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Ep.1-2 奇妙な借用書

ギルドでの騒ぎがようやく収まった頃には、外はすっかり夕暮れに染まっていた。橙色の光が石畳を照らし、行き交う人々の影を長く伸ばしている。三人はそれぞれの足取りで、見慣れた「我が家」への道を辿った。


宿の食堂に足を踏み入れたエレナが、ふと足を止めた。


「あれ、ユーリ?」


当然のようにテーブルの椅子に腰掛けていたユリウスと、目が合う。


「……エレナ、まさか気づいていなかったのですか。私は、この宿の下宿人ですが」


「え、そうなの!? ローワンは知ってた!?」


「え、あ……えっと……」


心底驚いた顔のエレナと、記憶を辿るように首を傾げるローワンに、ユリウスのほうがむしろ落ち着き払っていた。


「ローワンが、宿の息子さんだということは存じ上げていましたよ。エレナが長くこちらに滞在していることも。……もっとも、まさかローワンまで冒険者登録するとは、想定外でしたが」


「なんであんたらが気づかないのさ……。まあ、無理もないか」


厨房から顔を出したロゼッタが、呆れたように笑う。


「あんたは毎朝ぎりぎりまで寝てるし、ユリウスは日が昇りきる前にはもう街に調べ物へ出てっちまう。おまけに朝食を運ぶのはあたいの役目で、この子は専ら厨房担当。お客さんの顔と名前まで、いちいち覚えちゃいないのさ」


「あ……確かに、厨房から見かけたことはある気がする……」


ローワンが気まずそうに頭を掻いた。


「そういうことだったんだ……」


エレナは納得半分、まだ驚き半分の顔で、ユリウスの向かいにどさりと腰を下ろした。


「さ、今夜はめでたい門出祝いだ! たんと食べていきな!」


ロゼッタの号令とともに、木製のテーブルにはロゼッタ特製の野菜シチューと、焼きたてのパンが並んだ。湯気が立ち上るたび、香草の匂いが食堂いっぱいに広がる。今日一日の疲れが、その匂いだけで少しほぐれていくようだった。御裾分けのパンにありつけた他の宿泊客たちにも歓声が沸く。


「かんぱーい! お疲れ様、みんな!」


エレナの音頭で、四人はそれぞれの杯を軽く合わせた。ローワンは果実水、ユリウスは薄めた葡萄酒、エレナとロゼッタは遠慮なく麦酒の泡を揺らしている。


「それにしても、ゴブリン五体丸ごとだなんてねぇ」


ローワンが感心したように言うと、ロゼッタはくすりと笑った。


「まあ、あたいからすりゃ驚きゃしないけどね。エレナは物心つく前から、ベルンにくっついてあちこちの死線を見てきたんだ。今更ゴブリン五匹くらいで音を上げるわけないさ」


「ちょっと、ロゼさん、そういうのは私があとでこっそり自慢するところなんですけど」


エレナが唇を尖らせると、ロゼッタは肩をすくめて笑うだけだった。


ユリウスは、杯を置いてから、居住まいを正してロゼッタに向き直った。


「改めて、いつもお世話になっております。これほどお安くお部屋を貸していただけて、大変助かっております」


「水臭いこと言うんじゃないよ。まだ半月かそこらの付き合いだけどさ」


「今回の新人研修に合わせて、半月ほど前からこちらに厄介になっております。事前の情報収集や準備には、それくらいの余裕を見ておきたかったので」


誰にと言うわけでもなく、ユリウスは語り始めた。


「……お恥ずかしい話、実家に王都の支店があった頃は、こういった宿にお世話になることもなかったのですが」


道すがら実家の話は特にしていなかったので、ロゼッタとローワンにとっては初耳の話だったが、ユリウスは変わらぬ口調で続けた。事業に失敗して没落する前、彼の生家は王都にも店を構えるほどの商家だったのだという。今は親戚の家に身を寄せ、独力で学費を稼ぎながら、家の再興を狙っている。


「今は贅沢を言える立場でもありませんし、当面は学費を貯めるべく冒険者として活動するつもりです」


そう言って苦笑する横顔には、悔しさよりも、むしろ前を向く芯の強さのほうが色濃く滲んでいた。


しばらくは他愛のない話が続いた。ローワンが震えながらも最後まで踏みとどまった話、講習でのユリウスの活躍、受付嬢の二度見――笑い声が食堂に満ちる中、ユリウスは黙々とシチューを口に運んでいた。一口すくうごとに、思わず唸りそうになる。野菜の甘みと香草の香りが、疲れた身体に染み渡っていく。


「……このシチュー、相当な腕前ですね。どこかで修行を?」


「あたいは十三の頃からずっとここで毎日料理してるからね! そりゃ嫌でも上達するさ」


ロゼッタは得意げに笑い、お代わりの皿を無言でユリウスの前に置いた。


そんな中、ふとローワンが箸ならぬスプーンを止めて、ぽつりと呟いた。


「そういえば、僕……森でゴブリンが出る前、実はちょっとだけ、茂みが動いたの見えてたんだ」


「え、そうだったの!?」


エレナが目を丸くする。ローワンは気まずそうに視線を泳がせた。


「う、うん。でも、絶対そうだって確信が持てなくて……。もし勘違いだったら、大騒ぎしちゃうし……。だから、黙ってた」


その一言に、ユリウスはスプーンを持つ手を止めた。


――ダードより先に、気配に気づいていた。


戦闘中、終始怯えて動けずにいたように見えたこの少年が、実のところ誰よりも早く異変を察知していた。にもかかわらず、確信の持てないまま声を上げて場を乱すことを恐れ、あえて沈黙を選んだ。それは、単なる臆病さとは違う。冷静さと、状況判断の慎重さだ。


(……この少年は、思ったより向いているのかもしれない)


ユリウスは内心でそう結論づけながら、しかし顔には出さず、小さく頷くだけに留めた。


「悪くない判断です。確信のない情報で不用意に叫べば、かえって混乱を招く場面もあります」


「え、そ、そうかな……」


思いがけない評価に、ローワンは照れくさそうに頭を掻いた。


「混乱しないように伝える方法を決めておかなかったのは、パーティーとしての落ち度です。改善していきましょう」


さらりと続けられたその一言に、エレナだけがふと目を止めた。


――次の研修も、その先も、当然のようにこの三人でやっていくつもりでいる。


そう言っているのと同じだ。エレナは口元に小さな笑みを浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。


一頻り笑いが収まった頃、ユリウスの意識は再び、別のことへと向いていた。




――エレナの借金は、何かがおかしい。




商家に生まれ育った者の勘だ。相続した借金にしては、額が異常すぎる。しかも本人はそれを気にする素振りもなく、むしろ誇らしげにすら見える。何か違法な手段で背負わされたか、あるいは悪徳な貸主に騙されているのか。もしそうなら、この場で自分が解決してやれば、この規格外な新人冒険者に対して大きな貸しを作れる。今後長くパーティーを率いていく上で、これほど効果的な布石はない。


食後、湯気の残るシチューの皿が下げられた頃を見計らって、ユリウスは静かに切り出した。


「エレナ、先程の借金の件ですが」


食堂の喧騒が、わずかに静まる。


「差し支えなければ、その借用書を見せていただけませんか。もしや、悪質な貸付けを受けていらっしゃるのではと」


「ん、いいよ。ほら」


エレナはあっさりと、胸ポケットから古い羊皮紙を取り出した。四隅がすり切れ、幾重にも折り目が刻まれ、焚き火と煙草の匂いが染み付いた、奇妙な契約書。テーブルの上に広げられたそれに、ランプの光が黄色く落ちる。


差し出されたそれに目を通したユリウスの表情が、みるみる変わっていった。


「……債権者、エレナ。債務者、エレナ……?」


二つの異なる筆跡で、同じ名前が記されている。上に重なるように、幾度も書き換えられた跡があった。


「これは……どういうことですか。債権者と債務者が、同一人物……?」


「そうそう、私」


事もなげに頷くエレナに、ユリウスはしばし絶句し、それから震える声で立ち上がった。椅子が軋んだ音を立てる。


「お、おかしいでしょう! 自分が債権者なんだから、そのまま『完済済』とサインすれば終わる話ではないですか! わざわざ自分で自分に返済するなんて……狂ってますよ!」


「いいのよ、それで」


エレナは、あまりに屈託のない、それどころか誇らしげですらある満面の笑顔で言った。


「これが父さんとお母さんが愛し合っていた証なんだから。私はこれを完済することで、その愛が完成するってわけ!」


その笑顔の前に、ユリウスは続く言葉を失い、ゆっくりと椅子に腰を落とした。


「まったく理解できません……借用書が愛の証……? 何がどうなったらそんな事になるんですか……?」


そしてその隣で、ローワンは今まさに泡を吹きそうな勢いで固まっていた。


「え、え、ちょっと待って、そんな話、僕、聞いてない……! 母さんも知ってたの!?」


「あんたには言ってなかったっけ。まあ、詳しい話はエレナに聞きな」


平然と割り込むロゼッタに、ローワンはがくがくと椅子に座り直した。


エレナは羊皮紙を丁寧に折りたたむと、胸ポケットに戻し、それから麦酒の杯を両手で包むように持った。ランプの炎が、その横顔をゆらゆらと揺らしている。


「じゃあ、話そっか。父さんとお母さんの話」


窓の外では、遅い時間の街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。


「私のお母さん――ヴィオラは、三百年以上生きたエルフだったの。森の警備をしてる時に、人間の人攫いに捕まってね。奴隷として、娼館に売られたんだって」


「しょ、娼館……」


その一言に、ローワンの顔が瞬く間に真っ赤に染まった。


食堂の隅、他の宿泊客たちのテーブルからも、ふと会話が止む気配があった。


「……おい、ヴィオラって、まさかあの『ヴィオラの館』か?」


「俺、昔一回だけ入ったことあるぜぇ。あすこは今でも王都で一、二を争う名店だ」


「ウルセ! いま良いとこなんだから黙ってろ!」


冒険者たちの間では、ヴィオラの店に通ったことがあるというだけで、ちょっとした自慢話になるらしい。エレナはそんな野次にも慣れているのか、気にする様子もなく淡々と続ける。


「長いこと客を取らされて、それでも生き延びて、時代が変わって法律も変わって、ようやく自分を買い戻せたの。でも、その頃にはもう、人間界での生き方しか知らなくなってた。だからそのまま娼館に勤めて、経営が傾いた時には自分で買い取って、女主人になった」


淡々とした語り口には、恨みも憐れみもなかった。ただ、事実をそのまま受け止めて飲み込んできた者だけが持つ、静かな重みがあった。


「そこに、うちの父さん――ベルナルドが客として来たの。田舎から出てきたばかりの十五歳。先輩冒険者に担がれて連れてこられただけの、うぶで世間知らずな子供。それなのに三日後、なけなしの全財産を抱えて、また戻ってきて、お母さんを『身請けしたい』って言い出したんだって」


「随分と、無鉄砲な話ですね」


ユリウスが眉を寄せる。エレナはくすりと笑った。


「でしょ。お母さんもそう思って、からかい半分でとんでもない金額をふっかけたの。大金貨三百枚。当時の父さんの寿命が三回尽きても払えない額。それでも父さんは『稼ぐ、絶対返す』って、まっすぐな目で言い切った。お母さんはそれが面白くなって、店を畳んで、債権者として父さんについて行くことにしたの。そこから始まったのが、この借用書」


隅のテーブルから、微妙な沈黙が漂った。


「……あれ? 店を畳んだって……じゃあ今の『ヴィオラの館』は……?」


「知らねえほうがいいこともあるんだよ、きっと」


誰かが小声でそう呟き、それきり誰もその話題には触れなかった。


シチューの湯気はもう消えていたが、テーブルを囲む四人は、誰も席を立とうとはしなかった。


「二人は無我夢中で戦った。危険な討伐、国境紛争、誰も行きたがらない死線。父さんは借金を返すためだけに剣を振るって、お母さんはその隣で魔術を放ち続けた。……それが二十五年も続いたの」


「二十五年……」


ローワンが小さく呟く。エレナは頷いた。


「その間に、二人はいつの間にか国中に知られる凄腕のコンビになってた。でも、お母さんの魔力は、人間の街で暮らすうちにどんどん濁っていって……。エルフとしての寿命を保てなくなってたの。そして、大きな戦いの前夜に、お母さんは父さんに言ったんだって。『私が老いて醜く崩れ落ちる前に、抱いてくれない?』って」


ローワンの顔が、今度は別の意味で赤くなった。ロゼッタだけは、既に何度も聞いた話であるかのように、静かに目を伏せている。


「それから四年後、私が生まれた。お母さんは最後の力を振り絞って私を産んですぐ、父さんの腕の中で息を引き取ったの。……その時に、この借用書の債権者の名前が、お母さんから私に書き換えられた」


エレナは胸ポケットの上に、そっと手を置いた。


「父さんはそれから十五年、私を育てながら、ずっと第一線で戦い続けた。私が十五になった年に亡くなって……その時、債務者の名前も、父さんから私に書き換えられてた」


食堂に、しばらく静寂が落ちた。ランプの芯が、じりじりと小さな音を立てている。


「――だから、これは呪いでも罰でもないの」


エレナは顔を上げ、いつもの調子で笑ってみせた。


「父さんとお母さんが、命懸けで積み上げてきたものの証拠。娼館に売られたお母さんと、それでも構わず全部を懸けた父さん。二人が生きた分だけ、この紙には愛が書き足されてる。私がこれを完済するっていうのは、二人の人生に『ちゃんと報われた』って結末をつけてあげることなんだよね」


語り終えたエレナの顔に、いつもの茶化すような色はなかった。ただ、まっすぐにその紙の意味を受け止めている、静かな強さだけがあった。


食堂に、しんとした静寂が落ちた。


その静けさを破ったのは、隅のテーブルで一人、すっかり出来上がっていた冒険者だった。


「う、うう……なんて話だ……なんて、いい話なんだ……」


酔いに任せて聞き入っていたらしいその男は、鼻を真っ赤にして、はばかりもなくすすり泣き始めた。連れの仲間たちが慌てて「うるせぇ、黙ってろ……!」と小声で宥めている。


エレナは思わず苦笑した。緊張していた空気が、その場違いな嗚咽のおかげで、いくらか和らいだ。


しばらくの沈黙のあと、ユリウスは静かに息を吐き、椅子に座り直した。


「……私は、商人の子として、それをそのまま納得するわけにはいきません」


「だろうねー」


「しかし、事情はわかりました。何か困ったことがあれば、私に相談してください。少しくらいは力になれると思います」


エレナは目を丸くしてから、にっと笑った。


「ユーリ、優しいじゃん」


「損得の話です」


そっけなく返しながらも、ユリウスの内心では、既に一つの結論が固まっていた。


理解できない考え方をする人間ではある。だが、どこからどう見ても善良で、その上冒険者としてのポテンシャルは規格外。おまけでついてくる幼馴染の少年も、頼りないだけで悪人ではなさそうだ。


――ならば、良好な関係を保っておいて損はない。


ユリウスはそう結論づけると、何事もなかったかのようにスプーンを取り、冷めきったシチューを口に運んだ。


そんな空気を吹き飛ばすように、エレナが勢いよく立ち上がった。


「よし! 湿っぽいのはこれでおしまい! さ、明日から本気で稼ぐよー! 目指せ、一年で大金貨百枚返済!」


「無理だよ!? というかまだ今日始まったばかりだよ!?」


すかさずローワンが叫んだ。


「無理じゃないもん、やる気の問題!」


「やる気の問題じゃないから借金なんだよ! ……というか一年で百枚って!十枚だって無理――」


「理論上は不可能ではありません」


さらりと会話に割り込んだのはユリウスだった。全員の視線が集まる。


「新人研修クエストの報酬単価から逆算すると、初年度は現実的ではありません。ですが、討伐依頼を受けられるようになり、かつ我々のこの戦闘能力を鑑みれば、中、大型討伐依頼を安定してこなせる段階に至れば、年間で大金貨五十枚程度の稼ぎは十分に射程内かと」


「ほら見て、ユーリもこう言ってるし!」


「都合のいいところしか聞いてないでしょ、それ! 五十枚だとしても十年かかるじゃん!」


「初年度から五十枚稼げるわけではありません。残念ですが、十年以上かかるでしょう」


ユリウスが至って冷静に付け加えると、ローワンは頭を抱えた。


「いや、そういう問題じゃ……そういう問題か……?」


ロゼッタが堪えきれずに噴き出し、豪快に笑い声を上げた。


「はっはっは! いいねえ、その意気だよ。……でも今夜のところは、まずゆっくりお休み。稼ぐのは明日からで十分さ」


「はーい」


素直に頷くエレナに、ローワンは深いため息をついた。だがその口元には、いつの間にか小さな笑みが浮かんでいた。


――――――――


店を閉め三人がそれぞれの部屋へと上がっていった後、食堂にはロゼッタだけが残った。片付けの手を止め、誰もいなくなったテーブルを見渡す。


息子と、娘。臆病で引っ込み思案なのを心配していた末っ子と、血の繋がりなど関係なくもう実の娘としか思えなくなっていたエレナの、あまりにも順調すぎる門出だ。危なっかしくはあるが、それぞれが自分の足で、ちゃんと前を向いて歩き出している。頼もしい仲間まで連れてきた。


「……もう一杯だけ、いいよね」


誰に言うでもなく呟いて、ロゼッタは自分の杯に、もう一度麦酒を注いだ。


窓の外では、夜がすっかり深くなっていた。食堂のランプの灯りだけが、一人残ったロゼッタを静かに照らしていた。

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