閑話 好きに呼びなさい
「ヴィオラの館」の裏手からは、時折、赤ん坊の泣き声が聞こえてくることがあった。
娼館の裏から赤子の声がするというのは、傍から見れば奇妙な話だった。だが事情を知る者にとっては、いつものことでしかない。
王都の孤児院は、乳飲み子までは面倒を見きれない。里親が見つかればいいが、見つからない女児の場合、孤児院はしばしば、大口の出資者であるヴィオラに相談を持ちかけた。そしてヴィオラは、器量が良く、見込みのありそうな子であれば引き取った。本人の意志次第で、いずれ娼婦として育てるか。あるいは五歳までこの館で育てた後、改めて孤児院へと戻すか。
倫理観としては、褒められたものではない。それでも、拾わなければ死んでいたかもしれない命が、この館の裏で、何人も泣き声を上げて育っていた。
ロゼッタも、そんな一人だった。
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物心ついた頃には、既にこの館の裏で暮らしていた。世話をしてくれたのは、裏方仕事をしていた乳母と、そしてもう一人――田舎から出てきたばかりの、幼い禿だった。
客を取るにはまだ早い年頃のその禿は、拾われてきた赤ん坊たちの世話係を任されていた。不器用ながらも面倒見がよく、ロゼッタにとっては、物心つく前からずっとそばにいる、姉のような、母のような存在だった。
「ロゼ、こら、また泥だらけになって」
そう言って呆れながらも、乾いた布で顔を拭いてくれる手は、いつも優しかった。
「あたい、こんど、もっとおっきい泥だんご作るから。ちゃんと見ててよ」
「はいはい、あたいがちゃんと見てるから、危ないことはおしよ」
その禿の一人称は「あたい」だった。物真似が得意な年頃だったロゼッタは、いつしかそれをそのまま覚え、自分の一人称にしてしまっていた。誰に教わったわけでもない、ただ、一番そばにいた人の言葉が、そのまま染みついただけだった。
その禿は、やがて年頃になり、新米娼婦として客を取るようになった。だが残念ながら、器量には恵まれず、あまり指名はつかなかった。結局、暇を持て余した時間の大半は、変わらずロゼッタたち――館の裏で拾われた子供たちの世話に費やされることになった。
「またあの人、子供の世話ばっかりだね」
「まあ、いいんじゃないかい。あの子には、それが向いてるんだろうさ」
古参の女たちは、そんな風に軽口を叩きながらも、その光景を微笑ましく見守っていた。いつしか裏庭は、館の女たちから「ヴィオラ幼稚園」と揶揄交じりに呼ばれるようになっていた。
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その館の女主人――ヴィオラは、滅多に裏庭に顔を出さなかった。奥の一室で帳簿を睨みつけているか、客の相手をしているか。たまに姿を見せると、世話係の禿でさえ、少しだけ背筋を伸ばす、そんな存在だった。
だが年に数回、ふらりと裏庭に現れては、無言で子供たちの様子を眺めていくことがあった。何をするでもない。ただ、しばらく立っているだけ。それでもロゼッタは、その紫紺の瞳がこちらを向く瞬間が、なぜだか好きだった。
ある日、女たちの噂話を耳にした。
「結局さ、あたしらみんな、姐さんに拾われたようなもんなんだよねえ」
「たしかにねえ。ここにいる子らも、みんなそうだ」
何気ない世間話だった。だが、ロゼッタの中で、その一言は妙に長く尾を引いた。日々の世話をしてくれるのは、あの新米娼婦だ。それでも、そもそも自分たちをここに連れてきたのは、いつも遠くから見ているだけの、あの人だという。
数日後、裏庭に現れたヴィオラを見つけると、ロゼッタは迷わず駆け寄った。
「姐さん、姐さん」
「……何かしら」
振り返ったヴィオラの声は、いつも通り抑揚に乏しかった。ロゼッタは、それでもひるまず、思い切って尋ねた。
「あたいのお母さんって、姐さんなの?」
一瞬、ヴィオラの瞳が、わずかに揺れた気がした。
「……違うわ」
短い沈黙の後、抑えた声が返ってきた。
「私はエルフ。あなたは人間。人間は、人間からしか生まれない」
「じゃあ、あたいのお母さんって……」
問いを重ねようとするロゼッタを前に、ヴィオラは、一度だけ言葉に詰まった。何かを誤魔化そうとするように、口を開きかけ――だが、結局そうはしなかった。
「あなたのお母さんは、孤児院にあなたを置いて、消えたわ」
淡々とした、しかしどこか突き放すような口調だった。
「残念だったわね」
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普通の子供なら、涙ぐむか、あるいは癇癪を起こすところだったかもしれない。だがロゼッタは、きょとんとした顔で、あっさりと言葉を返した。
「そうなの? でも、みんな似たようなものだって言ってたよ。姐さんが、お母さんだって」
今度は、ヴィオラの方が言葉を失う番だった。
「……何を言っているの。血の繋がりもない、種族すら違う相手を、母などと」
「だって、みんな言ってたもん。姐さんに拾ってもらったようなもんだって」
無邪気な理屈に、ヴィオラは束の間、反応に困ったように黙り込んだ。長い年月を生きてきたはずのその顔に、珍しく、扱いに窮したような色が浮かんでいた。
「……好きに呼びなさい」
やがて、ヴィオラは視線を逸らしながら、そう言った。
「あなたは、お客を取るわけじゃないんだから。何と呼ぼうと、あなたの勝手よ」
突き放すような物言いだった。それでいて、その声には、微かな震えのようなものが滲んでいた気がした。もっとも、幼いロゼッタがそれに気づくはずもなかった。
「じゃあ、これからも姐さんって呼ぶね!」
あっけらかんと笑うロゼッタに、ヴィオラは何も答えなかった。ただ、小さく息を吐き、それきり踵を返して、館の奥へと戻っていった。
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それから、ロゼッタが「お母さん」という呼び方を試すことは、一度もなかった。
好きに呼んでいいと言われても、姐さんは姐さんだった。それ以外の呼び方は、なぜだか、どうしてもしっくりこなかった。
日々の世話は、変わらずあの新米娼婦が焼いてくれた。汚れた頬を拭う手も、夜泣きをあやす声も、いつだって、あの人のものだった。それでも、自分をここに連れてきて、遠くから見守ってくれているのは、姐さんなのだという実感は、幼いなりに、ロゼッタの中にずっと残り続けた。
血の繋がりもなく、種族すら違う。それでも確かに、この人は自分を拾い、あの新米娼婦を、自分を、見守ってくれている――そのことだけは、幼いロゼッタにも、なんとなく分かる気がした。
好きに呼びなさい、とヴィオラは言った。それでもロゼッタは、姐さんを、姐さんとしか呼ばなかった。それは、突き放された言葉への意地ではなく、もっと単純な理由からだった。
姐さんは、お母さんという言葉よりも、ずっと遠くて、それでいてずっと大きな人だったから。
そして「あたい」という一人称だけが、日々世話を焼いてくれたあの新米娼婦から、ロゼッタへと、静かに受け継がれていった。
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次回より第4章となります。
数日お休みをいただいての再開の予定です。
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