閑話 空虚な祈り
旅の道中、立ち寄った街には、大きな教会があった。
「ヴェルタ教の教会だな。懐かしいな、村にも小さいのがあった」
尖塔を見上げ、ベルンが呟く。ヴィオラは煙管を咥えたまま、興味なさそうに肩をすくめた。
「あなたにとっては、物心つく前から当たり前にある宗教なんでしょうけどね。私からすると、まだ若い信仰よ。ここ百五十年くらいでずいぶん勢力を伸ばしたものだわ」
「そう考えると、ヴィオラの生きてきた時間の長さの実感が湧くな」
「あら、今更?」
くつくつと笑いながらも、ヴィオラは煙管の灰を落とし、さっさと教会の扉へと足を向けていた。
――――――――
礼拝堂の奥、ちょうど怪我をした行商人が担ぎ込まれてきたところだった。腕を深く切った男を前に、白い法衣を纏った若い神官が、両手を怪我の上にかざす。
既にかなり血を失っているのか、顔面は既に蒼白だった。
「〈慈悲深きヴェルタよ、生ける者に宿りし傷を、その御手にて癒したまえ――〉」
長々と続く祈りの文句に、ベルンは思わず眉を寄せた。神官の詠唱は、聞いたことのある定型句を何重にも重ねながら、なかなか核心にたどり着かない。ようやく終盤にさしかかったところで、聞き覚えのある一節が繰り返され始めた。
「〈――アニマ・ヴェルタ、アニマ・ヴェルタ、アニマ・ヴェルタ……いま一度、アニマ・ヴェルタ……〉」
額に汗を浮かべながら、神官は何度も同じ言葉を唱え続ける。ようやく傷口がうっすらと光り始め、裂けた皮膚がゆっくりと、本当にゆっくりと閉じていく。すべてが終わる頃には、神官はふらつきながら壁に手をついていた。
「……遅いな」
ベルンが小声で漏らすと、ヴィオラは鼻で笑った。
「そうね。あれじゃ、深い傷は治りきる前に血が足りなくなるでしょうね」
その口調には、憐れみも侮蔑もなく、ただ淡々とした評価だけがあった。
――――――――
教会を出て、街道を歩き出したところで、ベルンがふと口を開いた。
「アニマ・ヴェルタ……神を称えよ、か。それで救われるなら、信じもするか」
「違うわよ」
あっさりとした否定に、ベルンは目を丸くした。
「え?」
「あれはただの詠唱。魔力回路を組み立てる手順を、そのまま声に出しているだけ。神様の名前でも何でもないわ」
「回路……? よく分からんな……」
「魔法の詠唱っていうのはね、術者の中で魔力の回路を組み立てるための、手順書みたいなものなの。慣れた仕事をするのに、毎回手順書を確認する人はいないでしょう。魔法だって同じなのよ。ただ、それに気づける者はほとんどいないから、みんな『詠唱こそが魔法の本質だ』と思い込んでる」
「そう……なのか?」
魔法を使えないベルンには、それが何を意味するのか、にわかには分からなかった。
「ヴェルタ教も、同じ誤解の上に建っているの。世間では、神聖魔法は一般魔法とは別のものだと考えられているけれど、全く一緒よ。回復魔法の魔術式が複雑だから、手順書が長くなるってだけ。じゃなきゃ、人間の神なんかこれっぽっちも信じてない私が使えるのはおかしいでしょう」
「じゃあ、なんでヴィオラは回復魔法を使えるんだ? エルフの精霊魔法とは違うんだろう?」
もっともな疑問だった。怪我や病を癒す魔法といえば、エルフのような妖精に近い亜人が使う『精霊魔法』か、ヴェルタ教の聖職者が神の奇跡を借りるという『神聖魔法』、そのどちらかだ。森との繋がりを絶たれたヴィオラに、精霊魔法を学ぶ機会などなかったはずだった。
「私がまだ奴隷身分だった頃、娼館に優しくしてくれた人間の先輩がいたの。殴られたり傷つけられたりするたび、その人が手当てしてくれたのよ」
「教会の関係者だったのか?」
「まさか。当時はヴェルタ教なんて名前も聞いたことなかったわ。あの子が使ってたのは、東の国から伝わる民間魔法。詠唱の代わりに、歌うのよ。……優しい歌だった」
どこか遠くを眺めるようなヴィオラの表情に、ベルンは珍しさを感じた。
「その歌を教わって、私も他の子の手当てを手伝うようになった。すぐに先輩より上手くなってね。……そのうち、旋律がなくても歌詞だけで発動することに気づいたの。旋律は、いわば安全装置。無くすと魔力はブレやすくなる代わりに、発動が強くなる。私は魔力の制御が得意だったから、旋律なんて要らなかった」
「歌詞だけ、か」
「ある夜、ひどく疲れていてね。傷ついた子を前に、歌詞を最後まで言い切れなくて、残りを頭の中で呟いたの。でも魔法はちゃんと発動したわ」
ヴィオラは煙管の先をじっと見つめた。
「気になって、ちょっとずつ口に出さないで暗唱に置き換えていってみたの。最終的には何も言わなくても頭の中で唱えるだけで発動することが分かった。その後、暗唱してる間に思い浮かぶ魔力回路そのものを、直接景色として思い浮かべるだけで発動できるようになったわ」
「景色?」
「そう、景色。歌詞すら、要らなかったのよ。口にするとき頭に浮かぶイメージさえあれば、それで十分。その景色を思い描くことこそが、魔力回路を組み上げるということそのものなのよ」
「……すまん、ついていけてない。要するに、その先輩の歌と、教会の手順書、両方を丸ごと覚えているから、想像するだけで瞬時に使える、みたいなことか?」
「まぁ、そう考えてもいいわ。覚えた後に変えちゃってるのだけどね」
「だからヴィオラは詠唱しないのか」
「口に出さなくても使えるのに、それを分かっていてわざわざ言葉にして詠唱するなんて、馬鹿げてるでしょう? あの教会の〈手順書〉なんて、民間魔法の歌よりも無駄だらけよ。そのままやるなんて効率悪いったらありゃしない」
「しかし、魔法がそんなふうに出来ているなんて理屈、俺は聞いたことないがな。ヴィオラしか知らないんじゃないのか」
「私以外にこれに気づいている人が一人もいないなんてことは無いと思うけど……。誰も指摘しないんだから、居もしない神様の力は絶大ね」
紫煙をくゆらせながら、ヴィオラはどこか興味なさそうに続けた。
「まあ……回路を組むための手順を、神様の言葉だと信じちゃうくらいじゃ、誰も気づいてないのかもしれないわね」
「辛辣だな」
ベルンはしばらく黙り込んだ。長年連れ添いながら、今更ながらに理解する。自分の借金取りは、そんじょそこらの神官よりもよほど、この世界の理を深く知っている女なのだと。
「……ヴィオラ、本当はとんでもない人だったんだな」
「あら、今更?」
ヴィオラはくすりと笑うと、煙管の先をベルンに向けた。
「あなたの借金取りが優秀で良かったわね? 感謝なさい。そしてちゃんと完済するのよ?」
「……わかってるよ」
ベルンは苦笑して肩をすくめた。
夕暮れの街道を、二人の影が長く伸びていく。教会の鐘の音が、遠くでかすかに響いていた。
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