へ行けばいい」
さらりと言ってのけるヴィオラに、ベルンは口を半開きにしたまま、しばらく固まっていた。
「なるほど……しかし、隊長が許すかどうか……」
「許すわけないでしょう。勝手に出て、勝手にやるだけよ」
「それ、手柄の横取りじゃないか。傭兵団が黙ってないだろ」
「そうね。だから、受け取った報酬は、全額傭兵団にくれてやりなさい。お金さえもらえれば、あの手の連中は黙るわ」
「それじゃ、参加した意味が……」
「ないことないわよ」
ヴィオラは、煙管の灰を、焚き火の縁でとん、と落とした。
「圧倒的な実績を持って、国軍に交渉するの。『次からは、単独の遊軍としてやらせてくれ』って。……そうすれば、もう誰の耳も数えずに済むでしょう」
ベルンは、しばらく黙って焚き火を見つめていた。
それから、ゆっくりと立ち上がり、腰の剣の柄を、確かめるように握った。
「いつ行く」
「今夜」
ヴィオラも、外套の裾を払って立ち上がった。
「夜明け前が、一番眠いのよ。人間はね」
————————
その夜明けのことを、後に語る者は、皆少しずつ違うことを言った。
丘の上から、一騎の影が駆け下りてきた、と言う者がいた。いや、徒歩だった、と言う者もいた。その後ろに、もう一つ、小さな影が従っていた、と言う者もいれば、そんなものは見なかった、と言う者もいた。
ただ、誰もが口を揃えて言ったことが、一つだけあった。
その影の通った後だけ、陣が割れていった、と。
まだ眠りから覚めきらない敵陣の、柵が、天幕が、慌てて槍を構えた兵たちが、まるで見えない楔に打ち込まれたように、左右に押しのけられていく。放たれた矢は、影に届く寸前で、何かに弾かれたように逸れていった。振り下ろされた刃は、影の剣に打ち払われ、その持ち主ごと、地面に転がった。
影は、誰も殺さなかった。立ち塞がる者を、ただ払いのけ、突き進んだ。
そして、丘の向こうの本陣の、一番大きな天幕の前で、ようやく足を止めた。
天幕から飛び出してきた敵将は、壮年の、立派な鎧の男だった。周りを固める近衛たちを手で制し、自ら剣を抜く。
「――一騎討ちを、所望するか」
「ああ。それで終わるなら、それがいい」
答えた若い男の声は、拍子抜けするほど、穏やかだった。
決着は、一合でついた。
————————
「てめえ、何しやがった!」
傭兵団の野営地に戻ったベルンを待っていたのは、顔を真っ赤にした隊長の怒声だった。
敵将が討たれたという報せは、陽が昇りきる前に、両軍に伝わっていた。頭を失った敵軍は、昼を待たずに陣を払い、丘の向こうへと引き上げていった。三月続いた泥沼の戦が、たった一晩で、終わってしまったのだ。
「勝手に飛び出して、勝手に大将首を取りやがって! 俺たちの稼ぎは、どうなるんだよ! 明日も明後日も、耳を数えるはずだったんだぞ!」
隊長の後ろでは、傭兵たちが、殺気立った目でベルンを睨みつけていた。
ベルンは、黙って腰の革袋を外した。国軍から受け取ったばかりの、敵将討ち取りの報奨金だった。ずしりと重いそれを、隊長の胸に押しつける。
「全部、やる」
「……は?」
「俺の取り分は、いらない。みんなで分けてくれ。……悪かったな、稼ぎを減らして」
隊長は、胸に押しつけられた革袋の重さに、目を白黒させた。袋の口から覗いた金貨の色に、後ろの傭兵たちも、ざわめき始める。
しばらくして、隊長は、呆れたように笑い出した。
「……なんだお前、馬鹿か」
「よく言われる」
「ちっ。……まあ、金さえもらえりゃ文句はねえ。次からは、勝手な真似すんなよ」
「ああ。次からは、別のところでやる」
ベルンの言葉の意味を、隊長が理解したのは、それから半月ほど後のことだった。
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国軍の陣幕で、ヴィオラは、居並ぶ士官たちを前に、悠然と脚を組んでいた。
「――というわけで」
フードを下ろした素顔に、士官たちの視線が突き刺さる。エルフの女が、何の物怖じもせず、王国の軍人を前に交渉の席に着いている。その異様さに、誰もがどう反応していいか分からずにいた。
「あの男を、傭兵団に混ぜるのは、もったいないと思わない? 次の戦からは、単独の遊軍として雇いなさい。指揮系統の外に置いて、好きに動かせればいい。その代わり、一人分の報酬で、戦を一つ終わらせてあげる」
「……馬鹿な。一人の兵に、戦の行方を委ねろと言うのか」
「委ねろとは言ってないわ。試しなさい、と言っているの」
ヴィオラは、紫紺の瞳を細めた。
「この前の丘の戦。あなたたちが三月かけて終わらせられなかったものを、あの男は一晩で終わらせた。それも、敵将一人の他は、誰も殺さずにね。……次も同じことができるか、試してみればいいじゃない。失敗したら、死ぬのはあの男だけよ。あなたたちの懐は、少しも痛まない」
士官たちは、顔を見合わせた。
陣幕の隅で、ベルンは、居心地悪そうに身じろぎしていた。
(……死ぬのは俺だけって、ずいぶんな言い草だな)
だが、ヴィオラの横顔は、少しも笑っていなかった。そこには、自分の債務者の価値を、誰よりも正確に見積もっている債権者の、冷たいほどの自信があった。
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それから、何年かが過ぎた。
単独の遊軍として雇われたベルンは、戦が起きるたびに、まっすぐ敵の本陣を目指した。一騎討ちを挑まれれば受け、そして必ず勝った。大きな会戦が始まる前に、戦が終わる。そんなことが、何度も繰り返された。
いつしか、ミレニア王国に手を出そうとする国は、なくなっていた。
————————
その日、ベルンは、王城の謁見の間に呼び出されていた。
磨き上げられた石の床。高い天井から下がる、色とりどりの旗。両脇に居並ぶ、きらびやかな衣装の重臣たち。その全ての視線が、玉座の前に膝をつく、日に焼けた一人の冒険者に注がれていた。
「面を上げよ」
玉座の上から、穏やかだが、よく通る声が降ってきた。
ベルンが顔を上げると、玉座の王は、興味深そうに目を細めていた。
「ベルナルド。お前は幾度となく、この国に功績をあげている。だが、その度に、報酬は現金で、と言っておるそうだな」
「は、はい」
「叙爵の話も断ったというが……領土を持って発展させた方が、大きな財をもたらすはずだがな。なぜ、そうせぬ?」
謁見の間が、静まり返った。重臣たちの視線が、一層鋭くなる。
ベルンは、少しの間、言葉を探した。嘘をつくのは苦手だった。かといって、気の利いた答えも思いつかなかった。
「なぜって、それは……」
ベルンは、困ったように頭を掻いた。
「民を働かせて金を巻き上げるってのは、なんかこう、違うだろ……?」
謁見の間の空気が、凍りついた。
居並ぶ重臣たちの顔から、さっと血の気が引いていく。領地を持ち、民から税を取り立てて暮らしているのは、まさにこの場にいる全員だった。誰かが、ひっ、と小さく息を呑む音がした。
その沈黙を破ったのは、玉座の上からの、爆発するような笑い声だった。
「――うあっはっはっは!」
王が、玉座の肘掛けを叩いて、腹を抱えて笑っていた。
「その長たる我を前にして、よく言った! ……だそうだぞ、諸君!」
重臣たちが、どう反応していいか分からずに、引きつった愛想笑いを浮かべる。王は、目尻に浮かんだ涙を拭いながら、まだ肩を震わせていた。
「よい、よい。……報酬は、あやつが望むようにしてやれ。現金でな」
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城門の外で、ヴィオラは煙管をくわえて待っていた。
「どうだった?」
「……怒られるかと思った」
「何を言ったのよ」
ベルンが謁見の間でのやり取りを話すと、ヴィオラは、珍しく声を立てて笑った。
「あなた、本当に馬鹿ね」
「よく言われる」
「褒めてるのよ」
ヴィオラは、ふう、と煙を吐き出してから、横目でベルンを見た。
「で、いくらもらったの?」
「……いきなりそこか」
「当然でしょう。私は、あなたの債権者なのよ」
ベルンが、渋々と報酬の額を告げると、ヴィオラは満足そうに頷いた。
「上出来。全部、今月の返済に回しなさい」
「全部? 少しくらい、手元に残しても……」
「利子分にもならないわよ、それくらい。ちゃんと完済するんでしょう?」
「……わかってるよ」
いつものやり取りだった。ベルンは、溜め息をつきながら、ヴィオラの隣を歩き出した。
一人分の報酬で、戦を一つ終わらせる。誰の耳も数えずに済むように。
その戦い方が、やがて「開戦前に戦を終わらせる英雄」の伝説になっていくことを、この時の二人は、まだ知らなかった。
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