閑話 パンの匂い
その夜、ベルンがまだ幼いエレナを寝かしつけ終え、まだ開いているなら一杯もらおうと食堂におりたところ、食堂の片付けをしていたのは、ロゼッタではなくアルドだった。
「珍しいな。今日はロゼさんじゃなくてあんたか」
カウンターの隅の定位置に座ると、ベルンは自ら預けたボトルを取り出し、中身を杯に注いだ。
「……ロゼは熱を出した。寝かせてる」
皿を重ねながら、アルドは短く答えた。無駄のない手つきで洗い場に運び、水に浸けていく。動きだけを見れば、長年この仕事をしてきたようにしか見えない。
「へえ。あの頑丈なロゼさんが寝込むとはね」
「たまには、な」
素っ気ない相槌に、ベルンは苦笑した。深夜というほどでもないが、宿はもう静かで、洗い物の音と、ランプの芯が焼ける音だけが響いていた。
「アルド、前々から聞きたかったんだが」
杯を置き、ベルンはふと真面目な顔になった。
「あんた、俺がやるような荒事の勘、やけに良いよな。この前だって、俺が持ち込んだ壊れた盾の修理具合見ただけで、『こいつは槍じゃなく斧で削られたな』って言い当てただろ」
「……まあ、な」
「昔、何かやってたのか?」
洗い物の手が、一瞬だけ止まった。
「……冒険者だ。数年だけな」
「……通りで。まぁ、そんな気はしたがな」
アルドは淡々と続けた。
「実家がパン屋だった。親父が体を壊してから潰れて、田舎じゃ他にやることもなくてな。それで、王都に出て剣を持った」
「そこからどこまで行った?」
「ずっとソロでな、最後はC級だ」
「ソロ数年でC級……そりゃあ、大したもんだ」
素直な賞賛に、アルドは肩をすくめただけだった。目の前にいるベルンがそれよりはるかに早かったことを知っているからだ。
「何で辞めたんだ? もったいねえだろ、それだけ腕があったんなら」
問われて、アルドはしばらく黙っていた。皿を拭く手だけが、規則的に動いている。
「……飯が、美味かったんだ」
「ん?」
「定宿を決めずにあちこち泊まり歩いてた頃、たまたま寄った宿の飯が、やけに美味かった。特に、パンがな」
そこで一度言葉を切り、アルドは珍しく、少しだけ遠い目をした。
「実家の店を、思い出した」
短い沈黙が落ちた。ランプの炎が、小さく揺れる。
「それで、剣を置いたのか」
「ああ。あっさりとな」
「……その宿ってのは」
「ここだよ」
ベルンは目を丸くした。
「はぁ!? じゃあ、その飯を作ってたのって」
「……ロゼだ」
アルドの声が、心なしか小さくなった。
「当時ロゼはまだ十代だった。先代の下で、五年以上厨房を任されてたらしい。その若さで、大した腕前だった」
「へええ……」
ベルンはにやにやと笑いを堪えきれない様子だったが、アルドはそれに気づかないふりをして、皿を棚に戻す作業を続けた。
「この話、ロゼさんは知ってるのかい?」
「いや」
即答だった。
「知らんだろうな。俺が冒険者をやってたってのは、先代にすら言ってない」
「ロゼさんには言ってやればいいじゃねえか。喜ぶぞ、そんな話」
「……いいんだ」
アルドは布巾を握る手を止め、小さく息を吐いた。
「恥ずかしいしな」
存外に子供じみたその一言に、ベルンは一瞬固まったのち、ふっと息を吐き笑った。
「……まあな」
アルドは一瞬洗い物の手をとめてベルンの方をみたが、すぐにいつもの無表情に戻ると、また黙々と洗い物を続けた。
ベルンは杯に残った酒をゆっくりと飲み干し、アルドはその空になった杯を受け取ると、軽く濯いで常連用の棚に置いた。
「まあ、あんたがそれでいいなら、俺からは誰にも言わねえ」
「……ああ」
軽く肩をすくめると、ベルンはふと、二階の方へ視線をやった。エレナが眠っているはずの、小さな部屋がある方角だ。
アルドは全ての皿を拭き終え、食器棚の引き戸を閉めた。
「……閉めるぞ」
「おう」
ベルンが席を立つと、アルドはランプの一つを消した。薄暗くなった食堂に、もう一つのランプの灯りだけが、二人の影を長く伸ばしている。
「なあ、アルド」
二階の部屋に上がる階段に足が向かいかけたベルンが、ふと足を止めて振り返った。
「いつか、言えるといいな」
アルドは答えなかった。ただ、灯りを消す手を止め、しばらく黙って戸口の方を見ていた。
「……考えとく」
短い返事だけが、静まり返った食堂に落ちた。
ベルンはそれ以上何も言わず、軽く手を上げて二階への階段を上がっていく。残されたアルドは、最後のランプを消す前に、もう一度だけ、厨房の方へと目をやった。
――――――――
あの日、アルドは自身の口下手を押し切って、思い切って尋ねた。
「こ、このパンを焼いたのは、ここのご主人ですか……?」
「今日のパンは、あたいが焼いたやつだよ! そのスープもね!」
まだ幼さの残る顔に、得意げに笑顔を浮かべていた。アルドは驚いたが、その驚きを味わう間もなく、怒涛のおしゃべりがやってきた。
「上手いもんだろ? ここのご主人が最近体調を崩しがちでさ、手が足りないってんで最近はあたいがずっと厨房もやってるのさ。でも忙しくって! あんた行商か何かかい? 誰か、いいパン焼き職人みつけたらここに連れてきておくれよ!」
そのわずか数日後には、アルドはそこでパンの下拵えをしていた。
――――――――
今日はもう、厨房には誰もいない。ランプの消えた暖かな暗闇の中、微かにパンの匂いだけが残っていた。
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次話より第二章後半となります。
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