Ep.3-5 まだ出ていない依頼
「今日は、軽めの依頼にしましょうか」
ギルドの受付で、ミラが労うように微笑んだ。
「昨日のオーク討伐、聞いたわよ。統率個体持ちの十五体、六人で危なげなく片付けたって。フィン君の指揮ぶりも大したものだったって話、翡翠の剣経由でもう広まってるわ」
「フィンが頑張ったんだよ! 私はおまけ」
「またそういうこと言う……」
エレナの軽口に、ミラは苦笑しながら一枚の依頼票を差し出した。
〈防壁外・避難民一次キャンプ、警備補助〉
「北方から避難してきた人たちの仮設キャンプがあってね。防壁の外、畑の合間に急ごしらえで作られてるんだけど、人手が足りなくて警備が薄いの。荒事が起きる心配は少ないと思うけど、念のため、って感じの依頼よ」
「わかりました。それなら、今日はゆっくりできそうですね」
ユリウスの言葉に、三人は軽い足取りでギルドを後にした。
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防壁を出てしばらく歩くと、なだらかな畑の合間に、粗末な天幕がいくつも並ぶ一角が見えてきた。
正規の宿泊施設とは程遠い、板と布を継ぎ接ぎしただけの小屋や、地面に直接敷かれた筵の上で座り込む人々の姿。子供の泣き声、乾いた咳、静かに交わされる会話。喧騒というより、疲弊した静けさが、その場所全体を覆っていた。
「思ったより、人数がいますね……」
ローワンが辺りを見渡しながら呟く。
「千人超えてそうだね」
エレナの言葉に、案内役のギルド職員が頷いた。
「ここ半月ほどで、一気に増えたんです。国境沿いの村々から、続々と。……街の中の施設はもう満杯で、こうして畑の合間に、急ごしらえのキャンプを広げるしかなくて」
職員は申し訳なさそうに眉を寄せた。
「本当は、もっとちゃんとした支援がしたいんですが……。とにかく人手が足りなくて。今日は、水の配給や見回りを手伝ってもらえると助かります」
三人は頷き、それぞれ持ち場についた。井戸から汲んだ水を天幕まで運ぶ手伝いをしながら、周囲に目を配る。特に荒事が起きる気配はなく、時折、子供たちがエレナの弓を珍しそうに見つめてくるくらいのものだった。
「お姉ちゃん、それ、魔物やっつける弓?」
「そうだよ。狙ったところに絶対当たるんだから」
得意げに笑うエレナに、汚れた顔の子供たちが、久しぶりに見せるような笑顔を浮かべた。その様子に、ローワンとユリウスも自然と目元を緩める。だが、その笑顔の裏にある事情を思うと、単純に喜んでばかりもいられなかった。
「あんたたち、冒険者かい」
声をかけてきたのは、疲れた顔をした年配の女性だった。荷を纏める手を止め、三人を見上げる。
「はい。今日は、こちらの警備で」
「そうかい……。ありがとうね、こんな所まで」
女性は小さく頭を下げると、ぽつぽつと語り始めた。
「うちの村は、戦に巻き込まれたわけじゃないんだよ。国境からはまだ離れてたし。……でも、魔物がね、急に増えたんだ。前はそんなに出なかった猪や熊のような魔物が森から出て、群れで畑を荒らすようになって」
「魔物が、増えた……?」
ユリウスが眉を寄せる。
「グランマルクの方で、大きな戦があってからだって噂だよ。奥地の魔物まで、何かに追い立てられるみたいに、こっちへこっちへと出てくるようになったってさ。うちみたいに、戦とは関係ない村まで、住めなくなっちまった」
女性はそう言うと、乾いた笑みを浮かべた。
「昔は、こんな時期に畑を離れるなんて考えられなかったんだけどねぇ。今年の麦も、まだ半分も刈れてなかったのに。……まあ、命があっただけマシさ。逃げ遅れた村もあるって話だしね」
「他の村も、同じような……?」
ユリウスが尋ねると、女性はゆっくりと頷いた。
「あたしらより奥の村は、もっとひどいらしいよ。噂じゃ、逃げる前に魔物に追いつかれた所もあるって。……もっとも、噂だから、どこまで本当かは分からないけどねぇ」
それだけ言うと、女性は再び荷物の整理に戻っていった。
三人はしばらく、その場から動けずにいた。
「……思っていたより、深刻かもしれません」
ユリウスが低く呟く。
「戦闘に直接巻き込まれていない地域からも、こうして避難民が出ている。……つまり、戦線の混乱が、私たちが想定していた以上に広い範囲へ波及しているということです」
「そっか……。北の方って、そんなことになってたんだ」
エレナの声には、いつもの明るさが少し陰っていた。
————————
そのまま巡回を続けていると、天幕の陰から、小さな人影が駆け寄ってきた。
七つか八つほどの、痩せた少年だった。頬に泥の跡がついたまま、エレナの前で立ち止まる。
「お、おねえちゃん、冒険者……?」
「うん、そうだよ」
少年の目に、みるみる涙が盛り上がった。
「父さんが、村に残って魔物を引きつけるから、逃げろって……。おれ、父さんを迎えに行かないと……」
震える声で、少年は必死に訴える。
「母さんは、もう泣いてばっかりで……。誰も、迎えに行ってくれないんだ。一人で残って、大丈夫なわけない……。だから、おれ、行かないと……」
小さな拳が、ぎゅっと握りしめられていた。まだ、剣を握ったことも、魔物を見たこともないだろう、その手が。
その言葉を聞いた瞬間、エレナの体が、考えるより先に動いていた。足が一歩、少年の言う方角――北へ向かって踏み出す。
「エレナ!」
ローワンの声と、「――待って」というユリウスの制止が、ほぼ同時に響いた。二人の手が、エレナの両腕をそれぞれ掴む。
「っ……」
エレナは、はっと我に返ったように立ち止まった。
「……ごめん」
小さく呟いた声には、悔しさが滲んでいた。
「先走らないって決めてたよね……でも、こんな……」
初陣の夜、自分たちで決めた約束だった。あの頃、真っ先に前へ出て仲間を危険に晒しかけたのは、他でもない自分だった。あれから何度となく、自分にそう言い聞かせてきたはずだった。それなのに、今また同じように、足が先に動いていた。
「気持ちは、わかるよ」
ローワンが、エレナの腕を掴んだまま、静かに言った。
「でも、僕らだけで北になんて行けない。行き先も、状況も分からないのに。……勢いだけで動いたら、この子のお父さんどころか、僕らまで危なくなる」
「私も同意見です」
ユリウスが、努めて冷静な声で続けた。
「おそらく、然るべき筋から救援の依頼が出されているはずです。私たちで受けられるようなら、それを受けましょう」
その言葉に、エレナは唇を噛みしめながらも、小さく頷いた。
「……うん。ごめん、少年。今すぐには、行けない」
膝を折り、目線を合わせてそう告げるエレナに、少年は縋るような目を向けたまま、しばらく何も言わなかった。やがて、職員に促されるようにして、天幕の奥へと連れられていく。その小さな背中が見えなくなるまで、エレナはその場から動かなかった。
————————
依頼を終えてギルドに戻った三人は、真っ先に掲示板へと向かった。
〈北方国境付近、村落救援〉――そう記された依頼票を、探した。
だが、見つからなかった。
該当する地域名の依頼は、どこにも貼り出されていなかった。
「……ミラさん、あの、キャンプの近くの村から、救援の依頼って」
エレナが受付に駆け寄って尋ねると、ミラは少し困ったような顔で首を振った。
「ごめんね……。今のところ、そういう依頼は出ていないわ。あの規模の避難民が出ている以上、現地に何か残っている可能性は高いと思うけど……。優先順位とか、色々な事情があるんだと思う」
「そんな……」
エレナは、それ以上言葉を続けられなかった。
————————
その夜、宿の一室で、エレナはベッドに座り込んだまま、しばらく動かなかった。
(あの子は、今頃どうしてるんだろう。あの子のお父さんは……)
考えても、答えの出るはずもない問いが、頭の中をぐるぐると巡っていた。
これまで、エレナが冒険者を続ける理由は、いつだって明確だった。両親が遺した、大金貨五百枚ほどにもなる借用書。それを完済することは、父と母が愛し合っていた証を、自分の手で完成させることだった。
だが今日、あの少年の震える声を聞いた瞬間、そこに何か別のものが重なった気がした。理由もなく住処を追われ、父親と引き離され、それでも誰も迎えに行ってくれない――そんな理不尽が、今この瞬間も、自分の知らないところで積み重なっている。
(私は、あの子より強い。……でも今日は、何もできなかった)
拳を握りしめても、その苛立ちの行き先は見つからなかった。借用書を完済することは、両親への想いに変わりはない。それでも、今日という日は、その先にあるはずの何かへ、彼女の中の小さな針を、確かに動かした気がした。
(父さんだったらきっと「エレナ、いくぞ」ってすぐに向かってた。それだけの力があった。でも私は……)
「エレナ?」
扉の外から、ローワンの声がした。
「大丈夫? ……あの、無理に元気出さなくていいから」
「うん……。ちょっと待って」
エレナは、涙の跡を袖で拭うと、努めていつも通りの声を作った。
「大丈夫だよ。ちょっと、色々考えてただけ」
扉を開けると、ローワンとユリウスが、心配そうな顔でそこに立っていた。二人の顔を見た瞬間、エレナの中に、ふっと小さな温かさが灯る。
「……ありがとう、二人とも。今日、止めてくれて」
「エレナ、そんな……」
気遣うように名を呼んだローワンを、エレナは軽く首を振って遮った。
「ううん、いいの。あの時、走り出してたら、絶対に後悔してた。……ローワンとユーリが止めてくれなかったら、きっと私、今頃もっとひどいことになってたと思う」
エレナは、いつもより少しだけ大人びた顔で、小さく笑った。
「私にできることは、今はまだ少ない。……でも、いつか。もっと強くなって、もっと遠くまで手が届くようになったら――今日みたいなことに、私は間に合いたい」
その言葉に、ローワンとユリウスは、しばらく黙って顔を見合わせていた。それから、どちらからともなく頷いた。
「うん。……僕も、そう思う」
「私も、同じです」
三人は、それ以上多くを語らなかった。ただ、その夜、月見草の灯火の胸の内には、これまでとは少しだけ違う灯が、静かに点っていた。
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