Ep.4-5 十七歳の宿題
二月の朝は、今年もまた、息が白く凍る寒さだった。
「おはよう!」
階段を駆け下りてきたエレナの声が、まだ火の入りきらない食堂に響いた。いつもの寝癖もそのままに、顔だけはやけに晴れやかだ。
「おはよう、エレナ。今日は早いね」
厨房から皿を運んできたローワンが、少し驚いたように目を瞬かせた。ユリウスは既に席に着いていて、湯気の立つ茶を前に手帳を広げている。
「ふふん。今日はね、ちゃんと覚えてたんだから」
エレナは胸を張って、二人の顔を交互に見た。去年は誕生日そのものをすっかり忘れていて、ロゼッタに呆れられた。今年は違う。数日前から、ちゃんと指折り数えていたのだ。
ところが、ローワンは首を傾げただけだった。
「覚えてたって、何を?」
「え」
「今日の依頼のことですか」
ユリウスが、手帳から顔を上げずに言った。
「薬草の採取です。東の丘の、雪解けの早い斜面ですね。……今日は、特に、何の変哲もない、二月の、平日ですから。気を引き締めて行きましょう」
妙に区切りの多い言い方だった。エレナは、しばらく口を半開きにしたまま固まっていた。
「……え、えっと。うん。そうだね。薬草ね」
「そうそう、薬草」
ローワンが、いつもより少しだけ早口で相槌を打つ。そのまま、逃げるように厨房へ引っ込んでいった。
(あれ……? もしかして、二人とも忘れてる……?)
去年の自分のことを思えば、文句を言える立場ではない。それでも、胸の真ん中に、小さな穴が空いたような気がした。
厨房の奥では、ロゼッタが鍋をかき混ぜる手を止めずに、ローワンに何事か囁いていた。その声は、エレナのところまでは届かなかった。
————————
東の丘の斜面は、ところどころ雪が溶けて、黒い土が顔を出していた。日当たりのいい場所には、もう早春の薬草が小さな葉を広げている。
「この辺り、結構あるね」
しゃがみ込んで根元を探りながら、エレナは努めて普段通りの声を出した。むくれているのを悟られるのは、何だか悔しかった。
「エレナ、そっちの斜面、足元が緩んでるから気をつけて」
「分かってる」
返事が、自分でも驚くほど素っ気なかった。ローワンが一瞬、困ったような顔をする。
少し離れた場所で、ユリウスが籠に薬草を収めながら、ぽつりと言った。
「それにしても、今日は、本当に、何もない日ですね」
「……さっきもそれ言ってたよね」
「そうでしたか」
「言ってた」
エレナがじっと見つめると、ユリウスはふいと視線を逸らした。その耳の先が、寒さのせいとは思えないほど赤い。
ローワンが、額に手を当てて天を仰いでいた。
(……ん?)
エレナの中で、何かが引っかかった。だが、その引っかかりを掴む前に、ローワンが慌てたように声を上げる。
「あっ、ほら、エレナ! あそこ、群生してる!」
「え、どこどこ」
指差された先に、薬草が固まって生えていた。籠がみるみる重くなっていくのに気を取られているうちに、さっきの引っかかりは、どこかへ紛れてしまった。
————————
依頼品を納めてギルドを出ると、日はまだ高かった。
「私、ちょっと寄るところがあるから」
そう言って、エレナは墓地の方角へ足を向けた。今日が何の日であれ、この日に両親の墓へ行くことだけは、毎年欠かしたことがない。
「僕たちも行くよ」
当たり前のようにローワンが並び、ユリウスも黙ってその後ろについてきた。エレナは少しだけ意外そうな顔をしたが、何も言わなかった。
街外れの墓地は、静かだった。ベルナルドとヴィオラが並んで眠る墓の前で、エレナは道すがら買った小さな花束を供える。
「父さん、お母さん。来たよ」
墓石の表面に薄く積もった雪を、手のひらでそっと払う。冷たさが、指先にじんと沁みた。
「報告がいっぱいあるんだ。えっとね、まず、C級になりました。特例試験っていうのを受けて、B級のパーティーと模擬戦して、勝ったんだよ。三人で」
後ろで、ローワンとユリウスが黙って聞いている。
「それでね、その後、すっごく強い人にこてんぱんにされた。ロレンツォさんっていう人。空中に足場作って、ぴょんって跳んでくの。格好良かったなあ。……その人に聞いたんだけど」
エレナは、少しだけ口を尖らせた。
「父さん、十六の時に、同じ特例試験をソロで受けたんだって? B級四人まとめて、十数える前に全員倒したって。それで試験の決まりまで書き換わったって。……そういうの、なんで教えてくれなかったの」
墓石は、もちろん何も答えない。それでも、エレナには、父が困ったように頭を掻いて「まあ、色々あったさ」と笑う顔が、ありありと浮かんだ。
「ずるいよね。お母さんの話はいっぱいしてくれたのに、自分の話になると、すぐ誤魔化すんだから」
文句を言う声は、どこか楽しそうだった。
「それと、お母さん」
ほんの少しだけ、声の調子が変わる。
「私が魔法を使う時に見えてる道みたいなやつ、あれ、すごく珍しいものなんだって。学園の偉い先生が、記録にも一件もないって言ってた。……お母さんにも、同じものが見えてたのかな」
ヴィオラが詠唱を必要としなかったことは、父から何度も聞かされていた。けれど、母の目に何が映っていたのかまでは、父も知らなかったはずだ。それを確かめる術は、もうどこにもない。
それでも、と思う。同じものを見ていたのなら、自分はほんの少しだけ、母の見ていた景色に近づけたのかもしれない。
「十七歳になりました。今年も、ちゃんと稼ぐからね」
最後にそう言って、エレナは立ち上がった。
振り返ると、ローワンがなぜか目を潤ませていて、ユリウスは墓石に向かって、深々と頭を下げていた。
「……二人とも、どうしたの」
「な、何でもないよ」
「何でもありません」
ぴったり揃った返事に、エレナは首を傾げた。墓地を出る道の脇では、去年の今頃は固く閉じていた木の蕾が、心なしか膨らみ始めているように見えた。
————————
日が落ちて宿に戻ると、食堂の扉の前で、ローワンが急に足を止めた。
「エレナ、先に入って」
「え、なんで」
「いいから」
背中を押されるまま扉を開けた、その瞬間。
「エレナ、十七歳おめでとう!」
ロゼッタの大きな声と一緒に、食堂の灯りが一斉に明るくなった。テーブルの上には湯気を立てる大皿がいくつも並び、真ん中には、アルドが焼いたらしい丸いパンが、どんと鎮座している。
エレナは、扉の前で立ち尽くした。
「……え」
「驚いた?」
背後から、ローワンが覗き込むように言った。その顔は、悪戯が成功した子供そのものだった。
「去年は自分で忘れてたからね。今年はこっちが忘れたふりして、驚かしてやろうって話になったんだよ」
腰に手を当てたロゼッタが、得意げに笑う。
「ロゼさんの発案?」
「あたいの発案。ローワンが乗って、ユリウスも渋々ね」
エレナは、ゆっくりとユリウスの方を振り返った。
「……ユーリ」
「はい」
「今日、何回『何もない日』って言った?」
「……三回、だったかと」
「多すぎ! 朝からずっと怪しかったもん! 耳まで真っ赤だったし!」
「やはり、私には向いていませんでしたか」
心底悔しそうに眉を寄せるユリウスに、ローワンが堪えきれずに吹き出した。
「僕、途中で何回、止めようと思ったか分からないよ。ユーリさ、言わなくていいことを毎回足すんだもん」
「黙っていると、かえって不自然かと思いまして」
「それが一番不自然だったんだよ……」
二人のやり取りを聞いているうちに、エレナの肩から、朝からずっと張っていた力が、ふっと抜けた。
「もう……朝からちょっと寂しかったんだからね」
むくれたまま言ったつもりだったが、声はもう、笑っていた。
「まぁ、そう責めないでやっとくれ。言い出したのはあたいだからさ。ごめんよ」
そう言いつつ、ロゼッタも笑っていた。
————————
「はい、これ僕から」
食事がひと段落したところで、ローワンが小さな包みを差し出した。開けてみると、中から出てきたのは、使い込む前の硬さを残した、弓を引くための革の手袋だった。
「手袋?」
「エレナの、弦を引く指のところがだいぶ擦り切れてたから。左手用って、出来合いのがなかなかなくて、工房の親方に頼んだんだ」
エレナは、包みから取り出した手袋を、そっと左手にはめてみた。指の長さにも、手の甲の幅にも、ぴったりと合う。
「……いつ、測ったの」
「測ってないよ。見てただけ」
当たり前のように言うローワンに、エレナは言葉に詰まった。代わりに、手袋をはめたままの手で、ぎゅっと拳を握ってみせる。
「ありがと、ローワン。大事に使う」
「私からは、こちらを」
ユリウスが差し出したのは、手のひらに乗るほどの、浅い真鍮の皿だった。縁が少し高く、底には耐火の石が薄く敷いてある。
「火皿です。火種の魔法の練習用に」
「あ、宿題の」
「ええ。この数日、食堂の隅で火種を灯しては消していたでしょう。ロゼッタさんが、いつ床を焦がされるかと気が気でない様子でしたので」
「そうなんだよ、もう」
厨房の入口から、ロゼッタが大げさに肩を落としてみせた。
「火遊びは外でやれって言っても聞きゃしないんだから。これで、あたいも安心して寝られるよ」
「火遊びじゃないってば」
むくれながらも、エレナは火皿を両手で包むように受け取った。ひんやりとした真鍮の感触が、手のひらに心地よかった。
「それと、もう一つ」
ユリウスが、エレナの荷物袋にちらりと目を向けた。
「去年お渡しした手帳、まだ使っていますか」
「使ってるよ。ほら」
エレナが袋から取り出した手帳は、表紙の角がすっかり丸くなっていた。ぱらぱらとめくると、ほとんどの頁が、大きくて少し癖のある字で埋まっている。依頼の記録、ダードの講評、フィンの指示の出し方を真似した走り書き。最後の方の頁には、ロレンツォに言われたことが、箇条書きでびっしりと並んでいた。
『回路を捨てない。残す。火種で練習。剣を振りながらでもできるように』
ユリウスは、しばらく何も言わずに、その頁を見つめていた。
「……ちゃんと、言葉にして残しているではありませんか」
「ユーリが地味に刺さること言うからでしょ」
「地味で結構です、と申し上げたはずですが」
「覚えてるよ。だから書いたの」
さらりと返されて、ユリウスは珍しく言葉に詰まった。その様子を、ローワンが嬉しそうに眺めている。
厨房から、皿を片付けに出てきたアルドが、テーブルの脇で一瞬だけ足を止めた。
「エレナも十七か」
「うん。十七」
「……早いな」
それだけ言うと、アルドはまた厨房へ戻っていった。その背中を見送りながら、ロゼッタが、少しだけ目元を拭った。
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その夜、宿の食堂の片隅で、エレナは新しい火皿を前に座っていた。皆が寝静まった後の食堂は、暖炉の残り火だけが小さく爆ぜている。
結局、ローワンとユリウスも、まだ部屋に戻らずに付き合ってくれていた。
「……よし」
小さく呟いて、火皿の上に火種を灯す。ぽう、と淡い火が揺れた。
いつもなら、ここで火を消せば、頭の中の道も一緒に崩れていく。それを、今日は崩さない。消えていく火を見送りながら、道の端を、指先でそっと摘まむように意識を向ける。
火が消えた。
道は――まだ、そこにあった。輪郭も、枝分かれも、さっきと寸分違わぬまま、頭の中に残っている。
(今だ)
描き直さずに、残った道へ、そのまま魔力を流し込む。
ぽう、と再び火が灯った。
「……ついた」
エレナが、信じられないように呟いた。ユリウスが身を乗り出し、火皿の上の炎をじっと見つめる。
「さっきの火と、形が同じです。揺れ方まで」
「ほんと?」
「ええ。前に灯していた時は、一回ごとに微妙に大きさが違っていましたから」
「すごいじゃん、エレナ!」
ローワンが思わず声を上げかけて、慌てて口を押さえた。上の階では、ロゼッタたちが眠っている。
三人は顔を見合わせ、声を殺して笑った。
もう一度消して、もう一度灯す。今度は、道が途中で崩れた。描き直した三度目の火は、やはり少しだけ形が違っていた。
「あー、まだ一回だけか」
「一回できたなら、二回目もできます」
「そうだね。宿題は、まだ始まったばかりだもんね」
エレナは、火皿の上の小さな炎を見つめた。手袋をはめたままの左手が、温かかった。
十七歳になった最初の夜。窓の外では、春を待つ北風が、まだ冷たく吹いていた。
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