Ep.4-8 同志
七月の演習場は、陽射しが容赦なく照りつけていた。
乾いた地面から立ち上る熱気に、遠くの傭兵団の旗がゆらゆらと揺れて見える。合同訓練も二ヶ月目に入り、遊撃隊の動きはだいぶ形になってきていた。発見の合図、狼煙、角笛、集結。去年の作戦で身に染みた手順を、今年は最初から体に叩き込んでいく。
「暑い……」
木陰に逃げ込んだエレナが、水筒の水を頭からかぶった。黒髪から滴る雫が、顎の先からぽたぽたと落ちる。
「エレナ、それ飲み水だよ」
「いいの。頭が煮えるよりまし」
ローワンの呆れ声にも、エレナは悪びれない。隣ではユリウスが、自分の周りにだけ薄い霧を漂わせて涼を取っていた。
「ユーリ、それずるい」
「魔力の効率的な運用です」
「私にもやってよ」
「ご自分でどうぞ。エレナなら、一度見れば同じことができるでしょう」
ユリウスの言葉にエレナが身を乗り出しかけた、その時だった。
演習場の入口の方から、ざわめきが波のように広がってきた。
————————
人垣が、自然と割れていく。
その中央を歩いてくる男は、遠目にも分かるほど大きかった。周りの傭兵たちの頭が、ちょうど男の肩のあたりにしか届いていない。短く刈り込んだ黒髪に、無精髭。陽に焼けた太い腕には、古い傷がいくつも走っている。背には、身の丈ほどもある両手持ちの大剣を負っていた。
「でっか……」
エレナが、ぽかんと口を開けた。アルドも大柄だが、それよりさらに頭一つ大きい。横幅に至っては、比べ物にならなかった。
「ダンテだ」
いつの間にか隣に来ていたダードが、低い声で言った。
「ロレンツォと同じ、非公式に『S級』と呼ばれてる一人だ。前線から戻ったって噂は聞いてたが……ここに顔を出すとはな」
「あの人も、S級……」
ローワンが、ごくりと唾を飲み込んだ。ロレンツォの、あの一瞬の決着を思い出したのだろう。
男――ダンテが、演習場の中央で足を止めた。物珍しそうに周りを見回すその顔は、思いのほか人懐っこい。
そこへ、若い傭兵の一人が、興奮を隠しきれない様子で駆け寄っていった。
「ダンテさん! お会いできて光栄です! 噂はかねがね! あの、ベルナルド超えのダンテさんですよね!」
その瞬間、演習場の空気が、凍った。
ダンテの顔から、人懐っこさが消えていた。大きな手が、若い傭兵の胸ぐらを、ひょいと掴み上げる。足が地面から浮いた。
「――今、何つった」
低い声だった。怒鳴ってもいないのに、演習場の端まで届くような声だった。
「え、あ、あの……」
「二度と、その口でそれを言うな。あの人を超えた奴なんざ、この世に一人もいねえ。俺も含めてだ。……分かったか」
「は、はいっ……!」
ダンテは、掴んでいた手をぱっと離した。尻餅をついた若い傭兵が、這うようにして人垣の中へ逃げ込んでいく。
ダンテは、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「……悪ぃ。脅かすつもりはなかったんだがな。どうも、それだけは駄目でよ」
ざわめきが、ゆっくりと戻ってくる。エレナは、その大きな背中を、じっと見つめていた。
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「ダード! 生きてたか!」
訓練の合間、ダンテの方からこちらへ大股で歩いてきた。ダードとは顔見知りらしく、肩を叩かれたダードが、その衝撃でよろめいている。
「あんたこそな。前線はどうだった」
「どうもこうもねえよ。雪が溶けてから、向こうは妙に静かだ。静かすぎて気味が悪い。……で、こいつらが噂の?」
ダンテの視線が、三人へと向いた。ダードが、顎でエレナを示す。
「ああ。月見草の灯火だ。こっちの嬢ちゃんが、ベルナルドさんの娘だよ」
ダンテの目が、大きく見開かれた。
「……本当か」
「エレナです。父がお世話になりました……って言っていいのかな」
ぺこりと頭を下げたエレナを、ダンテは、しばらく何も言わずに見下ろしていた。それから、ゆっくりと腰を屈め、エレナと目の高さを合わせた。
「俺がまだ二十歳そこそこの、ただの傭兵だった頃だ」
太い声が、少しだけ柔らかくなった。
「ある戦で、一度だけ、あの人の背中を見た。敵の陣が、あの人の通った後だけ、割れてくんだ。剣を一振りするたびに、道ができる。……あんなもん、他に見たことがねえ。今でもな」
エレナは、黙って聞いていた。
「あの人と同じ道を行くってんなら、お前は俺の同志だ」
大きな手が、エレナの頭の上に、ぽん、と置かれた。髪がぐしゃぐしゃになるほど撫で回されて、エレナが「わ、わっ」と声を上げる。
「よろしくな、嬢ちゃん」
「は、はい! よろしくお願いします!」
髪を押さえながら、エレナは満面の笑みを浮かべていた。父の背中を、自分の知らない場所で見ていた人がいる。その事実が、ただ嬉しかった。
————————
「で、お前は」
立ち上がったダンテの視線が、今度はローワンを捉えた。
「は、はいっ!」
「前衛か」
「一応……エレナと並んで、前に出ることが多いです」
「ちょっと振ってみろ」
唐突な指示に、ローワンは戸惑いながらも、腰のショートソードを抜いた。訓練用の丸太に向かって、いつも通りに一太刀を浴びせる。
かつん、と乾いた音がして、刃が丸太の表面で滑った。
「――駄目だ、駄目だ、駄目だ!」
ダンテの怒声が飛んだ。
「刃筋がぶれてる! 腕だけで振ってるからだ! 腰で振るんだよ、腰で!」
「こ、腰……」
「そうだ、腰だ! 前に踏み込んだ足に、腰の重みを全部乗せて、そいつを刃に流すんだよ! お前、女を抱いたこともないのか!?」
演習場の一角が、しん、と静まり返った。
ローワンの顔が、首から耳の先まで、一瞬で真っ赤に染まった。
「な、な、な……っ!」
「ねえよな! 見りゃ分かる! だから腰が死んでんだ!」
「ダンテさん、ちょ、ちょっと……!」
ローワンの悲鳴に近い声に、周りの傭兵たちがげらげらと笑い出す。マルタが腹を抱えて地面を叩き、ダードは額に手を当てて天を仰いでいた。
その中で、一人だけ、きょとんとした顔の者がいた。
「ねえユーリ。今の、どういう意味?」
エレナが、隣のユリウスの袖を引いた。
「……………………」
ユリウスは、たっぷり三呼吸ほど沈黙した。
「……腰の使い方の、比喩です」
「何の比喩?」
「後でローワンに聞いてください」
「ユーリ!?」
ローワンが、裏返った声で叫んだ。ユリウスは、何事もなかったように霧の中で涼を取り続けている。その耳の先が、かすかに赤かった。
————————
「いいか、もう一回だ」
笑いが収まった頃、ダンテはローワンの後ろに回り、その腰を大きな手で掴んだ。
「足を出す。腰を落とす。ここだ。ここから、捻る。腕は後からついてくるだけだ。刃は、腰が回りきった、その先で走らせる」
言葉は相変わらず荒っぽかったが、その指示は驚くほど具体的だった。ローワンは、まだ赤い顔のまま、言われた通りに足を踏み出し、腰を捻った。
ひゅっ、と空気を裂く音がした。
刃が、丸太に深々と食い込んでいた。さっきとは、手応えがまるで違う。
「……あ」
ローワンが、自分の手元を呆然と見つめた。
「今のだ。それを百回やれ。千回やれ。体が勝手にそう振るようになるまでだ」
「は、はい……!」
「お前、目はいいな」
不意に、ダンテの声の調子が変わった。
「俺が腰を掴んだ時、何を言う前から、足の位置を直してた。俺の重心の置き方を見てたろ。……それができる奴は、伸びる。前に出るのが怖くても、目を逸らさねえ奴はな」
ローワンは、言葉に詰まった。それから、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。千回だぞ」
「千回……」
遠い目をするローワンの肩を、エレナが笑いながら叩いた。
「付き合うよ、ローワン。私も腰の使い方、教えてもらいたいし」
「エレナは、その、意味分かってから言って……」
「え、だから何の比喩なの?」
「何でもない!」
————————
「ダンテさん」
ローワンが丸太に向かって素振りを始めたのを見届けてから、エレナはダンテの前に進み出た。
「私とも、手合わせしてもらえませんか」
ダンテが、片眉を上げた。
「俺とか?」
「父さんの背中を見た人と、一回やってみたくて」
真っ直ぐな目だった。ダンテはしばらくエレナを見下ろしていたが、やがて、にやりと笑った。
「いいぜ。同志の頼みだ」
訓練用の木剣の中から、ダンテは一番大きなものを選んで、片手で軽々と担いだ。エレナの木剣と並べると、まるで大人と子供の得物だった。
周りに、また人垣ができ始める。ダードが、止めるべきか迷うような顔で腕を組んでいた。
「いつでも来い」
「――行きます!」
エレナが地を蹴った。
低く踏み込み、脇腹を狙う一閃。だがダンテは、木剣を軽く傾けただけでそれを受け止めた。腕に返ってきた衝撃が、肩まで痺れさせる。
(重っ……!)
岩を叩いたような手応えだった。エレナはすぐさま跳び退く。その鼻先を、横薙ぎの木剣が唸りを上げて通り過ぎていった。巨体からは想像もつかない、恐ろしく速い振りだった。
正面からでは、どう打ち込んでも受け止められる。横に回っても、あの長い得物が届く。
(だったら――)
二度目の踏み込み。ダンテの木剣が迎え撃とうと持ち上がった、その瞬間。
エレナの足が、宙を踏んだ。
足元に浮かんだ光の板を蹴って、一段。崩さずに残した回路へ、そのまま魔力を流し込んで、二段。ダンテの頭上へと、体が躍り上がる。
「――っ!?」
初めて、ダンテの目が見開かれた。
(このまま、上から――)
木剣を振りかぶる。その刹那、三段目の板を踏もうとした足が、空を切った。
剣に意識を向けた、ほんの一瞬。頭の中に残していたはずの道が、ほろりと崩れていた。
「わ――っ!」
体勢を崩したまま落ちてくるエレナの手首を、ダンテの空いた左手が、ひょいと掴んだ。そのまま宙吊りにされたエレナの喉元に、木剣の切っ先が、ぴたりと添えられる。
「……ここまで、だな」
「……参りました」
宙ぶらりんのまま、エレナは悔しそうに唇を尖らせた。ダンテは笑いながら、エレナを地面に下ろした。
「今の、ロレンツォの足場か」
「はい。教わったんです。……でも、まだ剣を振りながらだと、崩れちゃって」
「見りゃ分かった。剣に気を取られた瞬間に、足元が消えたろ」
ダンテは、自分の木剣を肩に担ぎ直した。
「だが、いい発想だ。俺みてえなでかいのは、上からの攻めが一番嫌なんだよ。あれがもう一段続いてたら、俺も少しは焦ったかもな」
「本当ですか!」
「少しはな。……それと、もう一つ」
大きな指が、エレナの腰をとん、と突いた。
「お前も、上から振りかぶった時、腰が浮いてた。体が軽い分、重さを乗せねえと一撃が軽くなる。そこの坊主と一緒に、千回振っとけ」
「えっ、私も千回?」
「当たり前だろうが!」
丸太の前で素振りをしていたローワンが、振り返って、少しだけ嬉しそうな顔をした。
————————
日が傾きかけた頃、ダンテは演習場を後にしようとしていた。
「もう行っちゃうんですか」
見送りに出たエレナに、ダンテは大剣を担ぎ直しながら答えた。
「明後日には、また北だ。俺は今年も、正面の戦列に立つ。お前らは遊撃隊だろ。……持ち場は違うが、同じ戦場だ」
「本陣を守るのではないのですか」
ユリウスが尋ねると、ダンテは鼻を鳴らした。
「本陣を守るのはシルヴィオの野郎だよ。俺たちと同じ、S級とか呼ばれてる一人だ。軍の本陣を丸ごと仕切ってる。あいつが率いた隊は、まず死なねえ。腹の立つことにな」
「死なない……」
ローワンが、思わず繰り返した。その一言の重さを、三人とも去年の冬に知っている。指示を出す者が狙われ、倒れたら、隊は脆く崩れる。それを知った上で、率いた隊を死なせない指揮官がいる。
「ロレンツォの奴は、もう向こうか?」
「春に、北へ戻られたそうです」
「そうか。……しかし、あの理屈屋が弟子を取るとはな。そりゃいい」
ダンテは、愉快そうに笑った。それから、少しだけ真面目な顔になる。
「……だがな、嬢ちゃん」
大きな手が、もう一度、エレナの頭に置かれた。
「足場があろうがなかろうが、最後に敵を斬るのは、腰の入った一太刀だ。あの人も、そうだった。忘れんなよ」
「はい!」
「じゃあな、同志。北で会おうぜ」
ひらひらと手を振って、ダンテは夕陽の中を去っていった。人垣が、また自然と割れていく。
その背中が見えなくなるまで見送ってから、エレナは、ぐしゃぐしゃになった髪を手で整えた。
「……ねえ、ローワン」
「な、何?」
「結局、腰の比喩って」
「千回振ってくる!」
ローワンは、全力で丸太の方へ逃げ出した。その背中を見て、ユリウスが、珍しく声を立てて笑った。
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