Ep.4-6 閃光の魔術師ですから
四月に入り、王都の通りには、ようやく春らしい柔らかな陽射しが戻ってきた。
ギルドの訓練場の片隅で、エレナは膝ほどの高さに浮かべた光の板の上に立ち、慎重にもう片方の足を宙へ踏み出した。
一枚目と、寸分違わぬ形の板が生まれる。二枚目。三枚目。
「……四枚目で崩れた」
足元の板がふっと掻き消え、エレナは軽やかに地面へ降り立った。少し離れた場所で見ていたローワンが、手元の紙に印をつける。
「それでも、先月は二枚が限界だったよ。倍になってる」
「ローワン、いちいち数えてるの?」
「エレナが自分で数えないから」
もっともな指摘に、エレナは口を尖らせた。誕生日の夜に初めて掴んだ感覚は、二ヶ月かけて、ようやく少しずつ体に馴染み始めていた。火種なら、もう十回続けても形が崩れない。足場の魔法となると、まだこの有様だったが。
「駆け抜ける速度で剣を振りながら、となると、まだ先は長そうですね」
ユリウスが、杖を手にしたまま静かに言った。
「分かってるってば。……でもさ、なんか最近、頭の中がちょっとだけ静かになった気がするんだよね。前はいちいち道を描いてたのが、描かなくて済むようになってきたから」
「意識の一部が空く、というのは、そういう感覚なのかもしれません」
「たぶんね」
そんなやり取りをしていると、訓練場の入口から、ミラが小走りに駆けてくるのが見えた。
「三人とも、ここにいたのね。――支部長が呼んでるわ。今日は、お客様も一緒よ」
その声には、いつもの明るさの下に、どこか張り詰めた響きがあった。三人は、顔を見合わせた。
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支部長室の扉を開けると、書類の山の向こうに座る支部長の隣に、見覚えのある男が立っていた。
国軍の軍装をまとった、壮年の士官。去年の秋、拠点確保作戦の際に何度か顔を合わせた男だった。相変わらず、名乗る気はないらしい。机の上には、あの時と同じように、書き込みだらけの簡易的な地図が広げられている。
「来たか。座ってくれ」
支部長の声は、いつもより低かった。三人が腰を下ろすのを待って、士官が口を開いた。
「単刀直入に話す。今年の秋、王国はグランマルク公国へ、大規模な援軍を送る。その遊軍に、君たちの参加を要請したい」
淡々とした、しかし有無を言わせぬ口調も、去年と変わらなかった。
「大規模、というのは」
ユリウスが尋ねると、士官は地図の上に指を置いた。
「一万五千」
その数字に、ローワンが息を呑んだ。去年の作戦で集結地点を埋め尽くしていた人と物資の群れですら、エレナたちには途方もない規模に見えた。あれが、北方全体の作戦の一部に過ぎないと聞かされた時も驚いたが、今度はその比ではない。
「この冬、公国から王国に対して、正式に併合の申し入れがあった」
士官は、表情一つ変えずに続けた。
「陛下はこれを断られた。その代わり、同盟国として、これまでにない規模の援軍を送ると約束された。公国の北側には穀倉地帯がある。今はその大半が魔族の手に落ちている。雪が降る前に戦線を押し戻し、来年の春に種を蒔けるようにする――それが、今回の作戦の目的だ」
「……どうして、併合は断ったんですか」
エレナが、ぽつりと尋ねた。士官は一瞬だけ彼女に目を向けたが、答えたのはユリウスだった。
「併合すれば、王国の国境がそのまま前線になります。公国を同盟国として残しておけば、間に一枚、壁が挟まる。……そういう計算でしょう」
「その理解で、概ね正しい」
士官は否定しなかった。
「公国の側からすれば、緩衝地帯として使い潰されるのかと思ったことだろう。だが、援軍の規模を聞いて、考えを改めたそうだ。少なくとも陛下は、公国を見捨てるつもりはない」
エレナは、黙って地図を見つめていた。線一本の向こうとこちらで、守られる者と、壁にされる者が分かれる。それが国というものの理屈なのだと頭では分かっても、胸の奥のどこかが、かすかにざらついた。
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「去年の作戦では、遊軍が敵の助攻を捕捉し、本隊に届く前に食い止めた。砦を確保できたのは、それがあったからだ。君たちの働きも含めてな」
士官の言葉に、三人の表情がわずかに強張った。
食い止めた、という一言の裏に、フィンが倒れたあの日がある。成功と呼ばれる作戦の中にも、帰ってこなかった者はいた。
「一昨年、公国はこの助攻による浸透作戦に嵌り、指令拠点を潰されて前線を大きく後退させた。去年は、それを遊軍で防いだ。……だが、防いだことで、分かったこともある」
士官の指先が、地図の上の駒を一つ摘まみ上げた。
「去年、敵が出してきた助攻は、数で言えばさほどのものではなかった。それに対して、こちらは森の捜索に、それを遥かに上回る兵を割いている。助攻というのは、実際に刃を交える前から、ただ『出す』というだけで、相手の兵を縛る」
「……向こうも、それに気づいた、と」
ユリウスが低く呟くと、士官は駒を指先で転がしながら続けた。
「そう考えるべきだろう。今年、敵が取りうる手はいくつかある。去年と同じく、少数の助攻でこちらの兵を縛る。あるいは、助攻を出す素振りだけを見せて、一兵も割かずにこちらを警戒させる」
「来ないかもしれないなら、放っておけばいいんじゃ……」
ローワンが、おずおずと口を挟んだ。
「その読みに賭けて森を空けた時、敵が逆を突いて、一昨年を上回る規模の助攻を送り込んできたらどうなる」
ローワンは、言葉に詰まった。答えは、地図の上にある一昨年の後退線が、そのまま示していた。
「警戒して来なかった場合の損は、兵を遊ばせることだけ。警戒せずに来られた場合の損は、本陣そのもの……。釣り合いませんね」
ユリウスの言葉に、士官は初めて、わずかに口の端を上げたように見えた。
「そういうことだ。だから、こちらの最善手は決まっている。前線の正面には出さないが、いざ助攻が来れば、確実に戦力として働ける部隊を、本陣の周りに張り付けておく。来なければ、遊ばせておけばいい。来れば、叩く」
士官は摘まんでいた駒を、本陣を囲む位置に置いた。そこへ、さらにいくつかの駒が並べられていく。
「遊撃隊は、傭兵団からおよそ千、冒険者ギルドから五百を出してもらう。正面の戦列に並べるには少なく、かといって遊ばせておくには惜しい戦力だ。そういう役回りには、少人数でも自分たちで判断して動ける冒険者がうってつけだ。君たちには、その一隊に加わってほしい」
「要するに、保険のようなものですね」
ユリウスが、商人の息子らしい言い方でまとめた。
「何も起きなければ、払った分は掛け捨てになる。ですが、掛けずにいて何か起きた時の損に比べれば、安いものです」
「えー、じゃあ、来なかったら、ずっと待ってるだけってこと?」
エレナが、少しだけ不満そうな声を上げた。
「暇なのは、ちょっとやだなあ」
「暇な方がいいよ……」
ローワンが、しみじみと呟いた。去年の秋のことを思えば、それは心の底からの本音だった。
「冒険者の扱いについては、俺の方から説明させてもらう」
支部長が、横から口を挟んだ。
「去年、ダードがねじ込んだ条件を、今年は最初からギルドとして正式に通した。冒険者は、傭兵団の指揮下には入らない。軍の要請はギルドを通して受け、遊撃隊も冒険者だけで編成する。危険度の高い作戦に回すかどうかは、その都度ギルドとお前たち自身の了承が要る。……軍の直接の指揮下に入る傭兵とは、そこが違う」
「それって、いいことなんですよね?」
ローワンが、確かめるように尋ねた。
「お前らの身を守るって意味ではな」
支部長は、言葉を選ぶように一度口を閉じた。代わりに、士官が言葉を継いだ。
「その分、名誉は期待しないでもらいたい」
あまりに率直な物言いだった。
「軍の戦功報告に名が載るのは、軍の指揮下で危険を引き受けた者だけだ。冒険者の働きは、ギルドの実績としては正しく記録される。昇級にも加算される。だが、世間に語られる武勲は、ほとんど傭兵団のものになるだろう。……これは隠し立てではなく、そういう仕組みだ。最初に言っておく」
「別に、名誉が欲しくて冒険者やってるわけじゃないので」
エレナがあっさりと言うと、士官はほんのわずかに眉を動かした。それが驚きなのか、感心なのかは、三人には読み取れなかった。
「期間は、秋口に出立して、雪で戦が止まるまで。順調に運べば、ひと月前後といったところだ。その前に、夏の間、週に二度ほど遊撃隊の合同訓練を行う。訓練のない日は、普段通り依頼を受けてもらって構わない」
士官は、そこで一度言葉を切った。
「報酬は、合同訓練が一回につき大銀貨一枚。本作戦は、出立から停戦まで通しで参加して、一人あたり金貨十枚を基本とする。その上で、作戦への貢献に応じて上乗せする。去年のように、助攻を発見して撃破するほどの働きがあれば、倍もあり得る」
「去年は、金貨五枚で五日間でしたが」
ユリウスが、静かに確かめるように言った。
「去年も、一回の参加でいくら、という契約だ。たまたま君たちの参加が五日間で済んだだけだ。初日に助攻と当たらなければ、伸びた可能性は十分にあった」
士官は、表情を変えずに続けた。
「今回は、最初からひと月を見込んでいる。その分、基本を倍にした。……隠すつもりはない。それでも、割のいい仕事とは言えないだろう」
士官は、それ以上取り繕おうとはしなかった。
士官は地図を畳むと、三人をまっすぐに見た。
「返答は、今日でなくていい。十日以内に、ギルドを通して伝えてくれ」
それだけ言うと、士官は一礼して部屋を出ていった。扉が閉まり、足音が遠ざかるまで、誰も口を開かなかった。
————————
「……支部長さんは、今回も反対ですか」
沈黙を破ったのは、エレナだった。
支部長は、しばらく天井を見上げていた。やがて、絞り出すように答える。
「去年と同じだ。良いとは思ってねえよ。……ただな」
視線が、三人へと戻ってきた。
「去年、お前らは帰ってきた。フィンは、帰ってこなかった。今年、一万五千の中に何人の帰ってこない奴が出るか、俺には分からん。それでも、お前らみたいな連中が遊撃隊にいるかいないかで、その数は確実に変わる。……そう思っちまうのも、本音だ」
板挟みの苦しさは、去年の冬と同じだった。それでも今年は、そこに隠しきれない信頼が混じっていた。
「お前らの意思は、お前らのものだ。無理強いはしない。じっくり考えてくれ」
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ギルドを出ると、春の陽射しが、さっきまでと何も変わらずに通りを照らしていた。行き交う人々の顔にも、北方の戦の影はほとんど見えない。
三人は、しばらく黙って歩いた。
宿へ向かういつもの道。パン屋の前を過ぎ、花売りの屋台の前を過ぎる。顔見知りの花売りの娘が手を振り、エレナが振り返す。それでも、誰も話を切り出さなかった。
広場の噴水の前で、エレナが不意に足を止めた。
「私は、行く」
迷いのない声だった。
「去年、避難民のキャンプで、お父さんを村に残してきた子に会ったでしょ。あの時、私、何もできなかった。……もっと遠くまで手が届くようになったら、今度は間に合いたいって思ったの」
噴水の水音が、彼女の声の後ろで静かに続いている。
「それに、フィンのこと。あんな風に、後ろから狙われて終わる人を、もう一人でも減らせるなら。遊撃隊って、そういう仕事なんでしょ」
「うん」
答えたのは、ローワンだった。
「エレナが行くなら、僕も行くよ」
あまりにもあっさりとした返事に、エレナの方が目を瞬かせた。
「……ローワン、ちゃんと考えた?」
「考えたよ。考えたけど、答えは最初から同じだったから」
ローワンは、少し照れくさそうに笑った。
「それに、エレナが先走りそうになったら止めるのは、僕の役目でしょ。初陣の夜に決めたじゃない」
「……うん。決めた」
エレナは、少しだけ俯いて、それから笑い返した。
二人の視線が、自然とユリウスへと向いた。
ユリウスは、噴水の縁に目を落としたまま、しばらく黙っていた。
「ユーリは……」
エレナが、言葉を選ぶように口を開いた。
「無理しなくていいからね。秋から、学園でしょ。ずっと頑張って貯めてきたんだもん。ユーリが行かないって決めても、私たち、絶対に責めたりしない。ちゃんと応援する」
「僕も。ユーリがどっちを選んでも、それがユーリの答えなら、それでいいと思う」
ローワンも、静かに言葉を添えた。
ユリウスは、顔を上げた。二人の目は、本気だった。気遣いの言葉ではなく、本当にどちらを選んでも受け止めるつもりでいる目だった。
「……実は、昨夜のうちに、一度計算はしてみたんです」
ユリウスは、少しだけ苦笑するように言った。
「今回の報酬は、拘束される期間を考えれば、普段の依頼と比べてもせいぜい数倍です。ですが、命を落としかける危険は、それよりずっと高い。期待値で考えれば、まったく割に合わない仕事です。学費が既に足りている私にとっては、なおさら」
「うん」
「ですが」
ユリウスは、一度言葉を切った。
フィンの葬儀の日、泣き崩れる両親を前にして、ようやく気づいたことがある。損得から始めたはずの関係は、とっくに別のものに変わっていた。あの日に出た答えは、今も何一つ変わっていない。
「計算で決めることでは、なかったようです。……あなた方が行くのに、私だけ王都で教科書を開いている姿が、どうしても想像できませんでした」
「ユーリ……」
「それに」
ユリウスは、いつもの澄ました顔に戻って、淡々と続けた。
「大丈夫です。北方の戦争は、冬前に必ず停戦します。秋の入学に間に合うかは微妙ですが、手続きさえ終わらせておけば、多少の遅れは取り返せます」
そこで一拍、間を置く。
「私は、閃光の魔術師ですから」
噴水の水音だけが、しばらく響いていた。
エレナとローワンは、揃って口を半開きにしたまま、ユリウスの顔をまじまじと見つめていた。
「……ユ、ユーリが」
「冗談を、言った……!」
「何ですか、その反応は」
ユリウスは、むっとしたように口を引き結んだ。だが、その耳の先は、誕生日の朝と同じくらい赤くなっていた。
「だって! あれだけ嫌がってたじゃん、その二つ名!」
「嫌がってなどいません。……少し、気恥ずかしかっただけです」
「今、自分で名乗ったよね!? ローワン、聞いたよね!?」
「聞いた。ちゃんと聞いた」
「繰り返さないでください」
顔を背けるユリウスの肩を、エレナが笑いながら叩く。ローワンも、堪えきれずに声を上げて笑った。広場を行き交う人々が、何事かと振り返っていく。
ひとしきり笑ってから、エレナは目尻を拭って、二人を見た。
「じゃあ、決まりだね。三人で行こう」
「ええ」
「うん」
三つの返事が揃った。春の風が、噴水の飛沫を細かく散らしていった。
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その夜、宿の食堂で話を聞いたロゼッタは、しばらく何も言わずに、手の中の布巾を握りしめていた。
「……そうかい」
ようやく出てきた声は、いつもより少しだけ掠れていた。
「止めたって、聞きゃしないんだろうね。姐さんの娘と、ベルンの娘と、あたいの息子と、その友達だもの」
「ロゼさん、私、一人で二人分数えられてない?」
「数えたっていいだろ、それくらい」
ロゼッタは、ようやく小さく笑った。それから、三人の顔を一人ずつ見て、はっきりと言った。
「ちゃんと、三人で帰っておいで。それだけ約束してくれたら、あたいはもう何も言わないよ」
「約束する」
エレナが答えると、ローワンとユリウスも、まっすぐにロゼッタを見返した。
厨房の奥で、鍋を洗う手を止めたアルドが、こちらに背を向けたまま、低く一言だけ言った。
「……必ず帰ってこい」
それだけだった。それだけで、十分だった。
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