Ep.2-11 落葉
ユリウスはほぼ毎日、朝の散策のついでにひとりでギルドに寄る。朝に張り出される依頼を確認し、職員や顔なじみに軽く挨拶するだけだが、日課のようになっている。
その日、早番でカウンターにいたミラが改まった様子で頭を下げた。
「この間の緊急依頼、本当に助かったわ。……ダードさんから聞いたけど、あなた、想像以上にとんでもないことしてたのね」
「大げさですよ。あの場面で最も合理的な対応をしただけです」
「合理的、ねぇ」
ミラはくすりと笑うと、カウンターに肘をついた。そのまま手をちょいちょいと振ってユリウスを近くに呼ぶと、顔を近づけ耳に手を当ててこっそりと耳打ちした。
「翡翠の剣のレンゾさんが、その日からずっと落ち込んでるって、ダードさんが苦笑いしてたわよ。十年以上も研鑽積んだ自分より、独学の新人の方が凄いんじゃ立つ瀬がないって。……実力で先輩を凹ませるなんて、大したものね」
いつもなら軽く受け流すところだった。だが、耳に掛かるミラの息とからかうような口調に、その日のユリウスは、なぜか妙にむず痒い気持ちになっている自分に気づいた。顔がすこし熱くなり、妙に動悸が強くなった気がした。
「……いや、そんな……」
素っ気なく返しながらも、口元が緩みそうになるのを堪える。褒められ慣れていないわけではないはずなのに、この感覚には覚えがなかった。ミラの言葉一つで、こんなにも気分が浮つくというのは、これまでにない経験だった。
(妙ですね。なぜこんなに、嬉しいと感じているんでしょうか)
自問したところで、答えは出なかった。カウンターを離れてからも、その日はずっと、その違和感が胸の奥に居座っていた。
――――――――
年末が迫り、街が冬支度に慌ただしくなる頃、月見草の灯火の三人はたっぷり採取した素材の納品に来ていた。この時期は採取依頼の報酬が高くなるとあって、割の良い依頼は人気があり早い者勝ち状態だった。しかし月見草の灯火は、ユリウスの早朝確認により順調に受注できていた。
納品の確認作業を待っていると、ギルドの奥、カウンターの向こうが、突然の歓声に包まれた。
「おめでとう!」
「ミラさん、良かったですね!」
同僚職員たちに囲まれ、照れくさそうに笑っているミラの姿があった。花束めいたものを渡され、頬を赤らめながら受け取っている。何事かと足を止めた月見草の灯火の三人に、通りすがりの職員が興奮気味に教えてくれた。
「ミラさん、結婚するんですって!」
「え、そうなんですか!?」
エレナが声を弾ませる。ちらりとユリウスの方をみたが、ユリウスはいつもの表情をしていた。エレナは杞憂だったかと思ったが、当のユリウスはただ固まっていただけだった。
人だかりの中心で、ミラがこちらに気づき、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「あら、聞こえてた? そう、結婚することになったの」
「おめでとうございます!」
「ありがとう。……ああ、心配しなくても、仕事は辞めないから安心して。これからも、よろしくね」
朗らかに笑うミラに、エレナとローワンも口々に祝福の言葉を重ねた。周りの職員たちも、口々に祝いの言葉と、少しの冷やかしを投げかけている。いつもと変わらない、賑やかで温かい光景だった。
その輪の中で、ユリウスだけが、一拍遅れて言葉を発した。
「……おめでとうございます」
口にした言葉に、嘘はなかった。だが、思っていたよりも、するりとは出てこなかった。何かが喉の奥で、ほんの少しだけ引っかかったような、そんな感覚があった。周りの誰も、その一拍の遅れには気づいていないようだった。
「ふふ、ありがとう、これからもよろしくね」
いつも通りの受け答えができている、はずだった。だが自分でも、その声がどこか硬いことに、薄々気づいていた。
(……何なんでしょうか、この感覚は)
その違和感の正体を掴めないまま、その日は過ぎていった。
――――――――
宿の自室に戻り、一人になったところで、ユリウスは寝台の端に腰掛けた。
昼間の光景が、なぜか頭から離れなかった。ミラの笑顔、同僚たちの祝福、花束を受け取る照れくさそうな仕草、そしてそれを見ていた時の、あの喉の引っかかり。
(……まさか)
思い当たった可能性を、すぐには受け入れられなかった。頭の中で、いくつもの記憶が勝手に再生されていく。
(私は、ミラさんのことを)
言葉にした途端、これまでの記憶が、次々と繋がっていくような気がした。カウンターでの何気ないやり取りに、いつも少しだけ心が浮き立っていたこと。「私の可愛いイチオシ新人パーティー」と笑われた時の、あの落ち着かない感覚。他人からは事務的な対応だと思われていた、窓口係を買って出ていた理由。研修の日程を確認するだけの用事に、必要以上の頻度でギルドへ足を運んでいたこと。
一つ一つは些細で、取るに足らないと思っていたはずの記憶が、今になって、一つの意味を持って並び始める。
(……なるほど。これが、恋、というものだったんですね)
自分でも驚くほど、静かな納得だった。
初恋というものは、案外、こうして終わってから気づくものなのかもしれない。ユリウスはそんなことを、他人事のように分析していた。
(だとしても、私は今、彼女の幸せを喜ぶべきです。祝福すべき立場のはずです)
物語の中でなら、失恋した者は人目もはばからず涙するものだった気がする。だが、実際にはそんなものは流れてこない。案外、涙というものは出ないものなのですね、と、ユリウスは自分に言い聞かせるように、ひとりごちた。
そう思った矢先だった。
頬を、何かが伝った。
「……え?」
指先で触れて、初めて気づいた。涙だった。一筋、また一筋と、止める間もなく零れ落ちていく。
(おかしいですね。……大切な人が幸せなら、喜ばないと)
理屈では、そう分かっているつもりだった。それなのに、感情はまるで別の生き物のように、理屈に従おうとしなかった。込み上げてくるものを堪えようとすればするほど、喉の奥が締め付けられるように痛んだ。
(……あれ)
嗚咽を堪えるように、ユリウスは片手で口元を覆った。声を殺しても、涙は止まらなかった。
一人でよかった、と場違いなことを思う。エレナやローワンが、もしこの場にいたら。心配させてしまうだろうし、何より、うまく説明できる自信がなかった。
(こんな姿、エレナとローワンには、とても見せられませんね)
いつもの理屈っぽさで自分の感情を分析しながら、それでもどうにもならない涙を、ユリウスはしばらくの間、ただ静かに流し続けていた。
窓の外では、そろそろ落ち始めた紅葉した街路樹と夕日が街をほのかに茜く染めていた。
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