閑話 暇つぶし
本編から遡ること約45年前。
エレナの両親、ベルナルド(ベルン)とヴィオラの話です。
契約を交わしたその晩、ベルンは安宿の粗末な寝台に腰掛け、羊皮紙の感触がまだ指先に残っている気がして、ぼんやりと自分の掌を見下ろしていた。大金貨三百枚。自分のような何の実績もない若者がそんな大金を借りて、伝説とまで言われる娼婦を身請けした。自分の手で借用書に署名したくせに、いざ一人になってみると、実感はどこまでも遠くにあった。
そこへ、断りもなく扉が開いた。
「じゃあ、今日からよろしくね」
抱えの布包みを一つ提げ、当然のような顔でノックもなくヴィオラが入ってくる。思い浮かべていた顔が急に現れ、ベルンは弾かれたように立ち上がった。
「な、なんで部屋に!?」
「あら? 何を今更。今日からあなたの借金取りよ。四六時中見張っておかないと、寝てる間に逃げられちゃかなわないもの」
そう言って、彼女はさっさと部屋の隅に荷物を下ろしてしまう。ベルンは、その言葉の意味するところにようやく気づいて、顔を強張らせた。
「い、一緒の部屋に泊まるのか!?」
思わず声が裏返る。ヴィオラは片眉をわずかに上げ、面白がるように目を細めた。
「何をそんなに驚くことがあるのかしら。身請けするんじゃなかったの?」
からかうような、値踏みするような視線を寄越される。ベルンは耳まで赤く染め、口をぱくぱくと動かすことしかできなかった。
「そ、それは、その……」
「ふふ、いい反応ね。……坊やって、からかい甲斐があるじゃない」
満足げに笑うと、彼女は断りもなく寝台に腰掛け、細い脚を組んだ。ベルンはしばらくおろおろと狭い部屋の中をうろついていたが、やがて意を決したように、震える指で寝台を指し示した。
「お、俺は床で寝る。あんたが使ってくれ」
「あら、律儀なこと」
「あんたを買い取ったのは、その、そういうことのためじゃない。……ちゃんと稼いで、返す。それだけだ」
生真面目な物言いに、ヴィオラは一瞬だけ虚を突かれたように目を丸くしたが、すぐにくすりと笑い、寝台に横たわった。
「ま、いいわ。好きにしなさい」
そのまま興味を失ったように、あっさりと背を向けてしまう。ベルンは薄い上着を床に敷き、身を横たえた。硬い床の感触に到底眠れそうもなかったが、それでも不思議と、悪い夜ではない気がしていた。
薄闇の中、ヴィオラはしばらく寝返りも打たず、ただ天井を眺めていた。
(……この子、身請けの意味分かってるのかしら……)
据え膳を前にして指一つ触れず、律儀に床で丸くなっている背中を思い出すと、笑いがこみ上げてくる。三百年余りの退屈の底で、久しぶりに何かがざわついた気がした。もっとも、それが何なのか、彼女自身まだ気にも留めていなかった。
――――――――
それから半年ほど、奇妙な二人旅が続いた。
ヴィオラは基本的に、戦闘には一切手を出さない。討伐の様子を少し離れた木陰から、煙管を吹かしながら退屈そうに眺めているだけだった。労働の対価は請求していないでしょう、と嘯きながら、それでいてベルンの依頼の選び方には、彼女なりに目を光らせているようだった。何か裏がありそうな依頼を受けようとすれば「その依頼はやめときなさい」と鋭く言い当て、理由を尋ねても「これでも結構長く生きてるのよ、私」とはぐらかすばかりだった。
ヴィオラはそれまで、ベルンの前で自分の年齢を口にしたことは一度もなかった。歓楽街で幾多の男を手玉に取ってきた矜持からか、あるいは単に、人間から見たら若い姿の自分に見惚れているらしいこの少年に本当の年齢を悟らせたくないだけなのか。事実、伸びをするように陽光の下に立つと、その肌の張りも、瞳の輝きも、はるかに年下のはずのベルンよりよほど若々しく見えるのだった。
ベルンは元来、危なっかしい性根の割に、根は慎重な質だった。身の丈に合わない無茶な依頼には手を出さず、下調べを怠らず、確実に一つずつ討伐をこなしていく。危険度の低い依頼を積み重ねては、少しずつ借金を減らしていく――そんな地道な日々が続いた。
若い頃から慎重なベルンだったが、見立てが外れ魔物の群れに囲まれかけたことがあった。ベルンが剣を構えるより早く、ヴィオラが煙管を軽く振るう。次の瞬間、群れの半数が黒煙とともに消し飛んでいた。
「……今の、何をしたんだ?」
呆然と尋ねるベルンに、ヴィオラは煙管の灰を落としながら、興味なさげに答えた。
「さぁ?」
それだけだった。それ以上何も語る気がないことは、短い付き合いでもすぐにわかった。ベルンもまた、それ以上は追及しなかった。ただ、この借金取りが、ただの元娼館の女主人ではないことだけは、はっきりと理解していた。
――――――――
さらに半年が経った、ある依頼の日。
森の奥、地中に巣を作る中型の魔物――土食い蟲の群れを一掃する討伐依頼だった。ベルンはいつも通り、慎重に周辺を下見し、巣穴の位置と数を頭に叩き込んでから、一体ずつ確実に仕留めていった。
「今日は、随分と手際がいいじゃない」
木陰から見ていたヴィオラが、珍しく素直な感想を漏らす。
「褒めてくれるのか?」
「別に。ただの感想よ」
七体目を仕留め、残るはあと一体という頃、事は起きた。
最後の一体を追い詰め、地面に空いた巣穴の入り口へと剣を振り下ろした――その瞬間、足元の地面が、大きく沈んだ。長年、蟲たちが掘り進めていた巣穴の網が、ちょうどその一撃をきっかけに、連鎖的な崩落を起こしたのだ。誰にも予測できない、地中の空洞の連鎖だった。
短い悲鳴すら上げる間もなく、ベルンの身体が崩れた土砂へと呑まれていく。
「――ッ、ベルン!」
ヴィオラの声が、初めて焦りを帯びた。だが彼女は、崩れゆく地面へと駆け出しはしなかった。代わりに、細い指先を土煙の中心へと向け、無数の見えない糸で吊り上げるように、ぐいと引く仕草をする。次の瞬間、瓦礫の中に半ば埋もれていたベルンの身体が、ふわりと宙に浮き上がり、崩落の圏外へと引き寄せられた。荷運びの魔法をこんな乱暴な使い方をする者など、誰も見たことがなかった。
安全な場所まで運ばれたベルンの脇腹から腰にかけて、突き出た木の根と鋭い岩の欠片が深々と切り裂いていた。慎重に立ち回った先で、誰の落ち度でもない、ただの不運だった。
駆け寄ったヴィオラは、血に染まったベルンの身体を抱き起こした。その時にはもう、彼女の指先には、見たこともない色の光が灯っていた。森の精霊に祈るような、穏やかな緑の光ではない。もっと生々しく、直接的な、白銀に近い輝き。詠唱もなく、ただ彼女自身の魔力を、傷口へ押し込むように叩き込んでいく。引き裂かれた肉が、見る間に繋がっていく。精霊魔法による治療や、教会の神聖魔法でさえあり得ない速度だった。この世界に存在しないはずの光景が、ヴィオラの指先の下で、確かに起きていた。
やがて呼吸が安定したのを確かめると、ヴィオラは詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。娼館に奴隷として連れてこられ、傷つけられた自らを癒すために会得し何度となく使って改良された独自の回復魔法ではあるが、ここまで大きな死に直結するほどの傷に使ったのは初めてのことだった。自分でも自身の魔法がここまでに達していることを初めて知り、少し驚いた顔をした。だが、それも一瞬のことだった。すぐに、いつもの平静な顔に戻ると、彼女は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……まったく。まだ元金も回収できてないのに、勝手に死なないでちょうだい。利子だって、これから稼いでもらわなきゃ困るのよ」
意識を取り戻したベルンが、かすれた声で笑った。
「……悪い。心配、かけたな」
「死ぬなら、耳を揃えて完済してからにしてちょうだい」
そっぽを向いて言い放つヴィオラに、ベルンは深く追及することもなく、ただ素直に礼を言った。
「……ありがとう、ヴィオラ」
「……勝手に言ってなさい」
――――――――
それ以来、ヴィオラの立ち位置は、少しずつ変わっていった。木陰から眺めるだけだった彼女は、いつしか戦闘の傍らに立つようになり、危険な場面では躊躇なく魔法を放つようになっていた。もちろん、本人はそれを認めない。
「別に、あなたを助けてるわけじゃないわよ。私の貸付金が焦げ付くのが嫌なだけ」
「はいはい」
「その返事、生意気よ」
軽口の応酬は変わらないまま、二人の間合いだけが、少しずつ縮まっていった。けれど、それに気づいている者は、当の二人も含めて、まだ誰もいなかった。
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明日から第2章となります。
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