Ep.4-4 使い捨ての回路
「ミラさん、ロレンツォさんって、まだ王都にいる?」
カウンターに身を乗り出したエレナに、ミラは書類から顔を上げて、堪えきれないように吹き出した。
「それ、今週もう四回目よ」
「え、そんなに聞いてた?」
「聞いてた。ローワンが数えてたもの」
振り返ると、ローワンは素知らぬ顔で掲示板の依頼書を眺めていた。その肩が、小刻みに震えている。
「……ローワン?」
「だって、毎回同じ顔で聞くから」
「同じ顔ってどんな顔」
「お祭りの前の日の子供みたいな顔」
むくれるエレナを横目に、ミラは引き出しから小さく折り畳まれた紙片を取り出した。
「でも、ちょうど良かった。今朝、ロレンツォさんから言付けを預かってるの。『前線に戻る前に時間が取れる。明朝、訓練場で』――それと、『魔法使いの方にも話がある』って」
ユリウスが、わずかに眉を上げた。昇格試験の日、講評の最後に投げかけられた一言を、彼も忘れてはいなかったらしい。
「やった!」
エレナが拳を握る。その勢いのまま、ミラの手から紙片をひったくるように受け取って、まじまじと文面を眺めた。
「これで、あの跳ぶやつ教えてもらえる!」
「エレナ、教えるとはどこにも書いてありませんが」
「じゃあ頼み込む」
ユリウスの冷静な指摘も、今の彼女の耳には届いていないようだった。
————————
翌朝のギルド訓練場は、霜で地面が白く固まっていた。吐く息も白い。
ロレンツォは、既に訓練場の中央にいた。外套の裾を風に揺らしながら、細身の剣を腰に佩き、銀灰の短髪には朝の光が鈍く反射している。早朝の冷気の中でも、その立ち姿には寸分の緩みもなかった。
「来たか」
「おはようございます! あの、早速ですけど、あの跳ぶやつ――」
「先に、こっちの用を済ませる」
勢い込むエレナを片手で制すると、ロレンツォはユリウスへと向き直った。
「詠唱破棄。どうやってあそこに至った」
単刀直入な問いだった。ユリウスは少し考えてから、言葉を選んで答える。
「独学です。詠唱を繰り返すうちに、頭の中に道筋のようなものが浮かぶようになって……あとは、その道筋を直接なぞることを、ひたすら繰り返しました」
「見えている、ということか」
「ぼんやりと、ですが。……先日は、オーレリオ先生に私のことをお伝えいただいたそうで、ありがとうございました」
「礼を言われることじゃない。あの先生、あの後わざわざ俺のところにも顔を出していったぞ。随分と興奮していた」
ロレンツォの目元が、ほんのわずかに緩んだ。
「俺の話をいくら聞いたところで、見えない者の推測にすぎん。見える者に聞いた方が早いに決まっている」
その言葉に、ユリウスが目を見開いた。
「見えて、いないのですか? それで、あれほどの……」
「見えん。だから、理屈で組んだ」
ロレンツォは、事もなげに続けた。
「似た効果を持つ魔法の詠唱を、片っ端から書き出して並べる。共通する言い回しがあれば、そこが同じ働きをしている部分だと仮定する。仮定したら、そこだけ抜き出したり省いたりして唱えてみて、その働きを調べる。それを繰り返し、詠唱の無駄な部分を特定しようとするうちに、魔法そのものが何かしらの構造を持つことに気づいた」
ロレンツォは、何かを描くように宙に手を漂わせた。
「機械のような仕組みがそこにはあるはずで、詠唱はおそらくその設計図のようなもの。ただし、人の言葉に似せてある分、かなり無駄が多いはずだ。そこからはひたすら実験を繰り返し、無駄を省き、構造の組み替えを試みた」
「そんな……危険もあるし、それに途方もない時間がかかるのでは……?」
「足場の魔法が今の形になるまで、十年はかかったな。時には不安定になった魔法が暴発して、何度か死にかけた」
淡々とした口ぶりだった。だが、その十年に積み上げられたものの重さを想像して、ユリウスはしばらく言葉を失っていた。
自分が、ぼんやりとした感覚を頼りに手探りで辿り着いた場所。そこに、この男は、見えないまま、理屈の積み重ねだけでたった一人で辿り着いている。それがどれほど凄まじいことか、その場でユリウスだけが理解していた。
「お前の方が、近道を知っている。それは才能だ。恥じることはない」
それだけ言うと、ロレンツォは、今度こそエレナの方へ向き直った。
「待たせたな。――模擬戦で見せた足場の魔法だったか」
————————
「一般に知られている詠唱はこうだ。〈形なき礎、結べ我が足下、平かなる支え、受け止めよ、然り〉」
低い声で、ロレンツォが一節を唱えてみせる。彼の足元に、淡く光る板のようなものが、膝ほどの高さに浮かび上がった。
「俺はもう唱えんが、覚えるならまずはこれからだ。慣れれば――」
「〈形なき礎、結べ我が足下、平かなる支え、受け止めよ、然り〉」
ロレンツォが言い終わるより先に、エレナが一言一句違わず繰り返していた。
彼女の足元にも、同じような光の板が浮かぶ。エレナは何の躊躇もなく、ひょいとその上に飛び乗った。
「お、乗れた」
そのまま、もう片方の足を宙に踏み出す。詠唱はなかった。それでも足の下に新しい板が生まれ、エレナの体を受け止める。一段、また一段。まるで見えない階段を上がるように、彼女の体はみるみる地面から離れていった。
「ちょ、エレナ、高い、高いって!」
ローワンの悲鳴が上がる頃には、エレナは訓練場脇の物置小屋の屋根と、ほとんど同じ高さに立っていた。
「すごい、これ楽しい! ローワンもやりなよ!」
「無理だよ! というか降りてきて!」
はしゃぐエレナの声が、冷えた空気によく響いた。
ユリウスは、杖を握ったまま、その光景を呆然と見上げている。ロレンツォもまた、腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
「……一度で、か……」
ぽつりと漏れた呟きは、誰に聞かせるためのものでもなかった。
————————
エレナが同じ要領で軽やかに地面へ降りてくると、ローワンは心底ほっとした顔で胸を撫で下ろした。それから、何か引っかかることがあるように、首を傾げる。
「ローワン、どうかした?」
「あ、いや……気のせいかもしれないんだけど」
言いかけて、ローワンは一瞬ためらった。だが、初陣の夜の取り決めが頭をよぎったのか、すぐに続ける。
「確信は半分くらい。ロレンツォさんの足場って、昇格試験の時も、さっきも、毎回同じ形だった気がするんだ。大きさも、厚みも、光り方も。でも、エレナのは……一枚ごとに、ちょっとずつ違ってた」
「え、そう?」
エレナがきょとんとする。ロレンツォの灰色の瞳が、ローワンの方へ向けられた。
「いい目だ」
短い言葉だったが、ローワンの背筋が自然と伸びた。
「俺も、同じところが気になっていた。――エレナといったな。お前、足場を一枚出すたびに、頭の中で何をしている?」
問われたエレナは、少し考えてから答えた。
「何って……詠唱した時に見える迷路みたいな道を思い描いて、魔力を通して、足場ができたら、また同じのを描いて……」
「次の道は、最初の道と同じものか」
「形は同じだけど、描き直したものが同じものかって言われたら、厳密には違うもの……なのかな?」
「やはりな」
ロレンツォは、得心がいったように顎に手をやった。
「俺はその道を『魔力回路』と呼んでいる。お前は、一度使った回路を毎回捨てて、一から組み直している。だから、出来上がるものが一枚ごとに微妙に違う」
「え、それって駄目なの?」
「駄目ではない。現にちゃんと立てていた。だが――」
ロレンツォは、自分の足元に、再び光の板を浮かべた。そして、その板が消えるのとほとんど同時に、寸分違わぬ形の板が、すぐ隣に生まれる。それが、二度、三度と繰り返された。
「俺は、一度組んだ回路を壊さずに残しておく。次からは、そこに魔力を流し直すだけだ。組み直す手間がない分、速いし、何より、頭を使わずに済む」
「残しておけるの?」
「他のやつは知らんが、俺はそうしている。お前たちのように見えないし、魔力量も多くないからな。お前のやり方は、毎回、地図を一枚描き直してから歩き出しているようなものだぞ」
その例えに、ユリウスが小さく息を呑んだ。何か思い当たる節があるのか、自分の手元の杖へ視線を落とす。
「ちょっとやってみる」
エレナは目を閉じて、もう一度足場を浮かべた。今度はそれに乗らず、消えていく板を見送りながら、眉間に皺を寄せる。
「残す……残す……あっ」
ぱっと目を開けた途端、次の板は、またしても少しだけ形の違うものになっていた。
「消えちゃった。使い終わったら、道ごと崩れちゃう」
「だろうな」
意外そうでもなく、ロレンツォは言った。
「その魔力量なら、毎回使い捨てても息切れはしないだろう。だから誰も気づかなかったし、お前自身も困らなかった。……だがな」
声が、わずかに低くなる。
「組み直すたびに、お前の意識の一部が回路を描くことに持っていかれている。火種を灯すくらいなら問題はない。だが、剣を振りながら、矢を番えながら、それをやるなら話は別だ。格上との斬り合いで、その一部が欠けたまま戦うことになる」
エレナの表情から、はしゃいだ色がすっと消えた。
「……昇格試験の時、ロレンツォさんに全然反応できなかったのも?」
「あれは単純な力量差だ。だが、無関係とは言わん」
正直な答えだった。エレナは、しばらく自分の手のひらを見つめていた。
「宿題をやる。火種でいい。一度灯した道を、消したあとも残しておく練習をしろ。灯して、消して、残った道にもう一度流す。それができれば、足場でも盾でも、同じことができる」
「火種でいいの?」
「一番簡単な回路で覚えるのが、一番早い」
「あと、盾って何? それも教えてくれる?」
「足場の魔法でも回路の使い回しができるようになったらな」
「分かった。やってみる!」
エレナは素直に答えた。その傍らで、ユリウスは、何事かを考え込むように黙り込んでいた。
(回路を、残したまま……)
組み上げた回路を、壊さずに頭の中に置いておけるのなら。その間に、もう一つ別の回路を描くことも――
そこまで考えて、ユリウスは自分の思考を打ち切った。まだ、言葉にするには輪郭が曖昧すぎる。それでも、その考えの切れ端は、小さな棘のように、頭のどこかに引っかかったまま残った。
————————
一通りの稽古を終える頃には、霜もすっかり溶けていた。訓練場の隅の長椅子に腰を下ろし、ローワンが水筒を回す。
「そういえば」
水を一口飲んでから、エレナがロレンツォを見上げた。
「支部長さんが言ってたんです。昇格の特例を、ソロで使ったのは父さんだけだって。……その話は、そのうち、って言われたきりで……ロレンツォさんは何か知ってます?」
ロレンツォの手が、一瞬止まった。
それから、彼は長椅子の背にもたれ、どこか遠くを見るような目をした。昇格試験の講評の時とも、今日の稽古の時とも違う、熱を帯びた目だった。
「俺も、聞いた話でしか知らん。だが、この王都のギルドで、あの話を知らない古株はいない」
「どんな話なんですか」
「ベルナルド殿が、まだ十六の頃だそうだ。D級で、ソロで、期間の要件だけが足りなかった。それで、お前たちと同じ特例を使うことになった」
ロレンツォは、そこで一度言葉を切った。
「相手に用意されたのは、当時のB級パーティー。四人だ。試験官が、さすがにソロ相手に四人は気の毒だと思ったらしい。二人ずつ順番に、と提案した」
「父さん、なんて言ったんですか」
「『全員まとめてで構いません。その方が早いので』」
エレナが、ぽかんと口を開けた。ローワンとユリウスも、思わず顔を見合わせる。
「試験官が開始の合図に上げた手を、下ろし切る前に、一人目が地面に転がっていた。残りの三人も、数を十も数えないうちに、全員だ」
「……十、も」
ローワンが、呆然と呟いた。昇格試験で、自分たちは三人がかりで、どれほどの時間をかけて白百合の誓いと渡り合ったか。その記憶と比べると、とても同じ試験の話とは思えなかった。
「その日のうちに、試験要項に一文が書き足された。『単独受験者の相手は、一パーティーまでとする』――以来、ソロで特例に挑んだ馬鹿は一人もいない」
最後の一言だけ、ロレンツォの口調に、珍しく冗談めいた響きが混じった。
「ちなみに俺は、二年分、律儀に待った口だ。ベルナルド殿の話を聞いて、俺も特例で上がってやると息巻いたが、誰にも推されなかった」
「ロレンツォさんでも?」
「若い頃の俺は、今のお前たちより、ずっと弱かった」
あっさりと言ってのけるロレンツォに、エレナは、何とも言えない顔をした。
「……知らなかった。父さん、自分の昔の話って、あんまりしなかったから」
母のことなら、せがめばいくらでも話してくれた。出会った夜のこと、旅先での喧嘩のこと、母がどれほど強く、どれほど意地悪で、どれほど優しかったか。けれど父自身の武勇伝となると、話はいつも途中で終わった。「まあ、色々あったさ」と笑って、頭を撫でられて、それでおしまいだった。
「そういう人だったと聞いている」
ロレンツォの声は、静かだった。
「自分の手柄を、自分の口で語らない。だから、こうして周りが語り継ぐしかなくなった。……俺は、ずっとあの人に憧れてきた」
それから、彼はふとエレナの方へ顔を向けた。
「正直に言っておく。昇格試験の日、俺はお前に、大した期待をしていなかった」
「え?」
「ベルナルド殿の娘とはいえ、女で、しかも亜人だ。まあ、その程度だろうと、どこかで思っていた。……見るまではな」
ローワンが、わずかに身を固くした。ユリウスも、黙ってロレンツォの横顔を見つめている。
当のエレナは、少しの間、目を瞬かせていた。それから、何でもないことのように笑った。
「見て決めてくれたなら、それでいいよ。見もしないで決めつける人より、ずっといい」
その答えに、ロレンツォは虚を突かれたように黙り込み、やがて、ふっと口の端を緩めた。
「……そうか。悪かったな」
「ううん。それに、今日いっぱい教えてもらったし」
「宿題を忘れるなよ」
「忘れない!」
————————
翌日、ロレンツォは再び北へ発った。
見送りに行ったわけではない。ただ、ミラから「今朝早く、発ったそうよ」と聞かされただけだった。最後の言付けは、短い一行だった。
『次に会う時は、北かもしれんな』
その夜、宿の食堂の片隅で、エレナは小さな火種を灯しては消し、消しては灯していた。
「……あっ、また崩れた」
「これで何回目?」
「数えてない」
ローワンの問いに、エレナはむっとした顔で答える。その隣で、ユリウスは書き物用の眼鏡をかけ、黙々と手帳に何かを書きつけていた。
「ユーリ、何書いてるの?」
「今日の、ロレンツォさんの詠唱の分析方法です。似た詠唱を並べて共通項を探す。……私は、見えるものに頼りすぎていたのかもしれません」
「ふうん。真面目だねえ」
そう言いながら、エレナはもう一度、火種を灯した。小さな炎が揺れて、ふっと消える。
その瞬間、彼女は目を閉じた。消えたあとに残るはずの道を、崩さないように、そっと掴むように意識を向ける。
ほんの一瞬。道の端が、指先に引っかかったような感触があった。
「――あ」
「どうしたの?」
「……ううん。なんでもない」
エレナは、ローワンに笑って首を振った。まだ、言葉にできるほどの手応えではない。それでも、昨日までの自分には、決して掴めなかったものだった。
厨房の奥から、ロゼッタの声が飛んでくる。
「エレナー、火遊びもいいけど、そろそろ夕飯にするよー!」
「火遊びじゃないってば、宿題!」
言い返しながら、エレナは最後にもう一度だけ、小さな火を灯した。北の空には、今夜も冷たい星が瞬いていた。
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