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Ep.3-9 拠点確保作戦・後編

「フィン!」


エレナの悲鳴じみた声が、耳に届いた瞬間、ローワンの体は、考えるより先に動いていた。


視界が狭くなる。周りの怒声も、剣戟の音も、どこか遠くに押しやられて、見えているのは、群がる魔族の輪の向こうに沈んでいくフィンの背中だけだった。索敵の目が、群れの中の最も薄い一点を、勝手に選び出す。踏み込む。跳ぶ。剣を振るう。頭で考える暇はなかった。ただ体が、そうしろと叫んでいた。


「――させない!」


一閃。振り下ろした剣の感触が、確かな手応えを腕に伝える。魔族の体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。返す刃で、もう一体の脚を薙ぎ払う。体勢を崩した敵に、迷わず止めを刺す。半年前の自分なら、恐怖で足がすくんでいたはずの間合いだった。だが今のローワンには、恐怖を感じている余裕すらなかった。


囲みを崩し、ようやくフィンの元へと膝をついた瞬間、ローワンの息が止まった。


「フィンさん、しっかり――」


続く言葉が、喉の奥で凍りついた。


腕は、肘の少し上から深く裂かれ、白い骨が覗きかけている。だが、それ以上にローワンの目を釘付けにしたのは、腰のあたりから、じわじわと地面に広がっていく黒ずんだ血だまりだった。土に染み込んでいくその色が、あまりに濃い。生々しい鉄の匂いが、鼻の奥を刺した。


「フィンさん、聞こえますか……! 今、すぐに手当てを……!」


自分の声が、他人のもののように上擦って聞こえた。眼鏡の奥、フィンの目はうっすらと開いていたが、焦点はどこにも合っていない。荒く、浅い呼吸だけが、まだそこに命があることを、辛うじて伝えていた。震える指先が、傷口に触れようとして、力なく地面に落ちる。その仕草の小ささが、かえってローワンの手を震わせた。


「くそ……! 動かないでください、すぐに――」


止血をしようと手を伸ばす。だが、その手が届くよりも早く、新たな影が、視界の端に割り込んできた。


————————


「私が!」


叫びながら駆けつけたユリウスが、フィンの傍らに滑り込むように膝をつく。この世界に、傷を瞬時に癒す魔法などない。できるのは、せいぜい止血と消毒、痛みを僅かに和らげる程度のことだ。それでも、何もしないよりはましだった。杖を置き、震える両手で、傷口に布を押し当てようとする。


だが、その瞬間、横合いから新たな魔族が二体、雪崩れ込んできた。


「ユーリ、下がって!」


ローワンが咄嗟に割り込み、一体の得物を剣で受け止める。金属同士がぶつかり合う鈍い音。だが、もう一体は、防御の隙間を縫うようにして、ユリウスへと得物を振り上げていた。


(――治療している場合ではない)


刹那の判断だった。手当ての手を止め、ユリウスは杖を構え直す。フィンを救いたいという気持ちが、体の内側で悲鳴を上げていた。それでも、今この場で自分が斃れれば、フィンを守る手が一つ減るだけだ。冷静に、そう結論づける自分が、どこかひどく遠く感じられた。


「――貫け」


短い一言と共に放たれた氷槍が、迫っていた魔族を正確に射抜く。手加減も、魔力の出し惜しみもない、これまでにない全力の一撃だった。


「治療より先に、自分が同じ目に遭っては意味がありません……! ローワン、フィンさんを頼みます、私は前に出ます!」


叫ぶと同時に、ユリウスは杖を構えたまま、フィンを守る位置へと踏み出した。詠唱を惜しまず、次々と敵を打ち据えていく。魔力の消費を厭う余裕など、もはやどこにもなかった。


————————


その頃、エレナは、戦場の一角でたった一人、信じられないほどの数の敵を引き受けていた。


「はぁっ――!」


弓を投げ捨て、腰の剣だけを頼りに、迫る敵を次々と斬り伏せていく。囲まれる寸前で身を翻し、着地の勢いのまま次の一撃を放つ。右から迫る一体の懐に飛び込み、返す刃で背後の気配を薙ぐ。息を整える暇すらない。倒しても、倒しても、その空いた場所を埋めるように、次の敵が湧いて出た。


(このくらい、押し返せるようにならなきゃ……! 誰も、救えない……!)


腕が鉛のように重くなっていく。肺が焼けるように痛む。それでも、足を止めるわけにはいかなかった。フィンの元へ駆けつけたローワンとユリウスの分まで、この場の敵を引き受けなければならない。まるで底の見えない沼に、一人で立ち向かっているような感覚だった。


背後から、掠れた声が届く。


「……いやだ……助けて……死にたくない……」


フィンの声だった。戦闘の喧騒の合間を縫うようにして届くその声に、剣を振るうエレナの手が、一瞬だけ、明確に止まった。


「あああああああああああッ!」


悲鳴とも気合いともつかない叫びをあげて、その一瞬を無理やり振り切る。目の前の敵に、意識を集中する。今、この手を止めれば、自分も、仲間も、次の瞬間には危うくなる。分かっていても、耳の奥に張り付いたあの声は、離れなかった。声を上げるたびに、その分だけ、命が擦り減っていくのが分かるようで、エレナは何度も、喉の奥で悲鳴を噛み殺した。


————————


月見草の灯火と紅蓮の牙は、いつしか完全な防戦一方に追い込まれていた。


「押し返せ! ここで崩れるな!」


ダードの怒声が響く。だが、フィンという指揮の要を失った混成部隊は、これまでのような的確な連携を欠いていた。ガレットの盾が軋み、ドニーの槍が何度も空を切る。誰もが、目の前の敵を捌くだけで精一杯だった。


「――フィンの様子は!」


叫びながら、ヴィートがようやく、フィンの元へと駆けつけた。地に伏せたフィンの傷を検める手が、途中で止まる。血の気の引いた顔が、それだけで多くを物語っていた。


「……くそッ……!」


短く漏らされたその一言に、傍らで敵を防いでいたローワンの手が、一瞬強張った。だが、止まっている暇はない。次の敵が、既に目前に迫っていた。


戦況が動いたのは、それから間もなくのことだった。狼煙と角笛の音を聞きつけた増援が、ようやく戦場に到着したのだ。


「加勢する! 持ち堪えろ!」


新手の到着に、魔族の別動隊の勢いが、目に見えて衰えていく。数の均衡が崩れ、包囲されていたのは、いつしか魔族の側になっていた。殲滅までは、さほど時間を要さなかった。


戦いが終わった時、戦場には、奇妙なほどの静けさが満ちていた。剣が地に落ちる音、荒い呼吸、遠くで誰かが呻く声。そうした音の一つ一つが、やけにはっきりと耳に届く。


「――フィン!」


ヴィートの呼びかけが、その静けさに、鋭く響いた。


だが、返る声はなかった。


一拍。二拍。誰もが、その意味を理解することを、無意識に拒んでいた。


剣を杖代わりに肩で息をしていたエレナが、はっと顔を上げる。ローワンとユリウスが、崩れ落ちるようにフィンの傍らへと駆け寄った。ガレットとドニーも、遅れて戦場を駆け抜けてくる。


「フィン……! おい、フィン、しっかりしろ……!」


ガレットが、震える手でフィンの体を揺さぶる。返る言葉はない。閉じかけた瞼も、動かない。


誰かが、小さく息を呑む音がした。それきり、戦場には、しばらく声一つ上がらなかった。風の音だけが、やけに大きく聞こえた。


————————


敵の姿は、もうどこにもない。それなのに、誰一人として、勝利の実感を得られずにいた。


エレナは、剣を握ったまま、その場に立ち尽くしていた。何が起きたのか、頭では分かっているはずなのに、実感が追いついてこない。さっきまで確かに聞こえていた、あの掠れた声が、もう聞こえない。ただそれだけの事実が、なぜか他のどんな光景よりも、重く胸に響いていた。


「……なんで」


ぽつりと呟いたのは、ガレットだった。血の気の引いた顔で、エレナの方を振り返る。その目には、行き場のない怒りと、悲しみとが、ないまぜになって渦巻いていた。


「なんで、助けてくれなかったんだよ……!」


叫び声が、静まり返った戦場に響き渡る。理不尽な糾弾だった。エレナが真っ先に駆けつけていたわけでも、彼女一人の判断でどうにかできた局面でもない。それでも、エレナは、その言葉を遮らなかった。歯を食いしばり、ガレットの目を、まっすぐに見返す。


「……ごめん」


弁明せず、ただそれだけを返す。短い一言だったが、そこには、逃げも、言い訳も、何一つ含まれていなかった。


ガレットは、しばらくエレナを睨みつけていた。だが、その瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出す。


「なんで、なんで俺は……助けられなかったんだ……! くそッ……くそぉッ……!!」


矛先は、いつしか自分自身へと向かっていた。膝から崩れ落ち、両手で顔を覆う。指の隙間から、嗚咽が漏れる。その隣で、ドニーは声も出せないまま、ただ肩を震わせて泣き続けていた。


「ちっくしょおおおおッッ!」


ダードの咆哮が、戦場の空気を震わせた。拳を握りしめ、天を仰ぐその姿に、誰も声をかけられなかった。マルタは、何も言わずに項垂れている。レンゾは、魔力を使い果たしたのか、糸が切れたようにその場へ崩れ落ちた。


ヴィートだけが、フィンの亡骸の傍らに膝をついたまま、静かに目を伏せていた。


(俺のパーティーが、この危険を引き受けずに済んで良かった――)


そう思った自分に、ヴィートは小さな嫌悪を覚えた。だが、その感情を、無理に押し殺すこともしなかった。それもまた、紛れもない、自分の本心だった。


————————


少し離れた場所では、ローワンが、その場に立ち尽くしたまま、動けずにいた。


「……間に合わなかった」


声が、震えている。自分の声だとは思えないほど、弱々しく、掠れていた。


「あの時は、間に合ったのに。……強くなったはずなのに、今回は、間に合わなかった」


初陣の夜、恐怖を振り切って前へ出た記憶が、今、まったく違う重さを伴って蘇る。あの時は、確かに救えた。剣は届いた。だが今回は、どれだけ剣の腕を磨いても、どれだけ索敵の精度を上げても、それでも、間に合わないことがあるのだと、思い知らされた。


「間に合わなかったら、どうなるか……知りたくなかった」


膝から、力が抜けていく。かろうじて立っていた足が、ゆっくりとその場に崩れていった。誰も、その姿に声をかけられなかった。かける言葉が、見つからなかった。


————————


少し離れた場所で、ユリウスは、杖を握ったまま、ただ立ち尽くしていた。


手の震えが、まだ止まらない。魔力を使い切った体は鉛のように重かったが、それ以上に重いのは、目の前の光景だった。フィンという、参謀・知略型として自分に最も近い立ち位置にいた人間が死んだという事実は、他人事では済まされなかった。


(……私だったら、避けられただろうか)


考えて、すぐに答えが出る。


(いや。同じ結末になっていたかもしれない。死ぬのは、私であってもおかしくなかった。運に頼るべきではないが……運に、助けられたようなものです)


都合の良い結果にも、悪い結果にも、同じ厳密さで運の要素を切り分ける。それが、ユリウスの一貫した思考の癖だった。だが、いくら理屈で整理しても、目の前の光景が軽くなるわけではない。杖を握る手に、もう一度力を込め直す。それだけが、今の自分にできる、唯一のことだった。


————————


その夜、遺体を丁重に葬った一行は、重い足取りで帰路についた。


誰も、多くを語らなかった。焚き火の爆ぜる音だけが、静まり返った野営地に響いている。ガレットとドニーは、並んで座ったまま、いつまでも顔を上げようとしなかった。マルタが、時折その背中にそっと手を置く以外、誰も声をかけられなかった。


翌朝、隊列は静かに王都への道を辿り始めた。行きに見た景色が、帰りにはまるで違う色をして見える。誰の足取りも重く、会話らしい会話もないまま、一行はただ淡々と歩みを進めた。


道すがら伝わってきたところによれば、拠点確保作戦そのものは、大局としては成功だったという。孤立しかけていた砦は守り抜かれ、雪までの時間は稼げた。だが、その報せは、エレナたちの胸に何の実感ももたらさなかった。


同じ道を、とある傭兵団の一隊が並んで歩いていた。ふと見て、エレナは気づく。行きに見た時より、心なしか人数が少ない気がした。それでも、彼らの間には、やけに陽気な空気が漂っている。時折、笑い声すら上がった。


(……なんで、あんなに、普通に……)


理解できなかった。自分たちが今、どうしようもなく抱えているこの重さを、彼らは抱えていないのだろうか。それとも、抱えた上で、それでも笑っていられるのだろうか。どちらであっても、エレナには、うまく飲み込めなかった。


街道の半ばを過ぎた頃、俯いたまま歩き続けるローワンの隣を、エレナとユリウスは、何も言えないまま歩いていた。かける言葉が、どうしても見つからない。それでも、誰も、その隣を離れようとはしなかった。


しばらく無言のまま歩いていたエレナが、不意に、ローワンの手を握った。


驚いたローワンが顔を上げかけるより早く、エレナはもう片方の手で、反対側を歩いていたユリウスの手も、同じように握っていた。何も言わない。何も、言わなかった。ただ、指と指を絡めるようにして、強く、強く握りしめる。


ローワンは、一瞬だけ息を呑んだ。それから、震える手で、その手を握り返した。ユリウスもまた、何も言わないまま、静かに握り返す。


言葉にすれば、きっと崩れてしまう。誰かが泣き出せば、誰かがそれを支えなければならなくなる。今はまだ、誰も、その余裕を持てずにいた。それでも、繋いだ手の中にだけは、言葉にならない全てが、確かに流れていた。不安も、後悔も、悲しみも。それを一人で抱え込まなくていいのだという、ただそれだけのことが、今は何より必要だった。


三人は、そのまま、手を離さずに歩き続けた。誰も、その沈黙を破ろうとはしなかった。


————————


王都の門が見えてきた頃には、既に日が傾き始めていた。


見慣れたはずの街並みが、今はどこか色褪せて見える。くぐった門の向こうには、いつも通りの喧騒があった。それが、今の自分たちとひどく不釣り合いに感じられて、エレナは思わず足を止めた。


「……帰ってきたね」


呟いた声に、誰も、すぐには答えられなかった。


ローワンとユリウスが、それぞれ無言のまま、エレナの隣に並ぶ。三人はしばらく、行き交う人々の賑わいを眺めながら、ただそこに立ち尽くしていた。まだ何も整理できていない。それでも、確かに帰ってきたのだという実感だけが、少しずつ、足元に染み込んでいくようだった。


やがて、ローワンが、ぽつりと呟いた。


「……ただいま」


誰に向けたものでもない、小さな一言だった。それでも、エレナは、その言葉を確かに受け取った。


「……うん、ただいま」


短い言葉を交わしただけだった。それだけで、何かが解決したわけではない。それでも、三人は、その言葉を胸に、夕暮れの街へと足を踏み出した。


最後までお読みいただきありがとうございます!


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