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Ep.1-10 初陣―後編

「うわああああああ!」


喉が裂けるかと思うほどの大声だった。


叫んだのは、恐怖を振り払うためか、それとも相手の気を引くためか。恐らくは、その両方だった。とにかく、何かを叫ばなければ足が止まってしまいそうで、ローワンは声の限りに吠えながら地面を蹴っていた。


その絶叫は、確かに届いた。


エレナへと剣を振り下ろそうとしていた五体目のコボルトが、びくりと動きを止め、声のした方へと顔を向ける。突然の乱入者に、その黄色い眼が驚愕に見開かれた。


その一瞬。ほんのわずかな、一瞬の隙。


ローワンの手には、いつの間にか鞘から抜き放たれたショートソードが握られていた。父アルドが納屋から持ってきた、使い古された古い剣。たった半月の間、裏庭でエレナに教わりながら振り続けた、あの剣だ。


(腰を落とす。重心をブレさせない。振りかぶらない、真っ直ぐに――)


エレナに何度も注意された言葉が、身体の方が勝手に思い出していた。頭で考えている暇はない。ただ、繰り返してきた動作を、そのまま再現するだけだった。


刃が、コボルトの脇腹を背中側から捉えた。


確かな手応え。だが、それは同時に、相手の反撃を許す距離まで踏み込んだということでもあった。


驚きから立ち直ったコボルトが、反転しながらボロボロの剣を薙ぎ払う。狙って振るわれたものではない、ほとんど反射のような一撃。


だが、間合いの内側にいたローワンには、それを避ける術がなかった。


刃こぼれだらけの鈍い刃が、左肩から胸にかけてを走った。


「――っ、あ」


熱い、と思った。痛みよりも先に、身体の内側から湧き上がるような熱を感じた。衝撃で息が詰まり、視界が白く飛ぶ。


倒れる。そう思った瞬間、頭のどこかで別の声がした。


(ここで倒れたら、エレナが)


倒れかけた身体を、震える足で無理やり支えた。歯を食いしばり、視界を取り戻す。


目の前には、脇腹を裂かれてよろめくコボルトの姿があった。こちらも無傷ではない。剣を持つ手が、明らかに力を失っている。


――今しかない。


ローワンは、残った力のすべてを乗せて、ショートソードを振り抜いた。


刃が、確かに肉を断つ感触があった。


五体目のコボルトは、短く呻き声を上げると、そのまま前のめりに崩れ落ちた。ボロボロの剣が、地面に転がって乾いた音を立てる。


そして――静寂が訪れた。


――――――――


「――ローワン!?」


背後の異変に、ようやく振り返ったエレナが目にしたのは、崩れ落ちるコボルトと、その手前で肩で息をしているローワンの姿だった。


白い霧が、風に流されて散っていく。遮られていた視界が晴れ、事態の全容が露わになった。


「え……なに、これ……」


状況が飲み込めず、エレナは立ち尽くした。


一方、誰よりも早く我に返ったのは、ユリウスだった。


「――索敵します」


短くそれだけ言うと、彼は既に走り出していた。エレナがまだ状況を飲み込めずにいる間に、周囲の茂み、薪の山の裏、小屋の中まで、素早く視線を走らせていく。


(四体という数字が外れた以上、五体で確定している保証もない)


斥候の報告は完璧ではなかった。ならば、これで全てだと決めつける根拠もない。仮に六体目がいて、今この瞬間に牙を剥かれれば――エレナは動揺し、ローワンは負傷している。もう一撃を受け止められる余力は、このパーティーのどこにも残っていない。


その最悪の想定を潰すまで、気を抜くわけにはいかなかった。


倒れているコボルトを一体ずつ見て回り、薪の山を蹴り崩し、小屋の中まで踏み込んで確認する。数分にも満たない時間だったが、その一つ一つの動作に、迷いはなかった。


「……周辺に、他の反応はありません。五体で全てです」


戻ってきたユリウスの声に、ようやく肩の力が抜ける。


その様子を横目に見ていたローワンは、痛みに顔をしかめながらも、密かに息をついていた。


(――そうだ、まだ他にいるかもしれないんだった)


自分では、そこまで頭が回っていなかった。エレナの悲鳴じみた声にも、傷の痛みにも気を取られて、周囲を警戒する余裕などなかったのだ。だが、ユリウスは違った。誰に言われるでもなく、真っ先にその可能性を潰しに動いていた。


(ちゃんと、見てくれてる人がいる)


その事実だけで、強張っていた身体から、少しだけ力が抜けた気がした。


安全が確認されたのを見届けてから、エレナが崩れ落ちるように駆け寄ってきた。


ローワンの左肩から胸にかけて、革の上着が斜めに裂けていた。裂け目から滲み出た赤が、じわじわと布地を染めていく。


「……ローワン、それ」


エレナの声が、震えた。


「あ、これ? 大丈夫、大した怪我じゃないよ」


振り返ったローワンは、いつも通りの――いや、いつも通りに見せようとした、少し引きつった笑みを浮かべていた。


「かすっただけだから。ほら、動けるし」


そう言って、証明するように腕を上げてみせる。だが、その動作の途中で、痛みに顔が歪んだ。


その瞬間だった。


「うわあああああん!」


エレナが、大声を上げて泣き出した。


「え、え、エレナ!?」


予想外の反応に、ローワンの方が慌てふためく。


「ごめっ……ごめんね、ローワンっ……! 私が、私が油断してたから……!」


しゃくり上げながら、エレナは崩れるようにその場に膝をついた。両手で顔を覆い、子供のように泣きじゃくっている。


「わ、私が気づいてれば……ローワンがこんな怪我することなかったのに……っ! 私、いつも先に飛び出して……余裕だと思って……!」


普段の快活さが嘘のような、剥き出しの号泣だった。ギルドで囲まれても、差別的な陰口を叩かれても、けろりと笑い飛ばしてきた少女が、今は幼子のように泣いている。


その様子を見ているうちに、不思議なことが起きた。


(……あれ)


痛みが、遠のいていく。


いや、傷が治ったわけではない。ただ、目の前で泣きじゃくるエレナをどうにかしなければ、という思いの方が、いつの間にか痛みよりも前に出ていた。


「ちょ、ちょっと待って、エレナ。落ち着いて」


ローワンは剣を鞘に戻し、痛む身体を庇いながら、しゃがみ込んでエレナと目線を合わせた。


「本当に大したことないんだって。血は出てるけど、深くないから」


「だってっ、そんなに血が……!」


「服が裂けたから派手に見えるだけだよ。ほら」


裂け目を少し広げて見せると、確かに、傷そのものは思ったほど深くはなかった。肩から胸にかけて浅く皮膚を裂いた裂傷と、剣の腹が当たったらしい打撲。血は出ているが、骨や腱に届くようなものではない。


「……ほんとに?」


「うん、本当。それより、エレナが泣いてる方が僕はびっくりしてるよ」


不覚にも、少し笑ってしまった。


つい先ほどまで、心臓が破裂しそうなほど怖かった。剣を振るう手が震えていた。だが今、目の前で泣いている幼馴染を宥めている自分は、驚くほど落ち着いていた。


「……ローワンが、死んじゃうかと思ったんだもん」


鼻をすすりながら、エレナが呟いた。


「うん」


「私、父さんもお母さんも、もういないのに」


その一言に、ローワンの胸が、ずきりと痛んだ。傷とは別のところが。


「……大丈夫。僕は、まだここにいるよ」


そう言うと、エレナはまた顔をくしゃくしゃにして、けれど今度は少しだけ落ち着いた様子で、こくりと頷いた。


――――――――


「……失礼します」


いつの間にか傍らに立っていたユリウスが、静かに膝をついた。手には、いつも携帯している応急手当の道具一式。


「傷を見せてください。まず消毒します。……少し、沁みますよ」


「あ、うん。お願い」


上着を脱がせ、生薬ベースの消毒薬を含ませた布で傷を清めていく。ローワンが小さく呻いたが、ユリウスの手つきは終始落ち着いていた。


「幸い、傷は浅いですね。骨にも達していません。ただ、打撲の方はしばらく痛むはずです。……傷は自然に治るのを待つしかありませんから、無理はしないでください」


止血布を丁寧に当て、包帯で固定していく。その手が、一度だけ、わずかに止まった。


「……申し訳ありませんでした」


ぽつりと、ユリウスが言った。


「え?」


「私の判断ミスです。偵察の際、薪の山の陰までは確認していませんでした。四体という数字を、私は疑わなかった。……ダードさんに、あれほど言われていたのに」


包帯を巻く手を再開させながら、彼は淡々と続けた。淡々としているからこそ、内側で渦巻いているものの重さが伝わってくるようだった。


「加えて、霧の魔法の選択も誤りでした。あの状況で足止めを優先した結果、風向き次第で味方の視界を奪うことまで想定していなかった。……私の魔法が、エレナの目を塞いだんです」


「ユーリ、それは」


「事実です」


エレナの言葉を、ユリウスは静かに遮った。


「私は、自分の作戦に穴がないと思っていました。三回の研修が、すべて順調に進んだから。……今日も同じだと、無意識に決めつけていた」


包帯を結び終え、ユリウスは深く息を吐いた。


「頭の中だけで完璧に見える作戦ほど、現場で足元をすくわれる。……そう言われていたのに、私は何も学んでいなかった」


しばらく、誰も何も言わなかった。


風が、崩れかけた炭焼き小屋の板を軋ませて通り過ぎていく。


やがて、ローワンが口を開いた。


「……あのさ。僕も、実は気づいてたんだ」


「え?」


「薪の山。なんか変だなって、ちょっと思ってた。でも、それが何なのか分からなくて、結局何も言わなかった」


ローワンは自分の膝に視線を落とした。


「前も同じだった。森でゴブリンが出た時も、僕は先に気づいてたのに、確信が持てなくて黙ってた。……また同じことしちゃった」


「それは」


「うん、分かってる。確信が持てないのに騒いだら、それはそれで危ないって。でも、今回みたいなことになるくらいなら、間違っててもいいから言うべきだった」


顔を上げたローワンの目には、悔しさと、それを乗り越えようとする意志が、はっきりと宿っていた。


「次からは、言うよ。『気のせいかもしれないけど』って前置きしてでも、ちゃんと言う」


その言葉に、ユリウスが頷いた。


「……それは、非常に有益な提案です。確信度に応じた報告の仕方を、パーティーの取り決めとして決めておきましょう。『確定』『可能性あり』『気のせいかも』の三段階で、報告の重みを共有する」


「うん、それいいね」


エレナも、涙の跡を拭いながら頷いた。


「あとさ、私。もう先走らない。……ううん、嘘。多分、また先走っちゃうと思う」


正直すぎる自己申告に、ローワンが思わず吹き出した。


「知ってる」


「だから、その時は誰か止めて。ちゃんと止めて。ローワンでもユーリでもいいから、『待て』って言って」


「……了解しました。全力で止めます」


「うん、僕も」


三人はそれぞれ、少しだけ照れくさそうに顔を見合わせた。


――――――――


討伐証明としてコボルトの耳を切り取り、五体分の死骸を埋める作業は、ローワンを座らせたまま、エレナとユリウスの二人で行った。


「僕も手伝うよ」


「だめ。傷が開くでしょ」


「そうです。今日のあなたは、既に十分すぎるほど働きました」


二人がかりで穴を掘り、五体のコボルトを埋めていく。土の匂いに混じって、微かな血の匂いが鼻をかすめた。三回の研修で、もう何度もやってきた作業だ。だが今日は、その手つきがどこか慎重だった。


最後の一体――ボロボロの剣を持っていた個体を埋める時、エレナがふと手を止めた。


「……あの位置にローワンがいなかったら、私、死んでたよね」


「そう……かもしれません……」


「ダードさんの言ってた意味、今やっと分かった気がする」


『しっかり怖がれ。慣れた頃が一番死にやすい』


あの時は、まだ実感が湧いていなかった。三回の研修は、どれも危なげなく終わった。強い自分、規格外だと褒められる自分。それが当たり前になっていた。


「私、怖がるの忘れてた」


「……私もです」


土を被せながら、二人は静かにそう言い合った。


――――――――


運よく乗れた帰りの馬車は、行きよりもずっと静かだった。


夕暮れの光が、車窓から斜めに差し込んでいる。ローワンは包帯を巻いた肩を庇うように座り、ユリウスは黙って窓の外を眺め、エレナは時折ローワンの様子を確認しては、また前に向き直っていた。


「……ねえ、ローワン」


しばらくして、エレナがぽつりと言った。


「なに?」


「かっこよかったよ、さっきの」


その一言に、ローワンの顔がみるみる赤くなった。


「え、あ、いや、そんなことは」


「本当だって。私、あの時、何が起きてるかも分かってなかったんだよ。ローワンが叫んでくれなかったら、絶対やられてた」


「……うん」


「ありがとね」


まっすぐな感謝の言葉に、ローワンは何と返していいか分からず、結局「うん」とだけ小さく答えた。だが、その口元は、隠しきれずに緩んでいた。


窓の外では、街道沿いの麦畑が、夕日に照らされて金色に揺れていた。


その光景を眺めながら、ユリウスは静かに考えていた。


――今日、我々は運が良かった。


もしローワンが動けなかったら。もし彼の一撃が浅かったら。もしあのコボルトが、もう一体いたら。いくつもの「もし」が、少しでも違う方向に転がっていたら、今日この馬車に座っている人数は、三人ではなかったかもしれない。


(……この程度で済んだのは、幸運でしかない)


商人の子として、彼は幸運を勘定に入れない癖がついている。運が良かったということは、次は運が悪いかもしれないということだ。


だが同時に、もう一つ確かなことがあった。


窓の外を見ながら、ユリウスは隣の二人にも聞こえるくらいの声で、静かに言った。


「……次は、もっとうまくやりましょう」


「うん」


「そうだね」


短い返事が二つ、返ってきた。


それだけで、十分だった。


――――――――


王都に着く頃には、すっかり日が暮れていた。


ギルドで討伐証明を提出し、報酬の大銀貨五枚を受け取る。受付嬢はローワンの包帯を見て一瞬眉をひそめたが、詳しく事情を聞くと、しみじみと頷いた。


「新人が最初の依頼で怪我なく帰ってくるほうが珍しいのよ。命があるなら、それが一番」


その言葉が、三人の胸に静かに落ちた。


宿に帰ると、玄関先でロゼッタが仁王立ちしていた。


「おかえり。……って、ローワン、あんたその肩は!?」


「あ、えっと、その」


「ちょっと待ってな、今すぐ手当ての用意する!」


「もう手当てしてもらったから大丈夫だってば!」


騒ぎを聞きつけたアルドも、奥から顔を出した。息子の包帯を一瞥し、それから静かに歩み寄ってくる。


「……父さん」


叱られるだろうか、と身構えたローワンの頭に、大きな手のひらが、ぽんと乗った。


「よくやった」


それだけ言うと、アルドは踵を返しかけた。だが、二歩ほど歩いたところで、思い出したように足を止め、振り返らずに付け加えた。


「……傷は、体の前にある方がかっこいいからな」


一瞬、その場の空気が止まった。


「……は?」


真っ先に声を漏らしたのはエレナだった。ローワンも、包帯の下の傷を思わず見下ろす。ロゼッタに至っては、口を半開きにしたまま固まっていた。


アルドは固まる三人とロゼッタを残し、さっさと厨房の奥へと姿を消してしまった。


「……ますます、謎になった気がする」


エレナがぽつりと呟く。


「うん、僕もそう思う」


ローワンが力なく頷いた。


その背中を見送りながら、ローワンは俯いた。肩の傷が痛んだ。恐怖の記憶も、まだ生々しく残っている。


だが、それ以上に――何かを、ちゃんと成し遂げた実感があった。


「……うん。ただいま」


誰にともなく呟いたその一言に、ロゼッタが「おかえり」と、少し涙ぐみながら答えた。


食堂には、いつも通りの湯気と、香草の匂いが満ちていた。

最後までお読みいただきありがとうございます!

第1章本編は、これで完結です。

明日は閑話としてヴィオラとベルンの話を投稿します。


第2章では、月見草の灯火の3人が大きく成長する予定です。

続けてお読みいただければ幸いです。


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