Ep.1-9 初陣―前編
夜明け前の空は、まだ薄墨を溶かしたような色をしていた。
宿の玄関先、朝靄の中に、既に旅装束姿のエレナが仁王立ちしていた。腰にはショートソードと、新たに加わった父の形見のナイフ。背には黒塗りの魔弓。そして右腕には、三日かけて打ち直された、くすんだ銀色のヴァンブレイス。
「エレナ、起きて――」
階段を降りてきたユリウスが、その姿を見て言葉を止めた。
「……失礼な! ちゃんと起きたもん!」
「これは驚きました。正直、部屋まで起こしに行く手間を計算に入れていたのですが」
「計算に入れないでよ!」
その後ろから顔を出したローワンも、目を丸くしている。
「エレナが僕より早く起きてるの、初めて見た気がする……」
「あんたたち、私のことなんだと思ってるの」
唇を尖らせるエレナに、二人は顔を見合わせて小さく笑った。
厨房の方から、ロゼッタが顔を出す。手には布に包まれた包みが三つ。
「ほら、持ってきな。パンと干し肉と、あとチーズも入れといたよ」
「わあ、ありがとうロゼさん!」
「エレナ、あんたはすぐ腹減らすんだから、ちゃんと食べるんだよ。ローワン、あんたは気を張りすぎて食べ忘れるから、休憩のときは無理にでも口に入れな」
母親らしい細やかな指示を受け取りながら、三人は包みを鞄に収めた。
その傍らで、いつの間にか厨房から出てきていたアルドが、無言でローワンの前に立った。
「……父さん?」
アルドはしばらく息子の顔を眺め、それから短く言った。
「いってこい」
「……うん。行ってきます」
それだけのやり取りだったが、ローワンの表情が、わずかに引き締まった。
朝一番の乗合馬車が出る停留所へ向かう道すがら、空はゆっくりと白み始めていた。まだ人通りのない石畳に、三人分の足音だけが響く。
「なんか、今までとちょっと違う感じするね」
エレナがぽつりと呟いた。
「研修とは違いますからね。今日は、我々だけです」
ユリウスの言葉に、ローワンが小さく喉を鳴らした。
「……メンター、いないんだよね」
「ええ。何かあっても、助けは来ません」
淡々とした事実の指摘に、三人の間に一瞬だけ、緊張した沈黙が落ちた。だが、それを吹き飛ばすように、エレナが明るく笑った。
「まあ、大丈夫でしょ! コボルトなんて、この前散々やったし」
「……そうだね。うん、大丈夫だよね」
ローワンも、自分に言い聞かせるように頷いた。
――――――――
乗合馬車に揺られること、およそ半刻。
早朝の便は乗客もまばらで、荷を抱えた行商人が二人と、街道沿いの村へ帰るらしい老婆が一人、それに三人の冒険者。木製の座席は硬く、車輪が石を踏むたびに尻に響いた。
「うわっ、と」
大きく跳ねた拍子に、ローワンが荷物を取り落としそうになる。
「大丈夫?」
「う、うん。……馬車って、思ったより揺れるんだね」
「乗ったことなかったの?」
「あんまり。街から出ること自体、そんなになかったから」
窓の外を流れていく景色を、ローワンは物珍しそうに眺めていた。王都の外壁を抜けると、視界が一気に開ける。一面の麦畑、点在する農家、遠くにうっすらと霞む丘陵。生まれてからずっと宿の中で生きてきた少年にとって、この光景は新鮮なものだった。
「私は小さい頃、父さんによく連れ回されたなあ。討伐に行くときも、荷物持ちがてらついて行ってさ」
エレナが懐かしそうに目を細める。
「馬車の中で寝ちゃって、起きたら日が暮れてたり」
「エレナらしいですね」
ユリウスがそう言いながら、膝の上に広げた地図に目を落とした。今日の目的地までの道のり、周辺の地形、想定される所要時間――出発前に頭に入れたはずの情報を、彼はもう一度確認している。
「ユーリって、いつもそうやって準備するよね」
「不確実な要素は、できる限り潰しておきたいので」
「感心する。私、当日になってから考えるタイプだもん」
「知っています」
即答されて、エレナは「ちょっと」と唇を尖らせた。
御者が「この先は歩きだよ」と告げた地点で降りると、そこは街道の分かれ道だった。標識代わりの朽ちた木杭が一本、傾いたまま突き立っている。
そこからさらに小一時間ほど、街道を東へ逸れた細い道を歩いた。周囲は次第に人の気配が薄れ、代わりに背の高い雑木林が両脇に迫ってくる。踏み固められた道は次第に細くなり、下草が足元を掠め始めた。
「この辺り、あんまり人が通らないみたいだね」
「元々街道としても人通りがそれほど多くなかったですし、薬草類の採取にも遠いですしね」
「それに魔物の駆除依頼の報酬が微妙で、放置されがち、と」
「そういうことです」
ユリウスが手元の地図と周囲の地形を照らし合わせながら言った。
「そろそろですね」
やがて木立の切れ間から、目的地が姿を現した。
放棄された炭焼き小屋。屋根の一部は既に崩れ落ち、壁板も所々剥がれている。かつて使われていたらしい炭焼き窯は、煤にまみれたまま口を開けていた。小屋の周囲には、朽ちかけた薪の山がいくつか無造作に積まれたまま放置されている。人の手が入らなくなって、もう何年も経っているのだろう。
風が吹くたび、剥がれかけた板が軋んだ音を立てた。
「……なんか、不気味なとこだね」
ローワンが小声で呟く。
「では、周辺の様子を確認してきます。二人は、ここで待機を」
そう言い残し、ユリウスは木立の陰に身を隠しながら、小屋の周囲をぐるりと回り込んでいった。
しばらくして戻ってきた彼の表情には、余裕が滲んでいた。
「目視できる範囲で、コボルトは四体。小屋の周辺に散らばっています。統率しているような個体は見当たりませんし、見張りを立てている様子もありません」
「じゃあ、組織的な反撃は?」
「ないでしょうね。前回の研修で相手にした群れよりも、明らかに練度が低い。数も少ないですし、危なげなく片付けられるかと」
「そっか、じゃあ楽勝だね」
エレナが軽い調子でそう言うと、ユリウスも異論はなさそうだった。
「順当にいけば、そうなります」
三回の研修で、コボルト相手の戦い方は既に身体に染みついている。相手の癖も、逃げ込む先も、大体の見当がついていた。
これまでの成功体験が、三人の中に確かな手応えを作っていた。そしてそれは同時に、ほんのわずかな気の緩みでもあった。
――だが、この時の三人は、そのことに気づいていなかった。
「じゃあ、いつも通りでいこっか。私が前に出て、ユーリが足止め。ローワンは索敵と、逃げた個体の誘導ね」
「了解です」
「うん、わかった」
エレナは腰のショートソードを抜き、刃の具合を確かめた。親方に研ぎ直してもらったばかりの刃は、朝の光を鋭く弾く。柄の握りも新しく作り直されていて、手にしっくりと馴染んだ。
右腕のヴァンブレイスを軽く叩き、留め具の締まり具合を確認する。問題ない。
ローワンもまた、腰のダガーと、そして父から譲り受けた古いショートソードの位置を直した。半月の間、裏庭でエレナに教わりながら振り続けた剣だ。まだ実戦で使ったことはない。使う場面が来ないことを、正直なところ願っていた。
ユリウスは指先で軽く空気をなぞり、魔力の流れを確かめている。彼にとってはこれが儀式のようなもので、詠唱を省く彼の術式には、事前に感覚を研ぎ澄ませておくことが欠かせなかった。
「一つ確認ですが」
不意に、ユリウスが口を開いた。
「撤退の判断基準を決めておきましょう。想定外の事態が起きた場合、あるいは誰かが負傷した場合は、即座に離脱します。異論は?」
「ないよ」
「僕も」
「では、離脱の合図は前回と同じく、笛を二回。……まあ、必要ないとは思いますが」
その最後の一言に、深い意味はなかった。ただの気休めのような、軽い言葉。
三人はそれぞれの得物を確かめ、静かに小屋へと近づいていった。
――――――――
戦闘は、拍子抜けするほど順調に進んだ。
最初の一体は、小屋の裏手で日向ぼっこでもするように寝そべっていた。ローワンが手信号でその位置を伝え、エレナが音もなく距離を詰める。下草を踏む足音すら立てない。コボルトが異変を察して顔を上げた時には、既に刃は振り下ろされていた。抵抗する暇も、鳴き声を上げる間もなく、その体は地面に沈んだ。
「二体目、小屋の正面!」
ローワンの声が飛ぶ。
異変に気づいた二体目が、甲高い鳴き声を上げながら飛びかかってきた。爪を振りかぶり、獣じみた勢いで突っ込んでくる。だが、エレナはそれを慌てず見極め、半歩だけ身を退いて空を切らせた。伸びきった腕の内側へ滑り込み、返す刃で喉元を薙ぐ。
すれ違いざま、もう一方の爪が右腕を掠めた。
キン、と甲高い音が鳴る。
(――ちゃんと効いてる)
ヴァンブレイスが、コボルトの爪を弾いていた。衝撃は伝わったが、痛みはない。親方が三日かけて打ち直してくれた腕甲の感触に、エレナは内心で小さく笑った。動きを邪魔しない重さ、腕にぴたりと沿う留め具。防具というものが、これほど心強いものだとは思っていなかった。
(親方、ありがとう)
「三体目、小屋の陰に逃げました!」
「任せて!」
エレナが駆け出すのと同時に、ユリウスが手を掲げた。詠唱はない。指先から流れ出た白い霧のような魔法が、逃げるコボルトの足元へと這うように広がり、その動きを鈍らせる。もつれた足で転びかけたその背中に、追いついたエレナの剣が届いた。
「これで、三体目!」
残るは、あと一体だけ。
ここまで、傷らしい傷は一つもない。エレナは軽く息を整えながら、この調子なら昼前には終わるかもしれない、と考えていた。
最後の一体は、小屋の入り口付近で、明らかに怯えたように後ずさっていた。仲間が次々と倒される様を見ていたのだろう。その小さな体は、細かく震えている。
「もうちょっとだね」
エレナは息を整え、ゆっくりと距離を詰めていく。
その背後、少し離れた場所で、ローワンは周囲へと視線を巡らせていた。小屋の裏手、雑木林の際、そして――積まれたままの薪の山。
(……なんだろう、この感じ)
胸の奥に、小さな引っかかりがあった。何かを見落としているような、それでいて、それが何なのか掴めない感覚。父アルドに言われ続けてきた「よく見て、よく聞け」という言葉が、頭の中で反響する。
だが、その正体を確かめる前に、事態は動いた。
「これで、四体目――」
エレナが、最後の一体へと踏み込んだ。ショートソードが振り抜かれ、確かな手応えとともに、四体目のコボルトが崩れ落ちる。
その、まさに瞬間だった。
小屋から少し離れた、朽ちた薪の山。積み上げられた木材の隙間、暗い影の中で、何かが動いた。
「――!」
ローワンの喉が、ひゅっと音を立てた。
薪の陰から、五体目のコボルトが滑り出るように姿を現していた。
他の個体とは、明らかに違う。体格は一回り大きく、動きに無駄がない。そして何より――その手には、どこかで拾ったのだろう、刃こぼれだらけのボロボロの剣が握られていた。
武器を持つ個体。ユリウスの偵察では、確認されていなかった存在だ。
(――四体、じゃなかった)
ローワンの頭が真っ白になりかける。だが同時に、さっき感じた胸の引っかかりの正体が、今更のように腑に落ちた。薪の山。あの不自然に積まれたままの木材の陰。自分は確かに、あそこを見ていたはずなのに。
そのコボルトは、剣を振り抜いた直後で体勢の崩れているエレナの背中へ、まっすぐに駆け出していた。
「エレナ、右――!」
ユリウスが叫びかけ、そして、その声が喉の途中で凍りついた。
風が、吹いた。
先ほど三体目を足止めするために放った、白い霧の魔法。役目を終えて薄れかけていたその残滓が、風に流されて、ちょうどエレナと五体目のコボルトの間を横切るように漂っていた。薄く、しかし確実に、視界を遮る白い帯。
エレナの位置からは、迫り来る五体目の姿が、完全に隠されている。
だが、側面にいたユリウスと、後方で索敵していたローワンからは――はっきりと、見えていた。
(私の魔法が)
ユリウスの背筋を、冷たいものが走り抜けた。効率よく足止めするために放った、あの霧。それが今、味方の視界を奪っている。
思考が、一瞬で回転する。距離、風向き、術式の展開速度、自分がここから動いた場合の到達時間。あらゆる選択肢を計算しても、答えは同じだった。
(――間に合わない)
魔法を組み上げる時間はない。声を上げたところで、エレナが振り返り、状況を認識し、剣を構え直すまでの時間が足りない。彼我の距離は、既にコボルトの間合いに入りかけている。
指先が、動かなかった。頭では理解している。今すぐ何かをしなければならないと。だが、身体が、その「何か」を見つけられずにいる。
その事実を、ローワンもまた、同じ瞬間に理解していた。
(声をかけても、間に合わない)
エレナは強い。誰よりも強い。でも今、その背中は完全に無防備だった。四体目を仕留めた直後の、剣を振り抜いた体勢のまま。振り返る時間も、構え直す時間もない。
(――やっぱり、防具を買っておけば)
場違いな考えが、頭の片隅をよぎりかけた。あの日、工房で見た革の胸当て。手が届かず、諦めた自分。もしあの時、無理をしてでも何か身につけていれば――
いや、違う。今、そんなことを考えている場合じゃない。
ローワンは奥歯を噛みしめ、逃げようとする思考を無理やり引き戻した。防具があろうとなかろうと、目の前で起きていることは変わらない。今、動けるのは自分しかいない。
三回の研修で、ダードに何度も言われた言葉が蘇る。
『しっかり怖がれ。慣れた頃が一番死にやすい』
『まずはしっかりと怖がれるように。次は、怖さを忘れずそれでも身体が動くように』
怖い。心臓が痛いほど鳴っている。足が震えている。喉がからからに渇いて、うまく息ができない。
自分が飛び出したところで、勝てる保証などどこにもない。あんな剣を持った個体を相手に、半月ばかり素振りをしただけの自分に何ができるというのか。
それでも――
エレナが、死ぬ。
そう思った瞬間、ローワンの足は、既に地面を蹴っていた。
薪の陰から飛び出したコボルトの剣が、白い霧の向こうで、エレナの背へと高々と振り上げられていた。
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